2018年8月8日水曜日

学而 第一

【その1】

孔子先生がおっしゃられた。学んだ事を時には復習し、身に着いている事を確認する事は喜ばしい事だよ。そういう風に過ごしていれば、遠方から同じ志をもった仲間が訪ねてきたりして、楽しい時間を過ごす事もある。人に知られないからと言って、怒ってはいけないよ。それが君子というものだ。




【解説】


孔子が活躍できたのは数年で、基本的には浪人しながら士官先を探した人生であった事を前提に訳す事が大切なのだろう。孔子の言葉の裏には、いつでも士官が適う状態でいよ、と言う前提をおくと分かりやすそうだ。士官先を探す孔子であるから、何時でも士官できる状態にしておくとは当然だ。そのためには、身に着けたものを忘れないように、度々復習して、自己研鑽に努めねばならなかったはず。不遇のなかにあっても、必要な事が身に付いている自分を確認できれば、まだまだ私もやれると発憤出来たのでは無いだろうか?現代でも、老人がまだまだワシも若いと言っている姿をみかけるが、要はそれと思えば想像しやすい。喜(悦)ばしいの雰囲気が伝わるではないか。


孔子の時代から今にいたるまで、中国における知識人の仕事は役人しかないと言う話がある。士官先を探して浪人している者は孔子だけでは無かったろう。そう言った者が遠方から訪ねて来るならば、時には士官先を紹介してくれることもあったろうし、時にはあそこの王は民の評判が良いなどと欲しかった情報を得られたに違いない。教え子が訪ねて来たならば、昔を思い出し疲れも忘れたのではないか。波長の合う人と語り合うのは楽しいものだ。



人は努力するほど他人に受け入れてもらえるのが当然と考えやすい。こんなに勉強したのだから、こんなに頑張ったのだから、と。だから、孔子は自己研鑽を怠るなと言った後で、この点も戒めていると考えてみてはどうか。人に知られないからと言って怒ってはいけないよ、と。実際、士官先はどういうキッカケで見つかるか分からないし、怒っていたら紹介してもらえるものも紹介してもらえなくなる。場合によっては相手をわざと怒らしてその者の器を量るような話すらあるのだから、ゆめゆめ怒ってはいけない。人から話しかけやすいように、常に晴れやかな気持ちでいるという事自体が就職活動なのである。こう考えると実戦的かと思われる。


君子とはつまるところ何だろう。どうもこれには二つの説があって、一つは徳の備わった魅力的な人間と捉える説、もう一つは理想的な官僚像と解釈する説だ。孔子は士官するために浪人生活が長かったことを考えれば、理想的な官僚像と考えるのが筋だと思うが、立派な道徳人と捉えるのも実戦的だ。不遇のなかでも自己研鑽を忘れず、認められないからと言って不平不満を言う事がない。人間、かくありたいものだ。




【まとめ】

くさるなよ。くさったら終わりだからな。





------  仏教の立場からの考察  ------

自己流とは言え禅を少し学んだので、その立場から孔子の言葉を解釈してみたい。学んだ事を時には復習すると言うと、何か特別に時間をもうけて復習したほうが良いといった印象を持ちやすいが、無心に極意があると思うようになると特に努力が必要な話ではないと分かる。自然とそうなるという印象で、喜ばしいという表現も分かる気がする。遠方より友人が訪ねてきて楽しいと言うが、自分にはその経験がないため良くわからない。確かに同じ感覚を持っている人と語れたなら楽しそうではある。人に知られないから怒っていけないとのことだが、これも自然とそうなる。知られることに関心がなくなるから。



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