2019年1月22日火曜日

八佾 第三 21

【その21】

哀公あいこうしゃ宰我さいがに問う。宰我こたえていわく、夏后氏かこうしは松を以ってし、殷人いんひとは柏を以ってし、周人しゅうひとは栗を以ってす、と。曰く、民を使戦栗せんりつせしむ、と。子之を聞きて曰く、成事せいじかず。遂事すいじいさめず。既往きおうとがめず、と。



【口語訳】

哀公が社について宰我に尋ねた。宰我が答える。夏では松を、殷では柏を、周では栗を植えており、栗には民を戦慄せしむるという意味があります、と。この話を耳にした孔子が言った。成った事は仕方あるまい、すんだ事は諫めまい、過ぎ去った事は咎めまい、と。



【解説】

まず社の意味を説明すると、社とは土地神を降ろす祭壇のことである。社では土を盛って祭壇をつくり、その上に土地神を降ろす木を植えた。その木が夏王朝なら松だったし、殷王朝なら柏であり、周代に入ってからは栗を植えるようになったと言う話をしている。では、何故周代では栗の木を植えているのかになるが、栗の字と戦慄の慄をかけて、民を戦栗(戦慄)せしめる為と宰我は言う。思わず納得してしまう説明だが、この話を耳にした孔子は何故か嘆いた。済んだ事をとやかく言っても仕方ない、と。これが今回の一節である。では、孔子が嘆いた理由は何だろうか?

思うに、その理由は為政編の3番目に顕著に表れていると思う。為政編によると、孔子は政治の要諦は道徳にあり、治安を刑罰に頼るなら、民は法令や刑罰を逃れれば何をしても良いと考えて恥じる事が無いと言う。この考え方に立てば、栗の木を戦慄にかけて民を脅かすなどもっての外である。脅かせば脅かすほど、民は刑罰の抜け穴ばかりを探して恥じる事もなくなるのだから。こうなっては政治が安定するどころか、抜け穴を探す民とのイタチごっこに終始するだけになる。故に、済んだ事は仕方ないとなる。



1、孔子は何故道徳にこだわるのか?

「育てたオオカミに襲われた老人」という中国民話を知ると良く分かる。この話はこうだ。ある山で岩の割れ目にはさまった子共の狼がいた。親からはぐれたのだろう。不憫におもった老人が助けてやった。老人は子共の狼を家に連れ帰ると、鈴をつけ、肉を食わせて大変可愛がったそうな。動物が成長するのは早いもの。そうこうしている内に、子共だった狼も大きくなり、牙も立派になった。そうすると、体が成長したせいで、狼もその獣の本性を現す事になる。与えられる餌だけでは満足できず、老人にまで襲い掛かってしまうのだ。老人の手は、狼に牙をたてられて血がでるまで噛まれてしまう。こうなってはもう老人の手には負えない。だから、老人は言った。お前を不憫に思って育てたが、どうやら心までは育てられなかったらしい、と。老人は狼を山に放した。

二日後、老人が市場に行った帰りに川で休んでいると、聞きなれた鈴の音と共に大きな狼が現れた。老人は情が移っていたのだろう。お前か、と呼んでみた。狼が走って駈け寄ってくる。老人は狼がじゃれていると思ったのだろう。だが、狼はじゃれたわけでは無い。自分が餌としてマークしていた老人に襲い掛かったのである。押し倒され、無防備になった老人の腹は恰好の餌だ。狼は牙を立てると、食い破り、はらわたを美味そうに食すのである。この狼こそ中国の民である。



【参考】

1、哀公は、孔子晩年の魯君である。


2、宰我は孔子十哲の一人だが、問題児であり、孔子から不仁と評されている。道徳よりも実利を重んじる性格で、孔子から度々叱責されていたようだ。


3、中国民話は竹内康雄氏を参考。














【まとめ】

真心を忘れずに。

2019年1月21日月曜日

八佾 第三 20

【其の20】

子曰く、関雎かんしょは楽しみて淫せず、かなしみてやぶらず。



【口語訳】

孔子先生がおっしゃった。関雎は楽しみの中にも節度があり、せつなさの度が過ぎて傷つくほどでは無い。



【解説】

関雎は詩経に収められている詩の名前である。その詩を読んだ感想を述べているのが今回の一節である。加地伸行氏によれば、この詩は周の文王を謡ったものとの事だ。大まかな内容はこうだ。ある時、文王は花嫁を探していたが、なかなか見つからず、悶々とした日々を送っていた。その気持ちに皆が共感しのだろう。いつしか皆が文王に早く良い伴侶が現れてくれることを願っていた。そうすると、その願いが天に届いたのであろうか?次に文王を見かけると、伴侶と楽し気に暮らしているでは無いか。ああ、良かった。これで天下は安泰だ。こういう流れの詩であるため、古来中国では結婚式で良く謡われたようだ。詩の内容は、以下にリンクを這っておく。


日本語で楽しむ漢詩



■関雎の日本語訳(文王視点)


ミサゴが鳴いている。

河の中州に巣を作り。

しとやかな淑女よ、早く来ておくれ。

君こそ君子の良き伴侶さ。


長短ふぞろいのアサザ。

農夫が右に左にと掻き分ける。

しとやかな淑女よ、どこにいるんだい?

寝ても醒めても求めてしまうよ。


幾ら求めても現れない君に、

寝ても醒めても思いが募る。

ああ、どれくらい時間が経ったんだろう?

ああ、どれくらい時間が経ったんだろう?

僕に出来るのは寝返りだけさ。



長短ふぞろいのアサザ。

農夫が右に左に掴み取る。

しとやかな淑女よ、さぁ聞かせておくれ。

かたわらで琴と瑟を。


長短ふぞろいのアサザ。

農夫が右に左にむしり取る。

しとやかな淑女よ、さぁ楽しませておくれ。

君の太鼓は心地よい。






【参考】

1、関雎はミサゴの事。



ミサゴは夫婦仲が良い事から、結婚式では縁起が良い詩とされる。

夫婦仲が良い事が関関雎鳩と言う四字熟語になっている。



2、琴瑟相和すと言って、琴と瑟の音が良く合う事から、夫婦仲が良い事を琴瑟と言う。




上の画像が琴で、下の画像が古代の楽器である瑟となる。



【まとめ】

関雎はウフフが良く似合う。

2019年1月16日水曜日

八佾 第三 19

【その19】

定公ていこう問う、君臣きみしんを使い、臣君につかうること、之を如何いかん、と。孔子こたえて曰く、君は臣を使うに礼を以ってし、臣は君に事うるに忠を以てす、と。



【口語訳】

定公が孔子に尋ねた。君主はどう臣下を使えば良いのだろうか?臣下はどう君主に仕えれば良いだろうか?、と。孔子が答える。君主は臣下を礼を以って遇するが良く、臣下は君主に真心をもって仕えるのが良いでしょう、と。



【解説】

定公は孔子が40代から50代の頃の魯の君主で、孔子を最終的には宰相代理にまで抜擢してくれた君主である。当時の魯は陽貨の反乱によって、長らく専横してきた三桓氏の力に衰えが見えた時期ではあったが、依然として三桓氏が実権を握っており、定公には実権がなかった。だから、定公はその事を憂慮したはずだ。三桓氏の力に陰りが見えてきたわけだし、この機会に自分に実権を戻せないかと考えたとしても、政治力学的に不思議は無い。今回の一節は、そういう状況でなされた会話の記録と思われる。そう考えて見ると、主従関係のあるべき姿を問うた定公に対し、君主は臣下を礼を以って遇し、臣下は真心をもって仕えるのが良いという孔子の答えは、定公の琴線に触れる答えだったのでは無いだろうか?よくぞ言ってくれたと、気を良くしたに違いない。



1、君主は臣下を礼を以って遇すべき理由

君主に礼をもって遇されれば、それは自慢の種になる。自慢の種になれば、臣下は競ってでも厚く遇されたいと願う。そうすると、君主から何をしてもらったかで、臣下の中に自然と序列ができあがる。その序列の中心は、勿論君主となる。ここまでくると、臣下は自分の栄誉のために君主を守ったほうが良くなっているから、自然と結束が出来上がり、国がまとまる。例えば、こういった理由が考えられる。

逆に、礼を以って遇しなければ、臣下は小馬鹿にされた思いを抱くから、役に立たなくなるばかりか、裏切りのリスクすら高まってしまう。



2、裏切らせない事が尊敬を呼ぶ文化

礼を以って遇すると裏切られるリスクが低くなるわけだが、中国にあっては、この事は日本人が思う以上に大切かも知れない。裏切らせないという事は、ともすると、尊敬すら呼ぶのが中国という土地柄である。宮崎正弘氏の関帝廟に関するエピソードを紹介しよう。

中国人は関羽が好きな人が多く神格化までされているが、冷静に考えれば、関羽は腕っぷしの強い暴れん坊に過ぎないとも言える。彼は特に天下をとったわけでもないのだし、神格化してまで祭るほどなのだろうか?そう考えて、氏は中国人に何でそんなに関羽が好きなのかと理由を尋ねたのだそうだ。そうしたら、返ってきた答えが凄かった。関羽には裏切る部下がいなかったから、あやかりたいと崇拝しているんだそうだ。騙し騙されが当然とされる中国にあっては、裏切る部下がいなかったという事が神業としか思えない。故に、関羽は神となった。性善説の日本では、部下が裏切らないことは当然であるため、裏切られた事が無いからといって神格化はされない。比べると、日本と中国の文化の差が良く分かる。



3、臣下が真心を以って仕えるべき理由

真心を持った誠実な臣下は安心だ。裏切られる心配をしなくて済む。立場柄、謀反にも警戒しなければならない君主にとって、こんな有難い事は無い。君主の心の平安は、真心を持つ臣下によって達成されるのだ。この意味で、孔子は定公の求めている臣下の姿を言葉にしている。関帝廟のエピソードの通りである。

なお、状況的には専横する三桓氏への当てつけの言葉だ。



【参考】

関帝廟のエピソードは此方から。















【まとめ】

自分がされて嫌な事は、相手にしない事。

2019年1月15日火曜日

八佾 第三 18

【その18】

子曰く、君につかうるに礼を尽くせば、人を以ってへつらいと為す。



【口語訳】

孔子先生がおっしゃった。君主に仕えるに礼を尽くすのは当然だが、人にはそれが諂いに見えるらしい。



【解説】

誰しも上の者には気に入られたい。その気持ちの裏返しなのだろう。礼を正して上と接する者を見ると、つい悪態をつきたくなる。人によっては先を越されたくないと思い、日ごろ心にもないおべっかを使っている者などは、どうせお前も心の中ではベロだしてるんだろと、ペコペコする姿に卑しさや狡猾さを感じるのだろう。中には、そういう下心は分かっていると居丈高になる者もいる。褒められた話では無いかも知れないが、良くも悪くもこれが世間様である。孔子は礼の先生でもあるから、礼を重んじるのは当然と言える。礼を重んじない礼の先生など滑稽である。だが、その礼の先生ですら、礼を正すと太鼓持ちとそしられるのである。これが孔子の言葉を素直に読んだ場合の解釈となる。

さて、次はこの話を逆から読んでみよう。そうすると、孔子の言葉がより味わい深いものになる。上に礼を正すと太鼓持ちとそしる者が出てくるという事は、逆に言えば、それだけ太鼓持ちは気に入られるという事である。つまり、太鼓持ちは出世する。出世するからこそ、周りの者はそしりたくなるのである。では、具体的にどうすれば太鼓持ちとしてやっていけるかだが、あえて一つあげるとするなら、ありがとうございますを口癖にする事だろう。上に常に感謝を告げるようにすると良い。何時もありがとうございますと言われて気分を害する者はいないし、上としての面子が立ちやすい。あの人は下の者にそれほど尊敬されているのか、と。評判になれば鼻が高いものだ。

ただ、太鼓持ちが何時も気持ちよく太鼓を叩けるかと言うと、最初に書いたようにそう簡単ではない。太鼓持ちには邪魔が入るのだ。そのため、太鼓持ちは太鼓をたたくだけでなく、入る邪魔をいなす技術も持たねばならない事が分かる。そう考えて、孔子の言葉を眺めて欲しい。そうすると、答えが書いてある。つまり、孔子は太鼓持ちとそしられた時にこう切り返したわけだ。上に仕えるに礼を尽くすのは当然だが、人にはそれが諂いに見えるらしい、と。何とも見事な切り返しである。



【参考】

礼を正せば太鼓持ちとそしられ、礼を失すれば礼儀知らずとそしられる。君子を目指す孔子は前者を選んだと言う話である。もし孔子が荒くれ者だったならば、後者を選んだだろう。

なお、事は仕えると言う意味。



【まとめ】

礼は最高の処世術。

2019年1月14日月曜日

八佾 第三 17

【その17】

子貢告朔こくさく餼羊きようを去らんと欲す。子曰く、や、なんじは其の羊をしむ。我は其の礼を愛しむ、と。



【口語訳】

子貢が告朔の儀式において、犠牲として捧げる羊を取りやめる事を希望すると、孔子が言った。賜君、君は羊を惜しく思うのだろうが、私は礼が廃れる事が惜しい、と。



【解説】

まず告朔の説明をすると、告朔とは朔を告げるという儀式となる。では、朔とは何かと言うと、陰暦の一日であり、古代中国では暦を意味した。したがって、告朔とは暦の上での一日を告げる儀式となる。周代では、12月になると天子が諸侯に対し翌年の暦を知らせ、諸侯は天子から知らされた暦を祖廟に保管していた。そして、一日に祖廟から一か月分の暦を取り出し、今日が一日である事を告げると共に、羊を生贄として供えたのである。故に、告朔と言う。

周王朝が勢いがあった時代は、この告朔の儀は周王朝の力を象徴する役割を担ったわけだが、孔子の生きた時代になると周王朝の力には陰りが見えており、その権威だけがかろうじて残っている状況だった。そういう状況では諸侯への強制力があろうはずもなく、孔子のいた魯でも告朔の儀は形骸化されていたらしい。具体的には、告朔の儀は執り行われずに羊だけが供される有様だった。そこで、告朔の儀を執り行わないのに、羊だけを供するのは無駄と考えた子貢が、羊は無駄だから省きましょうと言ったというのが今回の状況となる。孔子は周王朝の礼を復興する事こそ天命と生きていたのだから、弟子が周王朝の礼の一環でもある羊を省こうと願いでた時に、私は羊よりも礼が廃れる事が惜しいと言ったのは良く分かる。



【参考】

余談だが、羊が無駄と思うなら、供えた後に食べると言う選択肢は無かったのかと思う。日本なら新嘗祭然り、喜んで食べただろう。だが、子貢が無駄と判断するからには、当時の中国では食べなかったのだろう。四つ足は何でも食べると言われる中国にあって、羊を食べなかったのは不自然である。そう考えて見ると、見栄を張っていたと考えるのが妥当かも知れない。中国では食べきれないほどの食べ物を並べる事がステータスで、かつ食べ残す事が自慢となるため、見栄をはって貴重な羊を捨てていたとすれば自然ではある。そうならば、確かに無駄であり、子貢の気持も良く分かる。

また、儀式において羊を供物にするという事は、リターンはリスクなしでは得られないと言えば良いか、何の犠牲もなく見返りは得られないと言う発想がある事が分かる。この場合、犠牲となった羊は天に対する賄賂、もしくは税金のようなニュアンスになるわけだが、それを無駄だから省くと言うのは凄い発想な気がする。信心深い人ならば、それだけで不吉な事が起きると騒ぐくらいに。日本ならば、そう言う事をすれば霊障が起きても文句が言えない。くわばら、くわばらである。

なお、餼羊は、告朔の儀で捧げられた羊を意味する。



【まとめ】

続ける事に意義がある。


2019年1月13日日曜日

八佾 第三 16

【その16】

子曰く、射は主皮しゅひせず。力を為すや科を同じくせず。いにしえの道なり。



【口語訳】

孔子先生がおっしゃった。礼射は的に当てるだけが主ではない。労役では力の異なる者は区別して扱う。これが古のやり方である。



【解説】

1、射について

射は弓の事だが、弓と一言に言っても、礼射と武射がある。礼射は名の通り礼儀作法であるから、的に当てる云々だけでなく、作法としての一連の流れが大切となる。故に、矢を的に当てる事は評価の一つに過ぎず、礼射の主目的ではない。逆に武射のほうは実戦的で、的を射抜く事や、力強さが評価の対象となる。

さて、そもそもの話をすると、弓は武器であるから、狙う対象が獣であれ、人間であれ相手を殺すための道具である。そのため、弓の使われ方を考えるならば、殺傷能力が最も尊ばれて然るべきだだろう。狩りをするなら獲物が獲れるかどうかが最も重要だし、戦場ならば相手を殺せるかが最も重要なのだから。こう考えて見ると、弓を競うならば礼射よりは武射が自然だし、古代に弓の技を競い始めた頃はそうだっただろうと察しがつく。しかし、ある時から、弓に作法という考え方が出てきて、それを礼射と称し始めたわけだ。これを孔子は古のやり方と言っている。

では、何故古の人は弓という殺傷する武器に礼を取り入れたのかになるが、最も大切な理由は血気盛んで乱暴になりがちな武官たちを鎮めたかったと言う事では無いだろうか?これは例えば、むき出しの刀は危ないから、礼と言う鞘に刀をしまわせるという話だ。単に乱暴だった者達も礼が身につけば、自然と抑えが効くようになる。何故礼を身につけさせねばならないかは、王の視点で考えれば良く分かる。単に乱暴なだけの者は、部下とは言え謀反が怖い。だから、礼を身につけさせ、刀を鞘に納めさせたいと王は考えるものである。そして、礼を身に付けた武官たちには、刀を鞘に納める以上の効果がもたらされる。彼らは秩序だって行動するようになるから、敵から見るとより一層強そうに見えるのだ。これは、孫子の兵法に威風堂々とした軍には近寄るなとある通りである。故に、礼射は古の王が辿った道となる。






2、労役について

労役では力の異なる者を区別して扱うと言われれば、そのほうが合理的と誰しも考えるだろうが、加地伸行氏によれば、孔子の時代は人の力の差を考慮せず、一緒くたに労役につかせていたようだ。理由を考えるに、恐らく縁故主義と賄賂が原因だろう。誰が考えても能力によって仕事を分けたほうが良いのだが、それがなされなかったという事は、縁故主義がはびこっていたたか、賄賂の多寡で仕事を分けたかのどちらかと考えるのが自然だ。これは中国では常識的な行為だが、縁故主義や賄賂が行き過ぎれば国は傾くものだ。縁故主義は不平不満の温床となるし、賄賂は自分の懐ばかりで国益を省みない人を作り上げるから。孔子はその辺を考慮して、能力によって仕事を分けた古のやり方を褒めたのかも知れない。

現代の会社組織でも、こういった悩みはつきもので、会社が大きくなるにつれ自然発生する。あの息子さんは大事な取引先の跡取りだから入社させなさいとか、そのお嬢さんはこの前退職した専務のお嬢さんで、専務は大変功績があった方なので入社させなさいとか、そっちのお嬢さんは退職した社員の娘さんだが、あまり功績が無い人だから何方でも良いとか。こういった事は珍しい話では無いが、縁故採用が徒となって会社が傾く事も珍しくは無い。より強い組織を作るなら人材は広く一般に求めたほうが良いに決まっているが、色々なしがらみがあるため、そうも言えない。能力によって人を使い分けると言う古のやり方は、簡単なようで難しい。





3、朱子の解釈

朱子学の朱子は、上記とは異なり、全体を弓の事として訳している。彼によれば、弓が的に当てる事を主目的としないのは、人は生来の能力に差があるためだと訳す。原文を見て確認して欲しい。自然な訳だと思う。

原文 : 射不主皮、為力不同科


こう訳した場合、日本人は朱子が平等主義者のように感じるかも知れない。弱き者のために能力の差を考慮する、と。だが、朱子は中国人であるから、その言っている意味は逆と考えたほうが良い。つまり、自分より力が秀でた者の能力を制限するために、生来の能力の差を危惧している。中国では基本的に平等という言葉はない。彼らに言わせれば、生まれながらにしてお金持ちがいると思えば、生まれながらにして貧乏人がいる。平等なはずが無いというわけだ。彼らは日本人の惻隠の情的な平等感は持っていないので、文化の差を把握して欲しい。文官は武官の力をそぎたいものと考えたほうが、朱子の言わんとする事がしっくりくるだろう。現代で言うならば、シビリアンコントロールだ。



【参考】

科は区別という意味。科を同じくせずとは、例えば上・中・下と分ける事を言う。



【まとめ】

古の知恵は過去の失敗の教訓。

2019年1月8日火曜日

八佾 第三 15

【その15】

太廟たいびょうに入りて、事毎ことごとに問う。あるひと曰く、たれ鄹人すうひとの子礼を知るとえるか。太廟に入りて、事毎に問う、と。子之を聞きて曰く、是れ礼なり、と。



【口語訳】

先生は太廟に入られると、事ある事に質問されたので、ある人が言った。あの鄹から来たって言う先生は、礼の先生じゃなかったのかい?太廟に入るや、事ある事に聞いてるぞ。この話を聞いた先生が言われた。これも礼なのだ、と。



【解説】

現代でも人に物を聞くと馬鹿にする者がいるものだが、孔子もそういう状況にあったらしい。孔子は馬鹿にされる事を知っていても、あえて事あるごとに聞いたわけだが、その理由は人間関係から考えると分かりやすい。人に聞くと馬鹿にされると言うなら、人に聞かなければ良いと大抵の人は考えるものだが、人に聞かなければ御の字かと言うとそう簡単ではない。人に聞かずに指示を出していると、今度はそれが生意気だと言う人がでてくるからだ。つまり、孔子は生意気と思われるよりは、馬鹿にされたほうが良いと判断したと分かる。

理由を考えるに、敵を作ってしまう事を重く見たのだろう。生意気と思われれば自動的に敵を作るから、将来的に足を引っ張られるような面倒事に巻き込まれ安くなる。孔子は嫉妬の渦巻く役人の世界で生きるのだから、出来るだけ足を引っ張られないよう気を使ったのは当然の処世術と言える。そして、人に意見を求める事には馬鹿にされる等のマイナス面だけでは無く、プラスの面もちゃんとある事にも注目したい。例えば、意見を求められた人は自分は認められているとか、一目置かれていると感じるだろう。もし意見が採用されるなら、祭祀では自分がやった仕事があると自慢できるかもしれない。大抵は人間関係が円滑になるのだ。勿論、意見を求めた事で一時的に調子に乗る者もでてくるだろうが、それもそれで良いのである。人は少し隙があったほうが得すると思えば、腹も立たない。

次に、当時の時代背景を考えて見る。孔子が事ある事に訪ねた理由には、時代背景があった気がするのだ。当時は今とは違って、そもそも資料が無い時代だ。現代はインターネットに接続すれば大概の事は分る時代だが、孔子の時代はほぼ全てを口伝で伝えていた時代である。先生が言う事を弟子が暗記して、さらに自分の弟子に口伝で伝えていく。人間の脳みそは意外に忘れないもので、特に子供の頃に覚えた事は一生忘れない。だから、例えば仏教では、子共の頃にお経をみっちり唱えさせたし、和尚が読むお経を近くで掃除させながら何度も聞かせた。子共はお経の内容は分らないが、それで良いのだ。子共の頃にお経を暗記させれば、それは一生ものとなるのだから。とにかく文面を音で覚えさせる事こそ肝要なのである。お経の意味などは、大人になれば自然と分かってくる。

ただ、この方法に問題が無いわけでは無い。それは、口伝故に人によってお経の解釈が変わったり、覚え違いが出てくるという点だ。そこで、正確をきすならば、どうしても覚えている内容を他の者と照らし合わせる必要がある。孔子は事ある事に質問して馬鹿にされたわけだが、孔子が質問せざる得なかった理由にはこういった事情もあっただろう。孔子は周公を祭る祭祀に万が一にも間違いがあってはならないと、慎重な態度で臨んでいたわけだ。故に、質問する事が礼となる。なお、人間関係の関連で言えば、間違うと孔子を生意気だと思っている他の役人に揚げ足を取られてしまう。資料が無いだけに、孔子の記憶が間違っていると役人同士で口裏を合わせる事すら可能で、そう言うリスクを質問する事で担保した面もあったのだろう。現代で言えば、稟議書にハンコがたくさん押してあるのと同じ理屈である。慎重とも言えるが、みんなで渡れば怖くないという面もある。

さて、最後に葬儀の地域差を指摘しておく。現代でも葬儀は地域によって様々だ。日本を例にとっても、仏教式でやる地域もあれば、神道式でやる地域もあるし、仏教や神道と一言にいっても宗派ごとにやり方が違う。葬儀には決まったやり方が有るようで無いのだから、葬儀の際は相手にどのようなやり方でするのか聞くのが一般的だろう。孔子の置かれた状況も同じだったのでは無いだろうか?何せ中国は日本より多種多様だ。孔子は葬儀屋だったのだから、祖霊を祭るやり方は熟知していただろうが、それでも地域の差を思えば聞かざる得なかったと考えても自然な気がする。今回は周公への祭祀という事でやり方は定まっていたとは思うが、施主が前と同じやり方を望むとは限らないのだから、聞いたほうが無難な事は間違いない。故に、聞く事が礼となる。以上、総合して考えると、孔子が馬鹿にされても質問したほうが良いと考えた事は、理に適っていて悪くない判断だったと分かる。



【参考】

1、太廟は、魯の祖である周公を祭るみたまや。

2、鄹は孔子は出身地で、鄹人とは田舎者という蔑視を含む表現。

3、事あるごとに質問したのか、事あるごとに利用したのかは紙一重。後者が中国的解釈な気がする。



【まとめ】

聞くは一時の恥。

2019年1月6日日曜日

八佾 第三 14

【その14】

子曰く、周は二代にくらぶれば、郁郁乎いくいくことして文なるかな。吾は周に従わん。



【口語訳】

孔子先生がおっしゃた。周は夏・殷と2つの王朝に比べて、文化が秩序立ち、花が香るように盛んで美しい。私は周の礼法に従おうと思う。



【解説】

孔子が周の礼法を推奨する理由を述べた一節で、孔子が周の礼法を夏と殷の礼法が発展したものと考えていた事が分かる。花が香るようにとは、大変な褒め様だ。なお、監の訳し方によって、訳が多少異なるので触れて置く。監は監察と言う意味だが、監察した後に単に比較するのか、規範として採用するのかという問題がある。自分の口語訳では前者の比べるほうを採用して訳しているが、後者の規範として採用したと訳す訳者も多い。後者の場合、監を比べてではなく、かがみ見てと読む事になるが、これは日本人的な解釈となる気がする。

日本人は古事記の国譲りを見ても分かる通り、例え相手を屈服させたとしても、相手の顔を潰す事は好まれない。相手の面子を考えない人間は悪い評判が立つもので、キチンと相手の面子をたてる人間が好まれる。だから、日本人的な発想をすると、孔子は立派な人物だから前王朝の面子をたてたのだろうと考えて、2つの王朝より文化が発展したと前王朝を卑下するのではなく、2つの王朝の文化を引き継いだお陰で文化が発展できたと訳す。

比べて中華主義では、自分たちのみが文明を誇ると考えるから、例え前王朝であれ、周が前王朝の文化を規範とするなどあり得ない発想だろう。周から見れば、前王朝は野蛮人の国である。何故野蛮人から文化を引き継がなければならないのか?こう考えると、2つの王朝を規範とするより、比べてと訳したほうが中華主義にそっている気がする。中国では、本音はともかくとしても、周辺国は夷狄と蔑まなければ仲間内での立ち回りが難しい。



1、引く日本文化と、足す中国文化

孔子は周の文化を夏と殷に比べ華やかであるから良いと言っているが、実際にはシンプル・イズ・ベストの言葉もあるように、華やかにすれば良いとは限らない。そういった問題は言わば好みの問題であるから、華やかな事を嫌う人もいるのが現実だ。例えば、料理を例にとって考えて見よう。料理は毎日の事だけに、その民族性が現れやすい。日本料理では、素材の味を活かすために足す事よりも引く事に基本がある。下の画像を見て欲しい。




画像は日本ではお馴染みの冷奴だが、料理としてみれば、余計な物を足さずに豆腐の味を堪能してもらう事に注意が払われている。こうすると誤魔化しが効かないため、豆腐の味が不味ければ美味しくないし、豆腐の味が良ければ美味しいとなる。当たり前の話だが、実はこの事に誤魔化しを嫌う日本文化が垣間見える。それは、中国の麻婆豆腐と比べると良く分かる。





麻婆豆腐は筆者も大好物であるが、日本の豆腐料理に比べるとゴテゴテしている点に注目して欲しい。麻婆豆腐は日本のように豆腐そのもので勝負するという発想で作られた料理では無い。豆腐に美味しいソースを足して美味しくすると言う発想で作られている。これは麻婆豆腐だけではく、餡かけ料理にも顕著に表れている特徴で、例えば蕎麦一つとっても、日本は蕎麦その物の味を楽しもうとするが、中国は餡をかけて、餡かけソバとして楽しむ。善悪では無いのだ。何方も美味しい。ただ、引く日本と、足す中国と言う文化の差があると言う事を確認して欲しい。

そして、足す事で誤魔化す余地も生まれてくる。引けば胡麻化せないが、足すならば一つくらい粗悪な品があっても分からない。この相手を騙す余地を用意している所に、中国人のしたたかさを感じるのである。誤魔化す事を嫌う日本は引き、誤魔化す事が当然の中国では足す。発想の根源を感じるでは無いか。なお、長崎チャンポンでお馴染みのチャンポンと言う言葉は、色々なものを混ぜるという意味で、お酒の席でも様々なお酒を混ぜて飲むことをチャンポンと言ったりするが、その語源を辿ると中国の福建省にたどり着くと言う説がある。



【参考】

1、郁郁乎は、文化が盛んで秩序だっていると言う意味。まるで花が香るような華やかさと言うニュアンスとなる。


2、文は文化の意味で、文化とは礼楽制度を言う。文なるかなとは、何とも文化的だというニュアンスで、文化が盛んで美しい様を意味する。


3、料理の話は加瀬英明氏、石平氏を参考にした。















【まとめ】

比べると分かる事がある。

2019年1月5日土曜日

八佾 第三 13

【その13】

王孫賈おうそんか問うて曰く、其の奥に媚びんよりは、むしそうに媚びよとは、何のいぞや、と。子曰く、しからず。罪を天にれば、 いのる所無し、と。



【口語訳】

王孫賈が訪ねた。奥の間に媚びるより、かまどに媚びよと言いますが、どう思われますか?孔子が答える。そうでしょうか?天から罰を受けるなら、祈りをささげる場所さえ無くなってしまいますよ。



【解説】

孔子が晩年、諸国を放浪していた際に立ち寄った衛での一節となる。当時の衛では、君主よりも臣下の王孫賈のほうが実質的に権勢を誇っていた。にもかからわず、孔子は君主のほうに礼をつくした挨拶をしたため、それを面白く思わなかった王孫賈が花より団子と茶々を入れた。王孫賈からすれば、力のない君主に礼を尽くすより、権勢を誇る自分に礼を尽くす方が得なのでは無いかという訳だ。

しかし、孔子はそうでは無いと答える。理由は、彼が周公の礼を復興する事こそ天命であると信じていたからであろう。孔子は礼の先生だ。言行一致の大切さも説いてきた。その孔子が花より団子と礼を無視しては、孔子は言っている事とやっている事が違うと思われ、弟子達もついてこなくなるし、孔子の話に誰も耳を貸さなくなるだろう。そうなっては、周公の礼の復興などおぼつかない。故に、花より団子が天に唾を吐くが如き行為となり、祈る場所も無くなる。あえて孔子の本音の部分を会話にするなら、花より団子と言いますが、私にとっては礼を守る事こそ団子ですよと言っていると考えても自然だろう。ただ、考えてもみて欲しい。そうストレートに言っては無粋だろう。だから、孔子は本音の部分は隠しつつ、恰好をつけて見せたのだ。天に唾を吐くような真似は出来ない、と。ピシャリである。



1、奥の間より、かまどに媚びよ

日本で言えば、花より団子と言う例えだが、歴史的に中国人が置かれてきた状況を裏返した言葉となる。中国に宗教があるとすれば、それは飯だと言うくらいに、中国人は飯にこだわる。何故そのような文化が育ったかと言うと、それは人民は常に飢えていたからに他ならない。中国では平和な時期はとても短く、戦乱が常であったため、毎日ご飯にありつけるという事が大変に稀な事だった。そのため、兎にも角にも、かまどの神に媚びて飯にありつこうと言う発想になるのである。故に、結構切実な言葉となる。

こういう背景を考えて見ると、王孫賈の花より団子と言う問いかけは、中国人ならば花より団子は当然のはずだよねって言っていると解釈できる。そこを孔子は天に唾を吐けぬといって恰好をつけるものだから、中国人にはとても不思議な人に映るのだろう。孔子の教えは、中国には残らなかった。



【参考】

竈は、かまどと読む。


下の画像は日本の奥座敷だが、信用置けない人物を奥まで案内するかと考えて欲しい。奥の間とは、そう言う意味だ。大概は奥の間に通されれば、かまども後からついてくる物だが、そう考える余裕もない事情が中国にはあったという事。












【まとめ】

何が団子かは人によって変わる。


2019年1月4日金曜日

八佾 第三 12

【その12】

祭ればいますが如し。神々を祭れば神々在すが如し。子曰く、われ祭りにあずからざれば、祭らざるが如し、と。



【口語訳】

先祖を祭れば、まるで先祖が其処にいるかの如く。神々を祭れば、まるで神々が其処にいるかの如く。孔子は言う。私は祭りに参加できなかったとき等は、祭ったような気がしないのだ、と。



【解説】

今回は祭祀を行う者の一般的な感想を述べている気がする。孔子は先祖を祭る時は先祖がいるかのように、神々を祭る時は神々がいるかのようにと言っているが、これは祭祀を行う者にとってはイロハのイでありる。

例えば、日本でもお馴染みの念仏を考えて見よう。現代の日本で念仏と言うと、お坊さんがお経を唱えている姿を連想しがちだが、本来の念仏は念の中に仏を作る故に念仏と言う。だから昔は仏像を置いて念仏を唱えるなんて事はむしろ邪道であり、座布団くらいはまだしも、基本的には自分の念のみで仏を作るのが正しい作法であった。ただ、それでは普段仏典にふれていないような素人にはとっつきにくい。だから、布教しづらかったのだろう。念の中に仏を描くと言われても、素人には意味が分からないから。そこで、仏像のような明確な信仰の対象があればとっつきやすいとなり、言わば布教の都合から、今のような仏像を作る文化が定着した。ちなみに、仏像を最初に作ったのはインド人ではなく、ギリシア人らしい。仏教がギリシアに伝わった際にギリシア人が勝手に作ってしまい、それがシルクロードを通って日本にやってきたと言われている。ギリシアと言えば彫刻が有名だが、彼らには何でも彫刻にしたがる癖があったのだ。

なお、日本では、先祖を祭る時は先祖がいるかのように振る舞わないと罰が当たるという言い伝えがあったりする。例えば、仏壇の前で嫁の悪口を言う姑がいたりする家は、例えば子供がイジメにあったり、旦那が病気になったり何かと不幸に見舞われたりするのだが、姑が悪口を言う事を止め真摯に先祖を祭るようになると、不幸がピタっと止まったりする。不幸の原因は真摯に祭ってもらえない先祖が起こした霊障というわけだ。孔子は葬儀屋だけに、こういった話も頭にあったとしても自然だろう。特に中国では先祖は地下で生きている事になっているのだから、祭祀を執り行う時は、まるで先祖がいるかのように振る舞わねば不味かった事情も透けてくるようだ。

孔子が祭祀に参加できなかった時は祭ったような気がしないのは、それ自体は自然な話だ。何せ祭祀に参加していないのだから。だが、孔子は葬儀屋である事を考えると、お金の面で考えても良いかも知れない。自分が祭祀を取り仕切らねば、報酬はどうだったのだろうか?彼にとって祭祀は食い扶持なのだから、お金の面からも祭ったような気がしないのは当然な気もする。仕事の達成感は、報酬の額に比例しやすい。



【参考】

1、与は、一緒に力を合わせてという意味で、参加と訳した。


2、孔子の主観にそって解説してみたが、他にも外部からどう見えるかと言う視点で考えても良い。つまり、祭祀を演出するという視点である。先祖の霊や神々を降ろすと言って、先祖の霊や神々が其処にいるように振る舞わなかったら、本当に先祖の霊や神々を降ろしたのかが分からない。ドライに考えると、こういう事情もある。


3、念仏のくだりは、沖本克己氏を参考にした。仏の姿を想像する事を偶像崇拝と言って、釈迦仏教ではご法度となる。だから、念仏と言う話になるのだが、ギリシア人は偶像を作る事にこそ文化があったため、ご法度を破って仏像をつくってしまった。なお、キリスト教であれ、イスラム教であれ偶像崇拝はご法度だ。






【まとめ】

祭祀は心。


2019年1月2日水曜日

八佾 第三 11

【その11】

る人ていの説を問う。子曰く、知らざるなり。その説を知る者の天下にけるや、其れこれここに示すが如し、と。其のたなごころを指せり。



【口語訳】

ある人が諦についての説明を求めると、孔子先生はおっしゃった。私には分かりません。それが分かるなら、天下の事もここに示すが如きでしょう。と、手のひらを指さした。



【解説】

孔子は文献さえ十分ならば、自分の知識が確かな事を証明できたと嘆くくらいの人物だから、諦の説明ができなかったかと言われると、恐らくできただろうと思われる。だが、孔子は分らないと言っているわけだが、それは何故だろう。流石の孔子も文献が足りないのでは、細かい部分は説明できなかったかも知れないので、まずは素直に分からなかったから正直に分からないと答えたと考えて見る。人間は本を読むほどに自分の無知を知り、知らない事が多い事に気づくものだ。そうすると、自然と謙虚になるもので、賢人ほど自分の未熟も認識している。孔子は当時の賢人であったわけだから、本当は説明できたが自分の未熟な部分を思って、分からない部分もあると謙遜したと考えても自然だろう。孔子の本音はさておき、周りからはそう見えたはず。

だが、孔子は現代で言えば葬儀屋だ。葬儀屋が法要の事を聞かれて、分からないと答えるようでは商売あがったりである。そう考えて見ると、孔子が分からないと答えた事は不自然なのだが、分からないと言っている以上、相手に合わせる他なかったとも考えられる。どういう事かと言うと、例えば、秦の始皇帝のエピソードが分かりやすい。日本で馬鹿と言うと、仏教で無知を意味するサンスクリッド語のモハを音写した言葉だから、無知な人を馬鹿者と言う。だが、中国で馬鹿と言うと日本と同じ意味では無いのだ。中国における馬鹿とは、秦の始皇帝が鹿狩りに出た際、鹿と間違って馬を射ってしまった故事に由来する。ある時、始皇帝は鹿狩りで間違って馬を射ってしまった事があったと言う。鹿狩りで馬を射ってしまったとなると恥ずかしいミスだ。だから、面子が潰れると思ったのだろう。始皇帝は、射った馬を鹿と言い張った。そうすると、お付きの者達も倒れているのが馬だとしても、それが馬だとは言えない。言えば殺されるからだ。そこで、始皇帝に合わせて、馬を鹿だと言って祝ったのだ。これが中国における馬鹿である。

孔子が葬儀屋だったのにもかかわらず、法要を分からないと答えた事情を察するに、秦の始皇帝のエピソードがしっくりくるのでは無いか?また、恐らく孔子の相手は宿敵の三桓氏であろうから、単に説明したくなかったという部分もあったかも知れない。



【参考】

1、諦は、要は帝によって行われる法要。魯は特別に諦が許されていた。

2、始皇帝のエピソードは宮崎正弘氏を参考。














【まとめ】

言ってる事と、やっている事と、考えてる事が違う事もある。