2019年1月16日水曜日

八佾 第三 19

【その19】

定公ていこう問う、君臣きみしんを使い、臣君につかうること、之を如何いかん、と。孔子こたえて曰く、君は臣を使うに礼を以ってし、臣は君に事うるに忠を以てす、と。



【口語訳】

定公が孔子に尋ねた。君主はどう臣下を使えば良いのだろうか?臣下はどう君主に仕えれば良いだろうか?、と。孔子が答える。君主は臣下を礼を以って遇するが良く、臣下は君主に真心をもって仕えるのが良いでしょう、と。



【解説】

定公は孔子が40代から50代の頃の魯の君主で、孔子を最終的には宰相代理にまで抜擢してくれた君主である。当時の魯は陽貨の反乱によって、長らく専横してきた三桓氏の力に衰えが見えた時期ではあったが、依然として三桓氏が実権を握っており、定公には実権がなかった。だから、定公はその事を憂慮したはずだ。三桓氏の力に陰りが見えてきたわけだし、この機会に自分に実権を戻せないかと考えたとしても、政治力学的に不思議は無い。今回の一節は、そういう状況でなされた会話の記録と思われる。そう考えて見ると、主従関係のあるべき姿を問うた定公に対し、君主は臣下を礼を以って遇し、臣下は真心をもって仕えるのが良いという孔子の答えは、定公の琴線に触れる答えだったのでは無いだろうか?よくぞ言ってくれたと、気を良くしたに違いない。



1、君主は臣下を礼を以って遇すべき理由

君主に礼をもって遇されれば、それは自慢の種になる。自慢の種になれば、臣下は競ってでも厚く遇されたいと願う。そうすると、君主から何をしてもらったかで、臣下の中に自然と序列ができあがる。その序列の中心は、勿論君主となる。ここまでくると、臣下は自分の栄誉のために君主を守ったほうが良くなっているから、自然と結束が出来上がり、国がまとまる。例えば、こういった理由が考えられる。

逆に、礼を以って遇しなければ、臣下は小馬鹿にされた思いを抱くから、役に立たなくなるばかりか、裏切りのリスクすら高まってしまう。



2、裏切らせない事が尊敬を呼ぶ文化

礼を以って遇すると裏切られるリスクが低くなるわけだが、中国にあっては、この事は日本人が思う以上に大切かも知れない。裏切らせないという事は、ともすると、尊敬すら呼ぶのが中国という土地柄である。宮崎正弘氏の関帝廟に関するエピソードを紹介しよう。

中国人は関羽が好きな人が多く神格化までされているが、冷静に考えれば、関羽は腕っぷしの強い暴れん坊に過ぎないとも言える。彼は特に天下をとったわけでもないのだし、神格化してまで祭るほどなのだろうか?そう考えて、氏は中国人に何でそんなに関羽が好きなのかと理由を尋ねたのだそうだ。そうしたら、返ってきた答えが凄かった。関羽には裏切る部下がいなかったから、あやかりたいと崇拝しているんだそうだ。騙し騙されが当然とされる中国にあっては、裏切る部下がいなかったという事が神業としか思えない。故に、関羽は神となった。性善説の日本では、部下が裏切らないことは当然であるため、裏切られた事が無いからといって神格化はされない。比べると、日本と中国の文化の差が良く分かる。



3、臣下が真心を以って仕えるべき理由

真心を持った誠実な臣下は安心だ。裏切られる心配をしなくて済む。立場柄、謀反にも警戒しなければならない君主にとって、こんな有難い事は無い。君主の心の平安は、真心を持つ臣下によって達成されるのだ。この意味で、孔子は定公の求めている臣下の姿を言葉にしている。関帝廟のエピソードの通りである。

なお、状況的には専横する三桓氏への当てつけの言葉だ。



【参考】

関帝廟のエピソードは此方から。















【まとめ】

自分がされて嫌な事は、相手にしない事。

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