2018年8月18日土曜日

学而 第一 9

【その9】

曾先生が言われた。父母の葬儀においても、遠き祖先の祭祀においても、心を尽くすのであれば、民の道徳心は厚くなっていくものだ。



【解説】

葬儀に心を尽くすと良い、祖霊祭祀に心を尽くすと良い、と場当たり的に考えると本質から外れてしまう。大切なことは発想の根本にある真心だ。極端に言えば、是だけ抑えれば事足りる。例えば、葬儀を執り行うとしよう。真心を尽くすならば、自然と間違いがないように慎重になるだろう。だから、そう書いてある。葬儀に心を尽くせば道徳心が厚くなるという順番ではなく、真心を以って生きていれば自然と葬儀に心を尽くすようになると理解したい。そして、その姿を道徳心が厚いと言う。何気ないようだが、この順番の違いが肝だ。




政治技術的に解釈してみる。孔子の生きた時代は、葬儀に心を尽くす事が、社会秩序の維持につながると考えていたようだ。ただ、ここで想定している終わりとは、一般人の死では無く、貴族の死らしい。そのため、口語訳では現代の状況にあわせ、父母の葬儀と一般化して書いたが、本来は為政者が働いてくれた貴族の死に対し、祖先への祭祀を含め報いると良いという話となる。葬式や年次法要が、為政者が信賞必罰をアピールする儀式として利用されていたのであろう。俺についてくれば、死者となってすら報いるぞ、と。中国では永遠の命を前提にした文化があるため、実利的に説得力があるパフォーマンスとなる。





俺についてくれば報いるという一例を示す。例えば、日本の職人の世界などでは昔は親方半どりという風習があり、報酬の半分は親方がもらい、残った半分を残りのみんなで分けた。一見すると親方の報酬の高さばかりが目につく風習だが、それがそうでもなかった所に妙味がある。と言うのも、親方は報酬の半分を取る代わりに、職人の娘が結婚すると言われれば結婚費用を出したし、親が死んだと言えば葬式費用を出してやったからだ。こうする事で、親方は血こそつながっていないが、親子同然となったらしい。余談だが、結婚相手を選ぶ時は、その相手の家がきちんと先祖供養している家かどうか見ると良いらしい。先祖供養している家の子ならば大丈夫と言う話がある。





(語句の説明)

1、終わりは老衰死という意味(貴族の死)。

2、慎みは葬儀を正式な形式に則って行うと言う意味。

3、遠きは祖先と言う意味。





【まとめ】

先祖供養をしないと、ろくなことは無い。






------  仏教の立場からの考察  ------

永遠の命に気付くのが仏教の命題かも知れない。個人的には、無心を中心に世界をとらえ直してからと言えば良いか、そういう視点でも世界を見れるようになってからと言えば良いか、その両方の側面を持つようになって死生観にも変化が訪れた。生と死を分けて考えなくなったのだ。死は何処かあの世に行ってしまうというような特別な事ではなく、単に無心から意識が戻らない状態、言い換えれば無心そのものを表す言葉な気がする。無心なら通いなれた道だろうという不思議な感覚がある。



0 件のコメント:

コメントを投稿