2019年1月4日金曜日

八佾 第三 12

【その12】

祭ればいますが如し。神々を祭れば神々在すが如し。子曰く、われ祭りにあずからざれば、祭らざるが如し、と。



【口語訳】

先祖を祭れば、まるで先祖が其処にいるかの如く。神々を祭れば、まるで神々が其処にいるかの如く。孔子は言う。私は祭りに参加できなかったとき等は、祭ったような気がしないのだ、と。



【解説】

今回は祭祀を行う者の一般的な感想を述べている気がする。孔子は先祖を祭る時は先祖がいるかのように、神々を祭る時は神々がいるかのようにと言っているが、これは祭祀を行う者にとってはイロハのイでありる。

例えば、日本でもお馴染みの念仏を考えて見よう。現代の日本で念仏と言うと、お坊さんがお経を唱えている姿を連想しがちだが、本来の念仏は念の中に仏を作る故に念仏と言う。だから昔は仏像を置いて念仏を唱えるなんて事はむしろ邪道であり、座布団くらいはまだしも、基本的には自分の念のみで仏を作るのが正しい作法であった。ただ、それでは普段仏典にふれていないような素人にはとっつきにくい。だから、布教しづらかったのだろう。念の中に仏を描くと言われても、素人には意味が分からないから。そこで、仏像のような明確な信仰の対象があればとっつきやすいとなり、言わば布教の都合から、今のような仏像を作る文化が定着した。ちなみに、仏像を最初に作ったのはインド人ではなく、ギリシア人らしい。仏教がギリシアに伝わった際にギリシア人が勝手に作ってしまい、それがシルクロードを通って日本にやってきたと言われている。ギリシアと言えば彫刻が有名だが、彼らには何でも彫刻にしたがる癖があったのだ。

なお、日本では、先祖を祭る時は先祖がいるかのように振る舞わないと罰が当たるという言い伝えがあったりする。例えば、仏壇の前で嫁の悪口を言う姑がいたりする家は、例えば子供がイジメにあったり、旦那が病気になったり何かと不幸に見舞われたりするのだが、姑が悪口を言う事を止め真摯に先祖を祭るようになると、不幸がピタっと止まったりする。不幸の原因は真摯に祭ってもらえない先祖が起こした霊障というわけだ。孔子は葬儀屋だけに、こういった話も頭にあったとしても自然だろう。特に中国では先祖は地下で生きている事になっているのだから、祭祀を執り行う時は、まるで先祖がいるかのように振る舞わねば不味かった事情も透けてくるようだ。

孔子が祭祀に参加できなかった時は祭ったような気がしないのは、それ自体は自然な話だ。何せ祭祀に参加していないのだから。だが、孔子は葬儀屋である事を考えると、お金の面で考えても良いかも知れない。自分が祭祀を取り仕切らねば、報酬はどうだったのだろうか?彼にとって祭祀は食い扶持なのだから、お金の面からも祭ったような気がしないのは当然な気もする。仕事の達成感は、報酬の額に比例しやすい。



【参考】

1、与は、一緒に力を合わせてという意味で、参加と訳した。


2、孔子の主観にそって解説してみたが、他にも外部からどう見えるかと言う視点で考えても良い。つまり、祭祀を演出するという視点である。先祖の霊や神々を降ろすと言って、先祖の霊や神々が其処にいるように振る舞わなかったら、本当に先祖の霊や神々を降ろしたのかが分からない。ドライに考えると、こういう事情もある。


3、念仏のくだりは、沖本克己氏を参考にした。仏の姿を想像する事を偶像崇拝と言って、釈迦仏教ではご法度となる。だから、念仏と言う話になるのだが、ギリシア人は偶像を作る事にこそ文化があったため、ご法度を破って仏像をつくってしまった。なお、キリスト教であれ、イスラム教であれ偶像崇拝はご法度だ。






【まとめ】

祭祀は心。


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