2019年1月15日火曜日

八佾 第三 18

【その18】

子曰く、君につかうるに礼を尽くせば、人を以ってへつらいと為す。



【口語訳】

孔子先生がおっしゃった。君主に仕えるに礼を尽くすのは当然だが、人にはそれが諂いに見えるらしい。



【解説】

誰しも上の者には気に入られたい。その気持ちの裏返しなのだろう。礼を正して上と接する者を見ると、つい悪態をつきたくなる。人によっては先を越されたくないと思い、日ごろ心にもないおべっかを使っている者などは、どうせお前も心の中ではベロだしてるんだろと、ペコペコする姿に卑しさや狡猾さを感じるのだろう。中には、そういう下心は分かっていると居丈高になる者もいる。褒められた話では無いかも知れないが、良くも悪くもこれが世間様である。孔子は礼の先生でもあるから、礼を重んじるのは当然と言える。礼を重んじない礼の先生など滑稽である。だが、その礼の先生ですら、礼を正すと太鼓持ちとそしられるのである。これが孔子の言葉を素直に読んだ場合の解釈となる。

さて、次はこの話を逆から読んでみよう。そうすると、孔子の言葉がより味わい深いものになる。上に礼を正すと太鼓持ちとそしる者が出てくるという事は、逆に言えば、それだけ太鼓持ちは気に入られるという事である。つまり、太鼓持ちは出世する。出世するからこそ、周りの者はそしりたくなるのである。では、具体的にどうすれば太鼓持ちとしてやっていけるかだが、あえて一つあげるとするなら、ありがとうございますを口癖にする事だろう。上に常に感謝を告げるようにすると良い。何時もありがとうございますと言われて気分を害する者はいないし、上としての面子が立ちやすい。あの人は下の者にそれほど尊敬されているのか、と。評判になれば鼻が高いものだ。

ただ、太鼓持ちが何時も気持ちよく太鼓を叩けるかと言うと、最初に書いたようにそう簡単ではない。太鼓持ちには邪魔が入るのだ。そのため、太鼓持ちは太鼓をたたくだけでなく、入る邪魔をいなす技術も持たねばならない事が分かる。そう考えて、孔子の言葉を眺めて欲しい。そうすると、答えが書いてある。つまり、孔子は太鼓持ちとそしられた時にこう切り返したわけだ。上に仕えるに礼を尽くすのは当然だが、人にはそれが諂いに見えるらしい、と。何とも見事な切り返しである。



【参考】

礼を正せば太鼓持ちとそしられ、礼を失すれば礼儀知らずとそしられる。君子を目指す孔子は前者を選んだと言う話である。もし孔子が荒くれ者だったならば、後者を選んだだろう。

なお、事は仕えると言う意味。



【まとめ】

礼は最高の処世術。

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