2018年10月5日金曜日

為政 第二 6

【その6】

孟武伯が孝を尋ねると、老先生は言われた。父母の病気をただ心配する、と。




【解説】

父母の病気をただ心配する

このただ(唯)という部分をしっかり抑えよう。心配するのではなく、ただ(唯)心配すると言うところに妙味がある。親子関係とは言え、人間生きていれば色々な事があるだろう。だが、例えば、お金などの下心をもって心配するなら、真心から離れてしまう。それでは孝とは言えまいという裏の意味も感じ取りたい。




唯心配 = 真心 ≠ 心配




孟武伯は、前回の孟懿子の息子となる。伯は長男を示している。



例えば、葬儀の場面を想像して欲しい。相続は争続と言うように、葬儀中に自分の取り分ばかり考えていては、親族との駆け引きばかりが気になり、肝心の葬儀に集中できないだろう。その姿に我欲はあっても、真心は感じれない。ただ(唯)が持つ意味はここにある。



親孝行の本質は関心にあると捉えても良いかも知れない。愛の反対は無関心であると言う言葉があるが、その逆に親への関心を片時も忘れない事が孝の基礎とも言える。だから、例えば、父母が病気にならないよう心配する事が大切だという流れになる。





【参考】

1、他の解釈を示せば、「親は子共の心配を常にしているものだ」と解釈するものも多い。この場合、孟武伯に自分の体をいたわる事が親孝行だと言っている事になる。ただ、日本人的な感覚では無いかと思う。二十四孝に紹介されている中国人の親孝行は、自己犠牲の上でどれだけ親に尽くしたかという視点で書かれているから、自分の体をいたわる事が親孝行とはならないかも知れない。自分の体をいたわらずに親に尽くすから親孝行なのである。また、この説によると、孟武伯に孔子は体をいたわれと言っているのだから、孟武伯は体が弱かったのだろうとなるが、孟武伯のような立派な人間が体が弱かったとは思えないと言う反論もある。



2、「親に病気以外で心配をかけてはいけない」とする解釈もある。この場合、そういう心遣いに真心が宿っていると考えて見たい。





【まとめ】

唯なのだから、簡単なはずなのだ





------  仏教の立場からの考察  ----

唯の実践は子供なら簡単にできるが、大人になるにつれ難しくなるかも知れない。それは何故かと考えるに、大人になる過程で余計なものを身に着けたと考える。ならば、余計なものを取り除けば、子供のように純粋に唯を実践できるはず。さぁ、取り除け、取り除けとなり、最終的にはえい児を目指す。その時、心に生じたものが真心であり、それを父母に向ければ孝となる。孝とは何かと考えるのも良いが、真心さえ明らかになれば自然と孝が分かると考えたい。





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