2018年10月1日月曜日

為政 第二 4

【その4】

老先生が言われた。私は15で学の志し、30で立った。40で惑わなくなり、50で天命を知った。60で耳に順えるようになり、70で心の欲するまま道理に反しなくなった。



【解説】

真心を軸に読んでみる。私は15で真心を明らかにしようと志し、30でそれが掴めた気がした。40でさらに心境が深まると生き方に惑わなくなり、50で私は天命によって動かされているだけと知った。60で全てを天命に委ねられるようになると、以前なら耳に逆らうような言葉も素直に聞き入れられ、70で思いのまま振舞っても真心のみとなった。若いころの心境に誤りがあったとは思わないが、年を経ると違った味わいがあるものだ。



孔子の生涯をつづった一節である。孔子は3歳の時に父親を無くしており、それからは母子家庭で育つ。母親が巫女だったせいか、字の素養がある母親だったので読み書きは母親から教わった。そして、15歳になると本格的に古典(詩経・書経・礼記)を学び始めた。今の感覚では15歳にして自らの行く末を決める勉強を始めたと言えばしっかりした子だが、孔子は貴人の子であるから、他の同クラスの家の子は幼い頃から家庭教師を雇って勉強している。そのため、15歳で学問を志したのは、孔子が父親を亡くし貧しかったから学問が遅れたという事情がある。しかも、孔子は家庭教師はつけられないから、独学だった。その後、母親と死別や結婚を経験し、貧しかったせいで色々な職を転々とする20代を送る事になる。そして、古典の学習をようやく30歳で終えるのだ。この頃には魯国にアルバイトのような形ではあったが士官し評価を得ていたし、私塾を始め弟子を取り始めた。これを評して、30にして立つのだろう。なお、この頃の孔子は聖人とは程遠く、俺が俺がとガツガツする普通の30男であったとも言われる。

孔子の30代は魯で昭公によるクーデター騒ぎがあり、昭公がクーデターに失敗して隣国の斉に亡命する事件があった。孔子は特にクーデターに加わったわけでも、昭公のお気に入りであったわけでも無いのだが、何故か昭公の後を追い斉に行く。若いとも見れるエピソードだが、どうも昭公の相手方の三桓氏という貴族が嫌いだったようだ。三桓氏は、周の天子にのみ許された舞踊を自分のために躍らせたりしていたので、周公の礼を重んじていた孔子には大変な問題で、こんな事が許されるなら何でも許されると憤慨していた経緯がある。しかし、理由はなんであれ、孔子は行った先の斉で大変なショックを受ける事になる。それまでは魯こそ優れた文化を誇る国と思っていた孔子であったが、斉で聞いた演奏によって、自分が井の中の蛙であったことを思い知らされてしまうのだ。肉が3か月も食べれないほど感動したと言うのだから、晴天の霹靂だったに違いない。この時、孔子36歳である。この経験が孔子にとって一つの転機となる。少なくとも文化の面では魯は後進国であり、斉は先進国である事を認めざるを得ず、魯をもっと素晴らしい国に作り変えねばと思いを新たにしたのだ。

40代の孔子は魯に戻っている。魯を作り変えるための力を溜めるためか、新に易を学び始めるなど学問に励む様子がある。この頃はすでに名声があった事もあり、弟子がますます増えたようだ。そして、孔子が48歳の頃、ようやく転機が訪れる。宿敵となる三桓氏にお家騒動が持ち上がるのだ。事の発端は三桓氏の実力者である季孫氏の執事であった陽貨で、糧が季氏を上回る勢いとなり、実質的に魯を支配してしまうのである。こうなると、三桓氏としては面白くない。自分ではなく雇われ人の執事風情が威張っているのであるから。当然、三桓氏と陽貨の間で争いが始まる。このとき、もし孔子が陽貨に加担したならば、三桓氏討伐のまたとない機会であったかも知れない。孔子には30代の頃、三桓氏を嫌がって斉に行った経緯がある。以前から苦々しく思っていたのなら、陽貨と手を組んでも良さそうなところであった。だが、孔子が陽貨の誘いにのることは無かった。この頃の孔子は、50にして天命を知ると評する時期にあたる。陽貨の台頭で、盤石に思えた三桓氏の力が弱まったのは間違いなく、この機会を活かせば、魯の実権を君主に戻せるかも知れない。そうすれば、念願の周公の礼も復興できる。これから三桓氏が巻き返しを計るにしても、いかんせん内輪揉めだ。勝敗がどう転んでも、さらに弱ってくれるだろう。ようやく三桓氏の足元が揺らいだのである。

さて、陽貨がその後どうなったかと言うと、孔子が52歳の時、あえなく三桓氏に敗れてしまう。実はこの時も、陽貨と一緒に三桓氏に背いた公山弗擾(こうざんふつじょう)から、三桓氏と戦おうと誘われていた。だが、またもや孔子は加担しなかった。ただ、このときは相当に心が揺れたらしい。自分を用いる者が誰であれ、用いてくれさえすれば東周を再興してみせるとまで言っている。天命を自覚していたと思わせるセリフである。ここで、公山弗擾を助けないかわりにと、三桓氏と取引があったのか分からないが、普通はあったのだろう。公山弗擾が孔子を口説いたように、三桓氏も孔子を口説くと考えるのが自然だ。何せ戦っているのだ。味方にならないまでも、敵にならないで欲しいという交渉くらいはしておきたい。ともあれ、孔子はこの騒動の後、すぐ魯への士官が適い、出世に次ぐ出世となる。まずは魯の定公から中都の町長に任じられる。やはり立派な人物であったのだろう。翌年には今で言う建設大臣になり、さらに最高裁判長となる。そして、56歳では宰相代行まで勤めた。実力的にも三桓氏に対抗できるようになり、彼のキャリアで一番輝いていた時期だ。孔子はずっと周公の礼の復興を願い、数十年の下積みをしてきたとも言える。その事を思えば、徐々に好転していく状況に、周公の礼の復興は天意と考えても不思議はない。

この頃には、孔子の最大の障害であった三桓氏は、陽貨や公山弗擾との争いで弱り、新興勢力の台頭で頭を悩めている。状況的には、何かうまい手があれば孔子の念願が叶いそうな局面と言える。考えられる選択肢には大きく二つあっただろう。一つは新興勢力と手を組み三桓氏を討伐するという方向、もう一つは懐柔策によって平和裏に事を進める方向だ。もし孔子が若ければ、前者を選択したかも知れない。歴史的にも前者を選択できないようでは、その優しさが徒となる事が多いように思う。しかし、この時の孔子はすでに好い年齢であるし、性格でもあったのだろう。彼は討伐するという選択肢は選ばなかった。そして、魯の定公の元に三桓氏が集うという形にこだわった。彼の憤慨の理由は形の乱れにこそあった事を思えば、当然の決断であったかも知れないが、皮肉にもこれが失策になった。孔子は三桓氏を追い出すより、力をそいで魯の定公の下につけるべきとする。そのために、まず武装解除として居城の破壊を要求するのだが、普通に考えて三桓氏が素直に従うはずがない。居城を破壊してしまっては、まな板の鯉も同然となる。ならばと窮鼠とかし歯向かってくるのが普通である。ここまでは順当な流れにつき、それが読めなかったとは考えにくい。孔子も用心深く事を進めたに違いなく、その甲斐あってか、実際に三桓氏のうち二者、叔氏と季氏には居城を壊させる事に成功した。もはや後一歩である。しかし、ここから失敗するというのだから、好事魔多しである。これを三桓氏の側から考えて見ると、どこまで計算だったか分からないが、中国には相手をだますために降伏を装うという兵法もある。あまりに上手くいっていたがために、孔子が騙されたとしても可笑しくはない気がする。ともあれ、あと一歩と言いう所まで追い込みはした孔子であったが、最後は孟氏の手痛い反撃にあい、逆に魯を追い出されるはめになった。三桓氏の権力への執着が、孔子に勝ったのである。この時、孔子56歳であった。

こうして流浪の生活を強いられた孔子であるが、この時期を表した言葉が耳順となる。孔子は理想の国を作るために流浪したとされるが、道中は決して楽なものではなかった。陽貨と間違って拘束された挙句に殺されそうになったり、度重なる暗殺未遂にも遭遇した。戦争が起こり目的地にいけなかったり、弟子と離れ離れになってしまう事もあった。まさに波乱万丈であり、耳順のニュアンスが伝わってくるようである。目の前の者が味方か敵かをしっかり見極め、味方の助言に耳順わなければ、孔子は生きていけなかったのだ。ゆえに、60にして分別が身に付くと評すると考えて見たい。また、この時代の60代は高齢である。足腰が弱くなり、老いを実感していただろう。こう考えて見ても、耳順の雰囲気が伝わってくる。そうする他なかったという事情も透けて見えるのだ。

この流浪生活は56歳から69歳まで続いたが、流石に体の衰えもあったのだろう。孔子は理想の国を作る事を諦めたらしく、69歳にして魯に帰る事を決意する。魯に帰ると士官の話もあったのだが、それを断った孔子は古典の編纂と弟子の教育にその力を費やした。この頃を評した言葉が、70にして心のまま振る舞って道理に反する事が無いだ。この頃の孔子に政治的野心はない。上から下まで全てを経験し、苦難の道も歩んできた。少欲知足の域に達していたのだろう。心のまま振る舞って道理に反しないのも当然と理解する。





【参考】

1、順を理に適ってると解釈し、耳順は耳が理に適ってるかどうか聞き分けるとした。よって、②では分別ができると訳している。

2、矩(のり)は大工の使うL字型の定規の事。転じて基準や道理を意味する。

3、②では、主に山本七平の「論語の読み方」の解釈を下地にしている。













4、50にして天命を知るの解釈を他に示すと、自分の生きている間には自分の理想国家を作れないと悟ったと言う説もある。ただ、50の頃の孔子は最も脂ののった時期であり、56歳で宰相代行まで出世している。にもかかわらず、理想国家の建国を諦めると言うのも可笑しいようには思う。彼が流浪したのは50代後半からだし、実際に諦めたのは魯に戻った69歳ではなかったか。50にしてと表現するのは無理がある気がする。とは言え、中国において儒教が重んじられてきた事を考えると、50の時に孔子に天命があったと考えても良いかも知れない。









------  仏教の立場からの考察  ----

ある老子は本を何故書かれないのかという質問をされて、若いころの心境が間違っていたとは思わんが、年を経るにつれて心境が変わっていくから、不完全なままで残したくないと言ったとか何とか。自分も生きていれば新たな発見はあるものだと思う。なお、耳順のコツは、相手になりきる事ではないかと思う。仏教を学んでいると、天命も自己を忘れると言う意味に思えるから不思議だ。





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