2017年12月28日木曜日

欲をコントロールするコツ

欲を無くしたければ、飽きるまでする事。

欲を保ちたければ、腹八分目にする事。




---- 以下、余談 ----

どんなに楽しい事も、飽きれば楽しくない。ならば、飽きるまですれば欲から解放される。人ははしかになれば、免疫ができるのと同じ理屈だ。我慢するのも手だが、飽きるまでやるのも一つの手と知っておこう。

逆に欲を保ちたければ、腹八分目にして楽しみを残しておくことが大切だ。例えば、どんなに好きな食べ物でも、食べ過ぎれば飽きて食べたくなくなる。吐き気がするようにもなる。好きな物を長く楽しみたいなら、ほどほどが一番。

2017年12月18日月曜日

ハリネズミのジレンマ

寒い夜、仲間と暖を取りたいハリネズミ。

でも、体から生えてるハリが邪魔してね。

くっつくと互いを傷つけちゃう。


くっつくと痛い。

離れると凍える。

だから、くっつかず、離れず。

適度な距離が生命線。






---- 以下、余談 ----

ハリネズミのジレンマは男女、上下、横とどの種の人間関係でも同じ事が言える。人間は誰しも触られたくない部分がある。そこにベタベタと触れば、ハリネズミのごとくハリで反撃を受ける事だろう。かと言って、離れすぎては疎遠になり人間関係が途絶えてしまう。故に、君子の交わりは淡き水の如しである。

そして、特に仕事では、自分だけしかできない分野を大切にすると良い。自分の仕事を他人に全て把握されると、その相手に操作されるようになるし、軽く扱われやすい。相手に踏み込ませない領域を確保する事が自分の価値を維持し、ハリネズミのハリを持つに至るという意味でも抑えると良いだろう。

2017年12月16日土曜日

こんな人間は信用するな その4

努力しているという人は、

案外と努力していない。


本当に努力している人は、

努力していると言わないもの。


努力しているとして、

何故ことさら強調するのだろう?

結果がでてないからである。






---- 以下、余談 ----

プロフェッショナルにとって、努力とは一体なんだろうか?楽してても、結果を出せばよいのがプロフェッショナルというものである。結果を出せる人は、意外と遊んでるように見えたりする。頑張ってる風に見えないのだが、結果が量産される。悪戦苦闘している時は、なかなか結果がついてこないのが仕事というものである。

実際、努力って何だろうか?素人ではないわけだから、努力って何だろう?そういう感買では無いだろうか?プロは24時間プロである。そこに努力という概念は無いように思う。あるとすれば、周りが努力していると評価する時だけだ。

2017年12月15日金曜日

こんな人間は信用するな その3

大言壮語の格言どおり、

大言を吐く者は小量、

壮語する者は怯懦である事が多い。


弱い犬ほど良く吠えると言うが、

何故吠えるのか?

怖いからであろう。






---- 以下、余談 ----

一概にこう言えるものでは無いが、その人の言う事を間引きして考える癖を持った方が良い。特に海外との交渉では、相手は2倍3倍と吹っ掛けて自分を大きく見せてくる事が多いため、その数字を鵜呑みにしない事が求められる。

現在はマスコミが発達したせいか、言葉が軽く扱われる印象がある。レジェンド、カリスマ、ミラクルなど、本来の意味からすれば通常使われないはずの言葉をよく耳にする。これは表現の誇張であり、一種の遊び心とも言えるが、見ようによっては大言壮語である。ミラクルが頻発すれば、それは普通と言うのである。そのままでは普通過ぎて面白くないからこそ、ミラクルなどの誇張をしなければならないという作り手の心理を読むと、大言壮語の格言を実感できるのでは無いだろうか?

本当に凄いものに、言葉はいらない。見ればわかる。

こんな人間は信用するな その2

会うたびに言う事が変わる人がいる。

話してる際中でさえ、言う事が変わる人がいる。

この手の輩は信用できない。


人間は言行一致が基本である。

言葉を信じぬよう、努々注意すべし。






---- 以下、余談 ----

言う事がコロコロ変わる人に言わせれば、騙す気が無いならば、あわせているだけなのだろう。だが、そういう人間に相応の力があった試しがあるだろうか?自分の目からは、その場しのぎの人間が多いように思う。会うたび、同じことを言っているならまだ良い。だが、あくまでも言行一致を見て人を計るようにすべし。

言う事は易い。行う事は難い。言行一致でなければ、任せるには足らない。特に相手を騙す気がない正直な人ほど、相手に騙されやすい。相手を騙す人は、相手を疑ってかかるため騙されない。相手を自分と同じと思うなかれ。


こんな人間は信用するな

あの人知ってる。

自分の友人だわ。

飲み仲間だ。


初対面で人脈自慢する人がいるが、

この手の輩は信用ならない。


考えてもみて欲しい。

自分に自信のある人は、

他人の自慢をする必要が無い。






---- 以下、余談 ----

他人とのつながりを強調してばかりいる人には、では何か頼み事できるの?と意地の悪い質問をしても良いかも知れない。虎の威を借る狐かどうか判別できるだろう。人脈は互いに頼み事ができる関係なればこそ。顔見知りを人脈とは言わないのだ。


女は怖いという話

英雄は色を好み、色は英雄を好む。

だからこそ、英雄の弱点も色に垣間見える。


暗君の呼び声高い殷の紂王は、元々は暗君ではなかった。

武芸の腕はたつし、頭脳も明晰であったと言う。

それが何故、歴史の名を残すほどの暗君となったのか?

妲己がいたからだ。


妲己は周公旦の手によって、

幼き頃から紂王が気に入るよう仕込まれた女だった。


生まれてまもなく周公旦に引き取られ、

成長してから親元に戻される。

そして、紂王に献上されるのである。


それを知らない紂王は、

妲己の美貌もさることながら、

自分の事を本当に分かってくれる女と思ったと言う。


自分が好きなものは妲己も好きだし、

自分が嫌いなものは妲己も嫌う。

自分が宮廷の音楽に不満を抱けば、

言葉にせずとも妲己は音楽を変えようと言ってくる。


紂王は本当の理解者を得たと錯覚したのだろう。

しかし、妲己は工作員として送り込まれた女である。


紂王の心をつかんだ後は、生来の悪質を発揮する。

天下の主にしては財が少ないと言い、

領民から財を巻き上げる。

酒池肉林の宴をもよおし、

炮烙の刑で焼かれ死ぬ人間の姿を楽しむ。


紂王も妲己に会う前だったならば、

そんな事をすれば人民の離反を招く事は分かっただろう。

だが、紂王は妲己可愛さに、人心には考えが及ばない。


結果、人心はすっかり紂王から離れ、

最終的に自決を余儀なくされるのである。

勿論、妲己を送り込んだ周公旦の手によって。


英雄は色によって身を滅ぼしやすい。

地位があがるにつれ、お金を持つにつれ、

貴方にも色が近寄ってくるだろう。

色とりどりの接待を受けるだろう。


昔の人は言った。

接待は受けても良い。

だけど、女はいけない。

意味が伝わるだろうか?


色という字の部首は刀である。

色の本来の使われ方が字に書いてある。








---- 以下、余談 ----

十八史略の逸話を参考にした。周公旦は、孔子ですら非の付け所が無いと絶賛する君子であるが、妲己を刀として使い、殷の紂王を討った策士でもある。妲己の妲という字は、周公旦の旦に女をつけた字である。周公旦はまず美女を探し、その美女に子を産ませて、養女として引き取った。その女が成長して、名前を妲己と変えるのである。

周公旦は妲己に任務については何も言わなかったそうだ。知らぬほうが良いからだ。だが、紂王が自決し、妲己も周公旦の前に連れ出された時、妲己は言う。私は良く任務を果たしたでしょと。周公旦は妲己の首を斬って捨てるが、その叫び声はしばらく耳から離れなかったそうだ。妲己は周公旦の狙いまでも察していたのである。

傾国の美女である妲己を良く言う者はいないかも知れないが、古来中国では孝が最も大事とされる。妲己は育ての親である周公旦に対し、紂王を篭絡する事で孝をしたつもりだったのかも知れない。三国志の貂蝉が育ての親である王允に報いて、董卓と呂布の仲をさいたように。とは言え、周公旦が紂王を討ったのだから、その状況を逆に考えれば、自分が何に利用されたのかも分かりそうではあるが。

周公旦が紂王と対した時、周公旦は2万5千に対し、紂王は70万だった。にもかかわらず紂王は敗走し、自決することになる。どれだけ人心が離れていたか、恐ろしい限りである。兵法では絶対勝つはずの兵力差でありながら、勝てないのだから、紂王が負けるように味方が誘ったのは容易に想像できる。

2017年12月13日水曜日

色道3か条

一つ、色の道に連れは厳禁

一つ、愛した女を、特に寝屋は語るなかれ

一つ、蒔いた種は自分で刈り取る



男女の間の事を秘め事と言う。秘め事を秘め事で無くせばどうなるか?この男とは、一所に仕事はできないと思われる。恥を知らぬ男は信用できない。そして、他人の知恵を借りて、男女間のいざこざを解決しようとする人間は下の下である。蒔いた種くらい自分で刈り取るのがマナーだ。

男の性欲は齢50になっても衰えない。しかし、人間が道を踏み外しやすいのも色の道である。古めかしい話かも知れないが、覚えておくと損は無いだろう。






---- 以下、余談 ----

1、接待は受けても、女はいけないと覚えておくと実戦的だ。

2、なお、女も同じである。何でも話すのでは、秘密は共有できない。




2017年12月6日水曜日

天津祝詞 

天津祝詞は祝詞を奏上する時、まず初めに奏上する祝詞となる。神道の各宗派によって採用する天津祝詞は異なるようだが、一番一般的な祝詞を紹介する。個人的には大祓祝詞の簡略版と言うイメージを持っている。

天津祝詞 ⇒ 大祓祝詞 ⇒ 神棚拝詞




【天津祝詞】

高天原に神留坐す

神魯岐神魯美(かむろぎかむろみ)の命以て

皇御租神伊邪那岐命(すめみおやかむいざなぎのみこと) 

筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)に

御禊(みそぎ)祓(はら)ひ給ふ時に生坐(なりませ)る祓戸(はらへど)の大神等


諸々の枉事(まがこと)罪穢(つみけがれ)を祓ひ賜え

清め賜えと申す事の由を

天津神(あまつかみ)国津神(くにつかみ)八百万の神等と共に

天の斑駒(ふちこま)の耳振り立てて聞食せと

恐み恐みも白す




【解説】

先ず訳文から。

「高天原におられます神魯岐(かむろぎ)、神魯美(かむろみ)よ。親神である伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓(みそぎはらえ)し時に生まれた祓戸を守る神達よ。

世に諸々の枉事(まがこと)や罪穢(つみけがれ)があふれております。真に恐れ多い事ながら、どうか祓い清めいただけないでしょうか?天上の神、地上の神、八百万の神達と共に、天の斑駒(ふちこま)の耳振り立てて、この願いをお聞き届けください。」

自分が奏上する時は、難しい事は考えていない。自分がイメージする神々は、太陽と身の回りの自然であるため、奏上するときは太陽と自然にお願いするイメージをもつ。世の中にあふれる悩みや苦しみを、天地自然にお願いして取り払う祝詞だと考えている。解釈は人によって変わるようなので、自分なりの解釈をすれば良いはずだ。






---- 以下、余談 ----

1、神魯岐(かむろぎ)、神魯美(かむろみ)は、それぞれ高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と神産巣日神(かむむすびのかみ)の事のようだ。

2、「筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原」の解釈は大きく2つあるようで、福岡県だとする説と宮崎県だとする説がある。ただ、大切な事は神々に罪穢れを払ってもらう事なので、場所が何処かという問題は何方でも良いと思う。

3、祓戸(はらへど)の大神は、黄泉の国からもどった伊邪那岐命が川で禊祓した時に生まれた神達を言う。その時に天照大神も含めた色々な神が生まれるのだが、その全ての神々を指すかというと違うようだ。具体的には瀬織津比賣(せおりつひめ)、速開都比賣(はやあきつひめ)、気吹戸主(いぶきどぬし)、速佐須良比賣(はやさすらひめ)と言われている。

4、天の斑駒(ふちこま)は高天原にいる斑模様の馬のようだ。その耳を振り立てるとは、注意して聞くという意味となる。馬は初めてのものや、不慣れなものに接する時、耳を前に向け振り立てる。その様子を言っているのだろう。なお、馬がリラックスするときは耳を横にむけ、威嚇する時は耳を後ろに伏せる。

2017年12月5日火曜日

神棚拝詞 

祝詞奏上と一言に言っても、正式には3つの祝詞ワンセットで奏上するそうだ。まず天津祝詞と大祓祝詞をまず奏上し、場を祓い清める。そして我が願い事として神棚拝詞を奏上する。家の神棚の前や、神社などで奏上しやすい短い祝詞なので、個人的にはお薦めの祝詞だ。

天津祝詞 ⇒ 大祓祝詞 ⇒ 神棚拝詞



【神棚拝詞】

此れの神床に坐す 掛けまくも畏き天照大神 

産土大神等 諸々の大神等の大前に 

恐み恐みも白さく


大神達の広き厚き御恵みを辱み奉り 

高き尊き神教のまにまに

直き正しき真心持ちて 誠の道に違ふことなく


負ひ持つ業に励ましめ給ひ 家門高く 身健に 

世の為人の為に尽くさしめ給へと

恐み恐みも白す




【解説】

先ずは訳文から。

「神棚におられる口の端にのせる事すら恐れ多い天照大神よ、土地の守り神よ、恐れ多くも申したい事があります。大神達の広く厚い御恵を有難く賜り、崇高な神教えの通り、素直で正しく偽りの無い心で、誠実に生きる所存です。つきましては恐れ多い事ながら、世のため人のために尽くせるよう、我が仕事、家門、健康を御守りください。」

この祝詞の発想は自分で思いつこうと思っても、なかなか思いつかない。神様にお願い事をするとして、普通は受験、出世、安産、恋愛、家内安全等、自分の事をお願いするだろう。勿論悪い事ではないが、この祝詞は世の為人の為に尽くさして欲しいと願うのだ。頭が下がる思いである。

理解で困りそうな部分を補足しておくと、産土大神は太陽の光によって生まれた自然(神々)の事である。天照大神の光によって土地に産まれた偉大な神という意味だ。全ては太陽の光のエネルギーを本にして生まれるのだから自然な話となろう。(当ブログの六根清浄の大祓の説明を参照)

また、神の恵の最も典型となるのは稲である。由庭稲穂(ゆにわのいなほ)の神勅と言い、高天原で稲作をしていた天照大神は、孫にあたる邇邇芸命(ににぎのみこと)へ、日本に降りたらこれを食べなさいと稲を渡した。これが日本の始まりである。邇邇芸命(ににぎのみこと)は代々の天皇陛下を指し、故に日本文化の象徴は米となる。天皇陛下の存在を戦後は誤解されている様子だが、陛下は日本文化そのものであり、日本を高天原にすることを願う祭祀である。教養としても覚えておきたい。






---- 以下、余談 ----

ちなみに、日本文化は祓いと言霊と言われるが、祓いと言霊の意味を知っているだろうか?軽く説明しておく。


その1、祓い

祓いは、自分を真っ白なキャンパスにするというイメージだ。良きも悪きも須く自分から追い祓う。こう言うと、良きも追い祓うのかと疑問をもつものだが、悪きだけでなく、良きも追い祓う事がポイントとなる。要は自分を澄んだ水のように清らかにするのである。心清らかならば、心の映し鏡である世界が汚れる事は無い。(伊勢神道)


その2、言霊

祓いが真っ白なキャンパスならば、言霊は言わば絵具である。良い言葉を口にする事で、言葉に宿る守護霊のご加護を得るのだ。明るい絵を描くか、暗い絵を描くかは貴方の話す言葉によって決まる。日本文化の基本が、祓いと言霊という意味が伝わるだろうか?

人間は明るい言葉だけでなく、時には愚痴などを吐いてしまう。愚痴や不平不満で彩りをそえた絵は暗い絵となろう。だからこそ、その一切を祓って、もう一度新しい絵を書くのである。今度は明るい絵になるように。絵師が何度も絵を書きなおしながら成長するように、人間も祓いと言霊の繰り返しによって成長していくのだ。

なお、言霊は人間は話した言葉通りの人生になるという考え方であり、言葉通りの人生になる事を守護霊のお陰と考える信仰である。人生で一つだけ注意するものがあるとしたら、それは口癖と言われるが、試しに愚痴を吐いている人を見て欲しい。愚痴が愚痴を呼ぶように、愚痴ばかり言っていないか?逆に前向きな言葉を話す人は、常に前向きな言葉を話さないだろうか?これをまず実際に確認してほしい。言われてみれば、そういう節があるくらいには思ってもらえるはずだ。

2017年12月4日月曜日

六根清浄の大祓 その3

4、六根清浄なるがゆえに、五臓の神君安寧なり。五臓の神君安寧なるがゆえに、天地の神と同根なり。天地の神と同根なるがゆえに、万物の霊と同体なり。万物の霊と同体なるがゆえに、成すところの願いとして成就せずということ無し。無上霊宝神道加持。

六根が清く浄らかであるから、五臓を司る神君も安寧となる。五臓を司る神君が安寧であるから、天地の神と同根となる。天地の神と同根であるから、万物の霊と同体となる。万物の霊と同体であるから、我が願いが成就しないという事も無いのだ。神道の教えは、この上のない霊宝である。




【解説】


その1、五臓の神君安寧

六根が清ければ心が澄み切り、ストレスがなくなり内蔵(五臓)のバランスが整う。御存知のようにストレスは万病の元で、典型的には胃潰瘍がストレスによる内蔵浸食かも知れない。これに限らずストレスを感じながら生きると病気になりやすい。免疫力がおち風邪をひきやすくなったり、癌など日本人の国民病も誘発する。何故ならストレスの原因は毒物だからである。

ストレスと言うのは、脳内における毒物への拒否反応だ。興奮するとアドレナリンが分泌されるという話は有名だが、アドレナリンこそ実は代表的な毒物となる。その毒たるや毒蛇の数倍の毒だというから驚いたものだ。人間は脳で毒物を自ら発生させるが、健康な細胞は毒物へ拒否反応を起こすため、その拒否反応がストレスの原因なのである。その毒物が発生しないのなら、五臓を統治している神君も安寧であるのは当然であろう。

余談だが、人間は脳で発生させた毒物を口から希釈して吐いている。よく悪口を言う事を毒を吐くと言うが、これは比喩でも何でもなく本当に毒を吐いている。南の島に現存する原住民などは、口から吐く毒をつかって木を切る事もあるのだ。彼らは通常は斧で木を切っているが、樹齢1000年という大木になると斧では切る事が難しい。そこで、口から吐く毒を上手く利用するのである。

彼らにはシャーマンみたいな特別な職があるらしく、切りたい木の回りをシャーマン達が取り囲み、一日中罵声を浴びせるのである。勿論一日でどうなるものでもないが、これを1か月、2か月と続けるとどんな屈強な木でもシナシナと弱まり倒れてしまうのだそうだ。今の日本ではそんな発想を思いつかないが、嘘のような本当の話だ。人間が進化の過程で、爬虫類だったころの名残と言われている。

さて、話を戻そう。五臓の神君が安寧である時、人は健やかで景色がより済んで見えるもの。綺麗なものはより鮮やかに見え、時には感動すら覚える。そして、普段人は気に留めないが、これは天照大神(太陽)の恩恵なのである。




その2、天地の神と同根

何故ゆえに人は太陽の光に親しみを感じ、安心を覚えるのだろうか?例えば、ダイヤモンドが好まれる理由も光の反射ゆえであろう。人間はどうも光が好きなのである。その理由を考えるに、もしかしたら光に対する同族意識なのかも知れない。

人に限らず、全ての生き物は太陽の光から生まれた。例えば、人の進化の過程を紐解くと、もともとは古代の海にいたヴァクテリアだと言われる。ヴァクテリアが光のエネルギーを得て、数十億年の月日をかけて人まで進化してきた。その中では爬虫類や両生類にとどまった者もいるし、分岐して野生動物になった者もいる。そして、ある者は植物へと進化した者もいるのである。

この進化の過程を光のエネルギーという一点だけで考えて見ると、なぜ天地の神と同根なのかの理由がはっきり分かってくる。それはどの種の動植物を見ても、最初は単なる細胞があっただけで、その細胞が光のエネルギーを吸収する所から始まるからだ。これは言わば、光というエネルギーがその細胞内で変換されて留まったに過ぎないとも言える。変換された後に人は光とは言わないだけで、元来それは光のエネルギーなのである。

人は野菜を食べるが、野菜は光を浴び光合成をしながら成長する。野菜は光を光合成によって自らのエネルギーに変えるが、光のエネルギーが光以外の形に変換されて野菜にとどまったにすぎない。人が野菜を食べるとは、光のエネルギーを野菜という形で摂取するという事でもあるのだ。勿論、動物も同じ理屈である。

このように人は、光のエネルギーが野菜や動物と様々な形に変換され留まった物を食べて生きている。人は直接的にも間接的にも光の恩恵を受けているのである。人は光のエネルギーを自らの力にする事で進化してきたし、今なお光のエネルギーを様々な形で摂取して生きている。だからこそ、人は光に親しみを感じ、安らぎを覚えるのでは無いだろうか?日本では古来より八百万の神がいると考えて来た理由も、光に注目して考えて見れば自然な成り行きとなるのである。光こそ天照大御神であり、故に天地の神と同根なのだ。




その3、万物の霊と同体

人は天地の神と同根であるから、万物の霊も同じく光の恩恵によって生じる。故に光のエネルギーと言う意味で同体となる。そして、我は万物の霊と同体、言い換えれば、かくも美しくエネルギーに満ちた天地自然と同体なのだ。叶わぬ願いがあるはずが無いだろうと祝詞は言っている。(解釈に国誉めの風習をエッセンスとして加えて見た。)





---- 仏教的追記 ----

無心なれば五臓も自然本来の働きをするのみで、そこに苦は無い。同根と言うは、思考が天地の神と自分を分けると言う意味であり、同体と言うは無心を言う。無心を意識がいくようになると、自然がより美しく感じられるようになっていく。その空気の透明感にも安らぎを得られるようになる。これをもって願いが叶ったと言う。まさに無上の霊宝であり、神の道である。それに実感が伴うと加えて持つと言う。









---- 以下、余談 ----

般若心経が分かると、六根清浄の大祓もより理解が進むのでは無いだろうか?有機物だけでなく、無機物も光のエネルギーによって生じると説明できるが、般若心経の色即是空の感覚を知らないと難しい話になってしまう。興味ある方は当ブログの般若心経の解説を参照して欲しい。色即是空ゆえに、無機物は光のエネルギーによって生じる。

https://bibouroku1212.blogspot.jp/2017/08/blog-post.html

2017年12月2日土曜日

六根清争の大祓 その2

3、諸々の法は、影と像のごとし。清く淨ければ、仮にも穢るること無し。説を取らば得べからず。皆花よりぞ木の実とは生る。わが身はすなわち六根清浄なり。

諸々の自然現象は、心を映す影、もしくは心を象る像のようなものである。心が清く、そして清らかに保っていくならば、仮にも汚れる事は無い。言葉で理解しようとしても分からないかも知れないが、この世の全ての現象は綺麗な花が咲く種のようなものなのだ。なればこそ我が六根を清浄し、心を清く浄らかに保つのである。


【解説】

この世は鏡のようなものであると言う。心が悲しみであふれていれば、景色は何処か物悲し気に見え、心晴れやかなれば雨でさえ陽気な彩を見せる。相手を嫌な奴と思えば大概は相手からも嫌がられるし、相手に好意的に接すれば相手からも好意的に接してもらえる。分かるだろうか?貴方の心象風景をそのまま投影するのが世界なのだ。まさに映し鏡の世界である。

考えてもみて欲しい。悲し気な景色というものが、この世に存在するだろうか?心がせつない時は、誰かの笑い声さえ自分のせつなさを増す声になる。だが、笑っている本人は楽しいはずだ。同じ空間にいても、人によっては楽しくもあり、人によってはせつなくもある。見える景色は人によって変わるのだ。嫌な奴も同じだ。自分は嫌な奴と思っていても、その相手にも家族がいて、恋人がいて、友人がいる。本当に嫌な奴なのだろうか?人によってその人間の評価は変わるのである。

この世界には良いとか、悪いという概念はない。言わば世界は中立であって、ただただ物理現象が起きているだけである。それが悲しげに見えるなら、悲しげと決めているのは自分であり、陽気に見えるなら陽気と決めているのは自分である。この事に気づく事が最大のポイントとなる。つまり、世界は中立なれど、良いか悪いかは自分の心が決めている。他人から見た世界と、自分から見た世界は違うのだ。

シェイクスピアの言うように、人生では誰しも一つの役を演じなければならないなら、自分の世界では自分が言わば劇の主役である。そして演出家、脚本家もかね、何もかも自分が決めている。人間は神の依り代、自分の心は神からの預かり物であるというイメージが伝わるだろうか?少なくとも貴方の世界では、貴方が全ての良し悪しの決定権を持つ神とも言うべき存在なのだ。

人生には悪い事は起きない。なぜなら自分で良いか悪いかを決める事ができるから。決める権利があるのだから、良いと決めれば良いだけだ。これを祝詞では、「皆花よりぞ木の実とは生る」と表現していて、全ての事は綺麗な花が咲く種のようなものだと言うのである。何故綺麗な花が咲く種になるのか?自分の世界では、自分が全て決めれるからである。綺麗な花が咲いたと解釈すれば良いだけなのだ。

世界は影のようなもので、自分が清らかならば世界は汚れる事はなく、皆綺麗な花がさく種のようなものと祝詞では言ってるが、まさにその通りであろう。なんせ自分でそう決めるだけなのだから。そして、なればこそ自分を清く保つよう精進するのである。最後に具体的な例をあげておく。

例えば、先生や上司に怒られたとしよう。ある人は怒られたと愚痴をこぼすが、ある人は目をかけてくれていると喜ぶ。怒るという事は、まだ見捨てていないとも言える。見捨てたら人間は無視をするのだから。要は考え方一つである。どちらの解釈にするかは自分で決めるのである。後者で解釈できる人にとっては、怒られた事は言わば種であり、清らかな心を養分として綺麗な花が咲くのだ。



---- 仏教的追記 ----

諸々の法は分別がつくりだす影のようなもの。無心なれば法すらない。この感覚は言葉にできるようなものではないが、花が実を結ぶ姿にありありと現れている。それが分かるなら、何故ゆえに清浄という字をあてがうかも分かるだろう。










---- 以下、余談 ----

この話は真実であって嘘ではない。だが、得心がいくかは人によっては違うだろう。そんな馬鹿な話と思う人もいるし、そんなうまく行くわけないと思う人もいて、素直に納得する人もいる。それ故に「説を取らば得べからず」と祝詞は言っている。本当の話だが、説明して納得してもらえるかは分からないのである。

2017年12月1日金曜日

六根清争の大祓

自分なりの解釈を書いていく。(ほかの人とは違うようだ。)

水色が原文、下に和訳を書く。



1、天照大神の宣 く。人はすなわち天が下の神物なり。すべからく静まることをつかさどる心は、すなわち神明との本の主たり。心神を傷ましむることなかれ。

天照大神がおっしゃられた。人は天が下における神の依り代である。当然のように静まる役目を担う心は、神明を下さる本の主である。心におわす神を傷つけてはならない。


【解説】

伊勢神道における「命は神からの預かりものである」という考え方を言っているのだろう。自分の和訳は当たっているか分からないが、命は神の一部という考え方を分霊と言い、分霊は心神を意味する。これが伊勢神道の基本であるため、そう思えば良いはずだ。

訳の困るのは「神明との本の主たり」という部分だが、天之御中主という全ての神々の根源となる神の存在を解釈にいれるかで訳が変わると思われる。入れるならば、天之御中主の一部を預かったという事になるから、和訳は「心は天照大神と人の本となった神様」という意味合いとなり、つまり天之御中主を指す事となろう。逆に天之御中主の存在を解釈にいれないとすれば、神明とは天照大神の別名であるから、心は天照大神からの預かりものという意味合いを持つ。

どちらで訳しても良いと思うが、理解するポイントは人間の心には神が宿っているという考え方になる。心神は神から一時的に預かったに過ぎないのだから傷つけてはならないし、預かり物は大切にしないといけないという話となる。

昨今、TVなどで子供の自殺を問題にしたりするが、何故自殺はいけないのか?心神という考え方に立てば、神からの預かり物である命(心神)を勝手に処分していいわけがないからと言えよう。命の大切さを教える教育では、自分の存在が自分の物では無いと気づかせる事が大切だ。自分の中には神が宿っており、存在それ自体が尊い。存在価値がないと思うなら、それは勘違いである。



------ 仏教的追記 -----

自己流だが禅を少し学んだので、その視点でも解説してみる。

神 = 無心 = 心

これが要点と思われる。










2、このゆえに、眼に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず。耳に諸々の不浄を聞きて、心に諸々の不浄を聞かず。鼻に諸々の不浄を嗅ぎて、心に諸々の不浄を嗅がず。口に諸々の不浄を言って、心に諸々の不浄を言わず。身に諸々の不浄を触りて、心に諸々の不浄を触らず。意に諸々の不浄を思うて、心に諸々の不浄を思わず。この時に清く潔きことあり。

このゆえに、眼に諸々の不浄を見ても、心ではその不浄を見てはいけない。耳に諸々の不浄を聞く事があっても、心ではその不浄を聞いてはいけない。口で諸々の不浄を言う事あっても、心ではその不浄を言ってはならない。身に諸々の不浄が触れても、心ではその不浄を触ってはいけない。頭で諸々の不浄を思う事があっても、心ではその不浄を思ってはいけない。こうして心は清らかとなり、不純なものがなくなる。


【解説】

まずは六根の説明をしよう。六根とは、人間の悩み苦しみが発生する六つの原因を言う。人間は何もなく悩んだりはしない。悩むにはそれなりの原因があるもの。例えば、嫌なものを見て、それがトラウマとなって苦しむとか。これが「目に諸々の不浄を見て」のイメージとなる。

他も同じだ。嫌な話を聞いて悩む、愚痴や悪口が災いして悩む、嫌な臭いを嗅いで苦しむ、汚いものに触って苦しむ、嫉妬や妬みを思い浮かべて苦しむ。人の悩み苦しみは目、耳、口、鼻、身、意を原因にして起きているだろう。そこで、これを植物が根から養分を吸収して育つのになぞらえて、人の悩み苦しみが育つ六つの根という意味で、六根と言うのである。

この祝詞は六根清争の大祓という名をもつが、その所以がこの部位に現れている。つまり、六根に不浄が生じても、言い換えれば、嫌な事があっても、それに囚われてはいけない。常に心清らかに保つ事に努めなさいと言うのである。嫌な事があったからと言って、心まで嫌な事に囚われてはいないか?嫌な事があったから、余計に元気が出てきたと言える人間でなくては。みんなの雰囲気が暗いからと言って、自分まで暗くなってはいないか?みんなが暗いなら、自分が明かりを灯してあげようと言える人間でなくては。

とは言え、人間は嫌な事があれば凹むし、周りが暗ければその雰囲気に流されるもの。その事を責められはしない。それが人間である。だからこそ、この祝詞を日々奏上することで日々意識しなおすのだ。嫌な事に囚われそうな心を、自ら意識して心から嫌な事を取り除く。しかし、また嫌な事は起きるだろう。だから、その都度嫌な事を心から取り除き、心を清らかに保っていくのが神道なのである。

しかし、そんな事が本当にできるのか?これが問題となろう。嫌な事に囚われてしまった心から、本当に嫌な事を取り除けるのか?それが何故出来るのかを説明するのが次の部位となる。



---- 仏教的追記 ----

無心なれば分別はなく不浄もなし。

無心を軸に生きれば、自然と祝詞通りになる。







---- 以下、余談 ----

神道は、日々反省して生きる道と言っても良いかも知れない。恨みをもつ心があれば、それを寝る前に取り除いてから寝る。愚痴や不平不満を言ってしまったら、それを寝る前に反省してから寝る。嫉妬してしまったら、それを寝る前に反省して明日に備える。今日一日を暗く過ごしてしまったら、明日は努めて笑顔を心がける。心清らかに保つとは、これを言うのだ。

恨み、愚痴、不平不満、嫉妬はいけない事は分かっている。だが、生理現象ゆえに自然発生してしまう。だから、その都度修正が求められ、簡単では無いが故に歩んだ軌跡が道となる。故に神道と言うのだ。