2018年8月21日火曜日

学而 第一 10

【その10】

子禽が、子貢に尋ねた。師が訪れた国々では、必ず君主から政治上の相談を受けましたが、これは先生が求められたからでしょうか?それとも、先方からの求めでしょうか?

子貢が答える。先生は温厚、善良、恭敬、倹約、謙譲という徳をお持ちなので、自然と相談を受けるのだ。例え師から求められた場合でも、凡人の物欲しげな求め方ではないよ。



【解説】


五徳を具える事が大切と理解するより、真心の持つ5つの顔を五徳と言っていると理解したい。真心を大切にして生きていれば、人によっては温厚な人だとなるし、また別の人は善良な人と言うだろう。表現の差こそあれ、何方も真心を表現したに過ぎない。こう考えると様々に応用が利く。例えば、真心を軸に生きていれば、当然相手を慮る。慮れば礼儀を重んじるようになるだろう。真心によって我が抑制されるなら贅沢にも関心が薄くなっていくだろうし、謙譲も自然な成り行きだ。孔子から求めた場合であっても、あくまで真心から求めるのであり善意そのものの現れである。五徳は真心の副産物、こう理解したい。



何故孔子は行く先々で相談を持ち掛けられたのだろう。この答えは第一人者だったからであろう。道に達すれば自然とお迎えがくるもので、道半ばでは相手にしてもらえない。何事もそういうものだから、一所懸命に励みなさい、と考えるのが筋だと思われる。



孔子は君主が好むツボを良く抑えていて、そのツボが5つ紹介されていると考えても良い。孔子は温厚で話しかけやすく、相談すれば親身になってくれる。善良な人だから相手を騙すような真似はしないし、魯国の高官の経験もあるから君主に対する礼儀も知っている。浪費から国が亡ぶ事を知る君主から見れば、倹約家は信頼がおけ、へりくだり君主の顔を立てる事を忘れない姿には、相談していて安心感がある。そんな孔子だからこそ、君主は会いたくなる。また、孔子は理想の政治を実現するために士官先を求めていたのだから、時には孔子から働きかける事もあった。ただ、そんな場合であっても、孔子には凡人のような自己PRは必要ない。立ち居振る舞いは洗練され、会話の節々に見識の高さが伺えるので、立派な人だと相手に伝わってしまうのだ。人格を磨き、修養を続けると、ある時それが体からにじみ出るようになる。そうなるとしめたもので、普通にしているだけで物事は上手くいくようになる。巧みな言葉を身に着けようとしている内はまだまだで、いくら上手い事を言っても、そこに心が無ければ相手に見透かされる。「本立ちて道生ず」と言う有若の言葉があるが、その事を確認できるエピソードと捉えてどうか。




逆に、五徳を備えてないとどうなるかを考えて見る。温厚でなければ、冷たいとなって怖がられる。善良でなければ、信用がおけないとなる。恭敬でなければ、不遜で生意気となる。倹約でなければ、どこでそんな金を手に入れたとなって、ある事ない事噂される。謙遜でなければ、気を許せないとなる。官僚として王に仕える身にあって、これが立場を悪くする事は否めない。




偉い人に頭をさげられれば恐縮し、偉い人であっても踏ん反りかえれば陰口をたたかれる。どちらのほうが上手くいくかは結局は運なれど、どちらが可能性が高いかと考えれば前者だろう。五徳にはそういう側面がある。




【まとめ】

一即多、多即一




------  仏教の立場からの考察  ------

仏には三十二相あるとかなんとか。

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