2018年8月8日水曜日

学而 第一 2

【その2】

有若先生がおっしゃられた。親や兄に孝行し、年長者を敬う人柄の者で、目上の者に逆らう者は少ないものだよ。目上に逆らう事を好まないのに、反逆する者を未だに見たことが無い。

君子は人間としての根本の修養をおろそかにしない。根本がしっかりするからこそ、自ずと歩むべき道が定まってくるのだから。親や兄に孝行し、年長者を敬いなさい。そうすれば、仁の徳が備わるだろう。




【解説】


単純にそういうものなのだろう。その人に仁の徳が備わっているかどうかは、見た目や上っ面の言葉だけでは判断しかねる。実際にその者がどういう行動をしているかによって判断したほうが間違いが少ない。付き合う相手に反逆の気があっては寝首を掻かれる事にもなりかねないのだから、その人となりを見るときのチェックポイントを複数もっておくのは実戦的である。親孝行かどうか、年長者を敬っているかどうかを見れば、その人となりが透けて見えると言うわけだ。これを逆に考えると、自分もそういう視点でチェックされていると言う事だから、親孝行や年長者の扱い方が結局は信用を作り上げることも忘れてはならない。誰も自分に反逆すると分かっている者をひいきしないのだから。



有若は孔子の弟子である。勿論立派な官僚となるために弟子になったであろうから、そういう視点でも解説しよう。これは士官先となる王の立場になって見ると分かりやすい。王と言う立場は色々と警戒が必要なもので、暗殺されるかもしれないし、戦に負けても殺される。常にスパイが寝首を掻こうとその機会をうかがっていると言うわけで、自然と警戒心が高くなるし、猜疑心も強くなる。この一般人とは全く異なる王の立場を理解するならば、王が自分の配下に求める資質も決まってくる。当然、反逆しない人間が好ましいとなるわけだ。ただ、実際にその人間が反逆するかどうかは、使ってみなければ分からないところはある。しかし、親にさえ反抗する者が自分に心から従うだろうか。目上の者を敬えない者が、自分に限っては敬うと言う事がありうるだろうか。普通はNOだろう。では、そういう者が士官できるだろうか。勿論NOだろう。



士官がかなった場合の処世術としての側面も抑えると良い。例えば、念願が叶い、どこぞの王に士官できたとしよう。すると、晴れて官僚としての人生が始まるわけだが、王は恐ろしい存在であることを忘れてはならない。王の機嫌をどう取るかは官僚として最も大事な仕事と言ってもよく、王の機嫌を損ねて殺されるという例は歴史的に珍しくない。諫言を疎まれ殺された者もいれば、教養の高さがあだとなって殺された者もいる。諫言はさておき、教養の高さを買われて官僚に採用されたにも関わらず、官僚になるならばこういった理不尽は避けては通れないのだから、しっかり対策を練っておくのが実戦的だ。では、どう対策を練るかとなるが、要は王の機嫌を取れれば良い。特に王に疑われない資質が重要で、それが最も根本的な資質だと考えれば有若の言につながっていくだろう。反逆の2文字は、雇われる側の立場からみると軽視しがちだが、雇う側に立ってみるとその重さが良くわかる。


諫言 = 反逆した

教養が高い = 反逆された場合に打つ手がなく怖い




人は結局心だ。心を見るし、心が見られる。これが君子が根本の修養をおろそかにしない理由と思われる。ではどんな心が一番心に訴えるかと言えば、筋が良いのは思いやりである。この思いやりの心を仁と言う。故に仁を身に着けるために親孝行に励み、目上を敬いなさいと言う。自然と敵がいなくなっていくだろう。






【まとめ】

遠くに行きたければ、敵を作るな。






-------  仏教の立場からの考察  ------


自分のためにという感覚が薄れてくると、自然と相手のために良かれと思う事を第一に考えるようになる。これが仁だろうか。この感覚は世界を無心を中心にとらえ直した場合に生じてくることを思えば、根本とは無心に他ならない気がする。自分のことに関心がなくなれば、孝行や目上を敬うことも何ら差しさわりない。孝行や目上を敬うことを通じて仁を身に着けると言うより、無心に軸を置くことで自然とそういう素養が見につくと言う順番が筋とすら思う。大事なことは無心、故に君子は根本の修養をおろそかにしないのだろうか。

ただ、自分は無心にきづくまえから、実際にできているかはさておき、孝行や目上を敬うことに何ら抵抗がない人間だったため、無心に軸をおけば孝行や目上を敬えるようになるかは正直分からない。無心がもたらす効果として分かるのは、自分のためにという欲がかなり抑制されると言う事だけだ。欲はなくなるわけでは無いが、やる事は変わらないという気持ちも同時にあるため、まさに不思議だ。



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