【その12】
老先生の教え。君子は器では無い。
老先生が言われた。君子は一技一芸の者では無い。
老先生の教え。君子は器では無い。
老先生が言われた。君子は一技一芸の者では無い。
先師が言う。君たちは機械になるなよ。
【解説】
①
君子は真心につけられた尊称である。器物のように特定の姿形があるわけでは無い。なお、姿形が無いゆえにその変化に限りなく、その変化はどれも真心の顕れという性質を持つ。ここが掴めると、「器では無い」を一技一芸の者では無い、もしくは機械になってもらっては困ると訳す理由がしっくりくる。
②
大器晩成を考える。この場合の器は心の度量の大きさを例えたものにつき、器は必ずあると仮定しよう。すると器が無い状態が一番大きい器となる。と言うのも、器に姿形があれば、必ずその外側が存在することになる。その器がどんなに大きくとも、外側が存在すれば、当然もっと大きな器が作れる。では、どうしたら外側がなくなるかと言えば、器に姿形が無ければ良い。姿形が無ければ、その外側も存在しないから。しかし、姿形が無ければどこまでが器として良いか分からなくなるが、器は必ずあると仮定したのだから、外側がない状態が器と言うのがその答えとなる。つまり、すべてが器なのだ。
0 = ∞ and 真心 = 0
∴ 真心 = ∞
③
儒者は今で言う葬儀屋にあたるが、儒の語源が興味深い。まず儒の旁である需という字には、雨が止むのを待つと言う意味がある。これが人間化すると儒となり、儒は雨が上がるのを待つ人たちを意味する。当時、儒者が葬儀のために雨が上がるのを待っている姿が印象的だったのだろう。儒は儀式のために雨が上がるのを待つ葬儀屋という意味になる。また、雨が上がるのを待つのは何も葬儀屋だけではない。勿論、親族も待っている。その親族からすると、葬儀屋が儀式を始めないで天気ばかり窺っている姿は大変もどかしかったようだ。だから儒はグズグズするなと悪口を言われている葬儀屋という意味を持つに至った。しかし、これではまるで道具扱いであろう。この辺の事情が、孔子が「君子は器では無い」と言った背景かも知れない。普通の葬儀屋はまるで道具扱いだが、君子はそんなぞんざいな扱いは受けない、と。
④
器は道具である。道具に使われる人間はいない。同じように、器を使うのが君子であって、器ではない。
⑤
古来中国では役人を官吏と言うが、官と吏は違う。官は言わば公務員であり王に雇われるが、吏は言わば私兵であり官に雇われる。官吏は確かに一まとめだが、その雇用形態は全く異なるのだ。例えば、官が地方に派遣された場合、その出身地は外すのが慣わしなので、行った先では言葉すら分からない。すると何もできないため、現地で通訳を雇う。この通訳が吏にあたる。通例、器を一技一芸の者と解釈するが、この吏を一技一芸の者と考えると分かりやすい。
君子 = 不器
⑥
人体で例えれば、君子は頭、手足では無い。
⑦
例えば、官になると、仲良くして欲しいと言って商人が賄賂を持ってくる。綺麗な服を仕立ててくれるし、任地にいくまでの馬車から何まで至れり尽くせりである。では、何故そこまでしてくれるのかとなるが、官は徴税権を持つからである。徴税権がある以上、とりっぱぐれる事はないため色々融通してくれる。この話を商人の視点で見るとどうなるかと言うと、官は金もうけの種だ。金を生む器のようなものとも言える。流石に高級なだけに取扱が慎重になるのである。こういう背景を察するに、器のように使われるなよと諭した場面を想像しても面白いかも知れない。
⑧
情を失っては道を誤る。
⑨
お金を使っているのか、お金に使われているのか、それが問題だ。
【まとめ】
結局、心なのよな。
------ 仏教の立場からの考察 ------
道具と言う字は、道を具えると書くのか・・・。
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