2019年1月8日火曜日

八佾 第三 15

【その15】

太廟たいびょうに入りて、事毎ことごとに問う。あるひと曰く、たれ鄹人すうひとの子礼を知るとえるか。太廟に入りて、事毎に問う、と。子之を聞きて曰く、是れ礼なり、と。



【口語訳】

先生は太廟に入られると、事ある事に質問されたので、ある人が言った。あの鄹から来たって言う先生は、礼の先生じゃなかったのかい?太廟に入るや、事ある事に聞いてるぞ。この話を聞いた先生が言われた。これも礼なのだ、と。



【解説】

現代でも人に物を聞くと馬鹿にする者がいるものだが、孔子もそういう状況にあったらしい。孔子は馬鹿にされる事を知っていても、あえて事あるごとに聞いたわけだが、その理由は人間関係から考えると分かりやすい。人に聞くと馬鹿にされると言うなら、人に聞かなければ良いと大抵の人は考えるものだが、人に聞かなければ御の字かと言うとそう簡単ではない。人に聞かずに指示を出していると、今度はそれが生意気だと言う人がでてくるからだ。つまり、孔子は生意気と思われるよりは、馬鹿にされたほうが良いと判断したと分かる。

理由を考えるに、敵を作ってしまう事を重く見たのだろう。生意気と思われれば自動的に敵を作るから、将来的に足を引っ張られるような面倒事に巻き込まれ安くなる。孔子は嫉妬の渦巻く役人の世界で生きるのだから、出来るだけ足を引っ張られないよう気を使ったのは当然の処世術と言える。そして、人に意見を求める事には馬鹿にされる等のマイナス面だけでは無く、プラスの面もちゃんとある事にも注目したい。例えば、意見を求められた人は自分は認められているとか、一目置かれていると感じるだろう。もし意見が採用されるなら、祭祀では自分がやった仕事があると自慢できるかもしれない。大抵は人間関係が円滑になるのだ。勿論、意見を求めた事で一時的に調子に乗る者もでてくるだろうが、それもそれで良いのである。人は少し隙があったほうが得すると思えば、腹も立たない。

次に、当時の時代背景を考えて見る。孔子が事ある事に訪ねた理由には、時代背景があった気がするのだ。当時は今とは違って、そもそも資料が無い時代だ。現代はインターネットに接続すれば大概の事は分る時代だが、孔子の時代はほぼ全てを口伝で伝えていた時代である。先生が言う事を弟子が暗記して、さらに自分の弟子に口伝で伝えていく。人間の脳みそは意外に忘れないもので、特に子供の頃に覚えた事は一生忘れない。だから、例えば仏教では、子共の頃にお経をみっちり唱えさせたし、和尚が読むお経を近くで掃除させながら何度も聞かせた。子共はお経の内容は分らないが、それで良いのだ。子共の頃にお経を暗記させれば、それは一生ものとなるのだから。とにかく文面を音で覚えさせる事こそ肝要なのである。お経の意味などは、大人になれば自然と分かってくる。

ただ、この方法に問題が無いわけでは無い。それは、口伝故に人によってお経の解釈が変わったり、覚え違いが出てくるという点だ。そこで、正確をきすならば、どうしても覚えている内容を他の者と照らし合わせる必要がある。孔子は事ある事に質問して馬鹿にされたわけだが、孔子が質問せざる得なかった理由にはこういった事情もあっただろう。孔子は周公を祭る祭祀に万が一にも間違いがあってはならないと、慎重な態度で臨んでいたわけだ。故に、質問する事が礼となる。なお、人間関係の関連で言えば、間違うと孔子を生意気だと思っている他の役人に揚げ足を取られてしまう。資料が無いだけに、孔子の記憶が間違っていると役人同士で口裏を合わせる事すら可能で、そう言うリスクを質問する事で担保した面もあったのだろう。現代で言えば、稟議書にハンコがたくさん押してあるのと同じ理屈である。慎重とも言えるが、みんなで渡れば怖くないという面もある。

さて、最後に葬儀の地域差を指摘しておく。現代でも葬儀は地域によって様々だ。日本を例にとっても、仏教式でやる地域もあれば、神道式でやる地域もあるし、仏教や神道と一言にいっても宗派ごとにやり方が違う。葬儀には決まったやり方が有るようで無いのだから、葬儀の際は相手にどのようなやり方でするのか聞くのが一般的だろう。孔子の置かれた状況も同じだったのでは無いだろうか?何せ中国は日本より多種多様だ。孔子は葬儀屋だったのだから、祖霊を祭るやり方は熟知していただろうが、それでも地域の差を思えば聞かざる得なかったと考えても自然な気がする。今回は周公への祭祀という事でやり方は定まっていたとは思うが、施主が前と同じやり方を望むとは限らないのだから、聞いたほうが無難な事は間違いない。故に、聞く事が礼となる。以上、総合して考えると、孔子が馬鹿にされても質問したほうが良いと考えた事は、理に適っていて悪くない判断だったと分かる。



【参考】

1、太廟は、魯の祖である周公を祭るみたまや。

2、鄹は孔子は出身地で、鄹人とは田舎者という蔑視を含む表現。

3、事あるごとに質問したのか、事あるごとに利用したのかは紙一重。後者が中国的解釈な気がする。



【まとめ】

聞くは一時の恥。

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