2018年8月15日水曜日

学而 第一 7

【その7】

子夏先生がおっしゃられた。夫婦関係においては互いの良いところを見出していくことが第一であって、見た目云々は二の次だ。父母に仕えてはその力を尽くし、主君に仕えては真心をそえ、友人との交わりにも嘘が無い。そういう人間であるならば、例え「自分はまだまだです」と言おうとも、私は教養人とみなすだろう。




【解説】

教養とは人間愛の事である。その実践をできている者は教養人である。こう考えて見ると分かりやすい。例えば、夫婦関係において人間愛を実践するとする。見た目云々を問題にするだろうか?それよりも相手の良いところを尊ぶのが自然だろう。例えば、父母に仕えて人間愛を実践するとする。父母のことを適当に扱うだろうか?それよりも父母に力を尽くすのが自然だろう。人間愛をテーマに生きている者ならば、主君に二心もって仕えるはずもなく、友人を騙してという発想もするはずがないと気づけば、だからそう書いてあると分かる。人間愛に終わりはない。どこまで行っても反省の繰り返しである。当然「自分はまだまだです」となる。

夫婦関係はどうあるべきか、主君や友人との関係ではどうだと考えるのではなく、まず人間愛という根本を抑え、そこから夫婦、主君、友人との関係のあるべき姿を考えてみるのが良い。自然と子夏先生の言葉に行き着くだろう。



教養 = 人間愛 = 仁






今回の箇所は「賢を賢として色を易んじ」の解釈をどうするかで諸説あるようだ。ただ、どの解釈をとろうと人間愛を根本にそえた判断をすれば正解と思われる。賢賢易色は一に人間愛、二に人間愛、三四がなくて、五に人間愛というニュアンスとして受け取れば良い。例えば、「色を易んじ」は女性を追っかけたりしないと訳されるのが一般的だそうだが、この場合も人間愛を軸にして発想するなら女性を尊重しこそすれ、性欲まかせに追っかけたりはしないだろう。また、当時賢者を美女のごとく敬えという格言があったそうで、その事を言っているとの説もあるようだが、人間愛を軸に発想すれば賢者を敬うのは当然である。



【まとめ】

分かってしまえば 全ては同じ
分からなければ  バラバラだ

分からなくても  全ては同じ
分かってしまえば それぞれよ






------  仏教の立場からの考察  ------

上記の詩を思い出す。








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