2018年10月10日水曜日

為政 第二 7

【その7】

子游が孝を尋ねると、老先生が言われた。今どきの孝は、養えば良いと言う。しかし、犬や馬でも皆よく養っている。敬わずして、何をもって別けるのか、と。




【解説】

真心が無ければ、形だけ真似しても駄目という話である。真心から養うのと、養えば孝になるという気持ちで養うのでは、同じ養うでも似て非なるものとなる。その違いは特に細部に見て取れる。例えば、食事の支度を考えて見よう。真心から養うのであれば、食事の内容や食器の置き方にまで気が行き届く。だが、養えば良いとだけ思っていると、食事の内容も適当になっていくし、食器の置き方も雑で良いとなる。これではとても孝とは言えないため、犬や馬と同様ではないかとなる。そこに真心があるからこそ、孝は孝たりえ、その姿に親を敬う姿が見て取れる。養や敬という言葉に囚われず、真心を据えて読むのが良い。



真心 = 孝 ∩ 敬



食うにも困るような貧しい時分には、親を養うのも大変だから、親も養ってくれるだけで心が満たされるかも知れない。お前には苦労をかけるね、と。だが、生活力が備わるにつれ、この状況も変わってくる。裕福になり親の面倒くらいは見れて当然となると、親も養われるだけでは物足りなくなる。生活出来るのは当たり前なのだから、生活させてもらうだけでは満たされず、もっと他の何かを欲っするようになるだろう。こういう話を即物的に捉える視点も大切だが、親が欲しているのは真心と気づきなさいと言うのが、孔子の言わんとする処だ。



例えば、生活の面倒だけ見て、会いにも来ない子をもった親は幸せだろうか。貧しい者ならば、子が自分を食わせるために頑張ってると考える。それが裕福な者になると、子は顔も見せないで何をしていると不満をもらす。親を養う事が親を満足させるとは、一概に言えないのである。




敬われずに怒る親がいれど、敬われて怒る親はいないから、親を敬う事は良いだろう。では、具体的にどうしたら良いかになるが、助言をもらったり、褒めたり、感謝を伝えるという事になるのだろうか。ただ、そこに真心が無ければ本物にはなりえないという視点が、今回学ぶべき点となる。なお、これは余談だが、中国の賄賂国家という性質上、彼らにとっての敬いはお金の額と解釈され、結局は孔子が嘆く養うだけの所謂親孝行が盛んになる気もする。そう考えて見ると、親に助言をいただきながら、感謝を伝え、多額の金品を持参するのが君子の親孝行なのかも知れない。これならば喜ばない者も少ないだろうし、養うだけでは足りないという孔子の言にも適う。まさに孝の極みである。





【参考】

お金があれば幸せになれると人は考えがちだが、実際はそうとも言えない節もある。と言うのも、人は収入が増えるほどお金に執着する傾向があるからだ。それは例えば、家族の不仲に現れたりする。お金が無い時は、無いお金を考えても仕方ないから、自然とお金抜きの家族関係になる。そうすると、一緒に頑張ろうとなるもので、旦那が博打ばかりで働かない等の例外を除けば、基本的に家族仲が良かったりする。だが、収入が増えるにつれ、この家族関係にも変化が生じる。つまり、お金があるならば、欲しい物があるから私によこせとなって、家族内がお金をめぐってギスギスし始めるのだ。日本だとだいたい年収800万が境で、800万を超えると家族が喧嘩を始め、逆に800万未満なら家族内はそれなりに円満という話がある。

何故そうなるのかは分からない。収入が増えるほど家にいる時間が減るから、自然と家族内の会話もなくなり、朝に顔を合わせるだけの関係になる。家族というより同居している他人となり、顔を見たらお金と言うだけの関係にもなる。すると安らぎを外に求める他ないから、旦那は浮気に走る。走れば妻は私もとなり、家庭は冷め始める。こうして理由を考えて見るのも面白いが、それはさておこう。





【まとめ】

人間は心だよ。





------  仏教の立場からの考察  ----

犬や馬にも慈悲をもって接する。そこに両親との区別は無い気がする。あるとすれば、命の危険が迫っているなど例外的な場面だけだろう。

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