2018年10月16日火曜日

為政 第二 9

【その9】

老先生が言われた。顔回と話していると、終日頷いてばかりで、愚のようだ。しかし、別れた後に省みて、その生活を観察してみると、新たな発見がある。顔回は愚ではない。




【解説】

感覚は言葉には出来ない。例えば、真心が大事と一言に言っても、人によって想像する内容は微妙に異なってくる。真心と言う言葉を使うだけでは、自分の想定している真心が、相手と共有されているかは分からないのである。では、真心の感覚を直に伝える方法は無いのかとなるが、結局のところ生活態度で示すしかない。知識は人を分かった気にさせるが、それは錯覚を含むという示唆を受け取りたい。



真心とは無心、無心とはなりきる事、その時自己は無くなる。よって、これを数字の0で表す。もし、その時、顔回が純なる真心であったと仮定するならば、顔回は孔子と一つである。これを頷くばかりの心と考えて見たい。

真心 = 0 and 顔回 = 真心 

∴ 孔子 + 顔回 = 孔子 



徳行第一と言われた顔回(顔淵)と孔子のやり取りである。顔回は孔子が後継者と目したほどの人物であり、その聡明さには敵わぬとしたほどの男だった。彼は孔子の言った事をきちんと咀嚼し、自分の血や肉としているばかりか、自らの工夫も加えていた。その姿を見て、孔子すら教えられる事しばしばと言う話である。顔回は享年41歳と早世であった。死因は貧しい生活がたたっての栄養失調とされる。




賢者は自分より知恵者の前では口を開かないと言う。恐れを知るからである。




処世術の側面を考えて見る。例えば、後輩なり、部下なり、目下の者が反論してきた場面を想像して欲しい。時と場所を選ばずに反論されるなら、上の者としての面子もある。可愛くない奴と思われても仕方がない。何時の世もイエスマンほど気に入られるものだ。顔回はイエスマンだったから気に入られたわけでは無いだろうが、省みればきちんと基本を守っている点には注目したい。これを君子は事に敏にして、言に慎むと言う。




行動してみると、頭だけで考えていた時には見えなかった事が見えてきて、新たな発見があるものである。理解が進むし、自分なりに工夫もできるようになる。その姿を孔子は端から見ていて、まず教えを守っている事に感心し、次に顔回が加えた工夫を見て啓発された。ここに学ぶべき者の見本を見る。



賢者はどんな者からも学べると言うが、弟子から学ぶ孔子の姿勢も学びたいもの。





【参考】

1、現在では、西洋文化の影響なのだろう。話を聞いているかどうかは、的確な質問によって証明されるとするのが一般的かも知れない。きちんと合槌を打ち、話の合間には質問をする。先生に限らず目上の者は、話した内容を分かってくれたかを心配するもの。その気持ちを察する事ができてこそ良い学生と考えて見たいが、中国の古典の世界では行動にこそ重きが置かれるように思う。この違いに東西の文化の差を感じて興味深い。


2、回は、顔回の事。名を子淵と言うため、顔淵とも言う。


3、発するは、発明と言う意味だが、啓発とも訳す。なお、発するをイメージで捉えると、発明や啓発と訳す雰囲気が味わえる。





【まとめ】

行動は口より雄弁




------  仏教の立場からの考察  ----

言葉の外にでるのが、修行の目的ではなかろうか。頷くばかりの解釈だが、仏教的には、顔回が孔子になりきったと考えても面白い。







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