【州勘庵主】
いつの頃からか、
自然と手を合わせるようになった。
初めからあった。
【感想】
今朝、朝風呂に入っていたとき、とてつもない愛情に包まれている事を実感した。感動して涙がでてきたので堪えたり泣いたりしていたら、声こそだしてないものの調度赤子の第一声のような産声をあげてしまった。なぜ天上天下唯我独尊が赤子の産声に例えられるのか、なぜ我々は仏心の中から産まれ落ちたなどと言うのか、なぜ慈悲が自然に生じなければ本物ではないなどと言うのか、体感した気がする。魔境かも知れないが素敵な体験であった。趙州無字における無門和尚の言う驚天動地の境涯は、自分がものすごい愛に包まれていたという実感のように思う。
香厳智閑は悟りをひらいたとき、あまりの喜びに師である潙山霊祐のいる方向を向き礼拝したと言うが、自分もその気持ちだけは分かり、自然と礼拝したくなり、礼拝させてもらった。よく教えてもらわないからこそ味わえた感動と言うが、仏心に包まれている実感はそもそも教えられないような気がする。ただ体感あるのみである。
【乾峰一路】
全て受け入れれば良いのさ。
1、経験値:1年~3年の場合
無心に自分で気づけば価値観が変わる。しばらくすると、景色がとても美しく見えるようになる。その状態で乾峰和尚の言葉を読めばすんなりと頷ける。雲門和尚の言葉は当初まったく腑に落ちなかったが、2年くらいたったある日、無心の用と気づいた途端に力がぬけた。
二頭の駱駝 = 思考 + 無心
2、経験値:4年~5年の場合
乾峰一路 = 不識
一人向深深海底行、簸土揚塵 = 無心
一人於高高山頂立、白浪滔天 = 慈悲
二頭の駱駝 = 慈悲 + 無心
3、感想
無駄とわかりつつ、慈悲深く歩んでいく。これが乾峰の一路なのかもしれない。
4、頌について
真の決め手 = 慈悲
【兜率三関】
私はあなたの味方です。
1、経験値:1年~3年の場合
どの質問にも無心をどのように表現するかという発想をしていた。例えば、目の前とか。
2、経験値:4年~5年の場合
Q.どこに向かって去り行くおつもりか?
A.慈悲
3、感想
順番に学んでいるからか、百尺竿頭の則を慈悲に重きをおいて解釈したせいか、兜率三関ではもう一度無心を確認し初心にもどす計らいがあるように感じる。
4、頌について
無常を見、無我を確認するなら、生死の問題も自ずから解決する。
【竿頭進歩】
今までの全てに感謝を、これからの全てに愛情を。
1、経験値:1年~3年の場合
百尺竿頭進一歩などと言うが、イメージでは百尺の竿頭が消えてなくなるという感じだった。全て同じ感覚なのに、百尺の竿頭と言われてもあろうはずがない。ゆえに、普通に暮らせば良いと考えていた。この頃は、慈悲がなければ本物ではないと聞いていたが、慈悲の実感まではなかった。
2、経験値:4年~5年の場合
過程に遊ぶ。
3、感想
最近、過去を思い出して感謝する行をしている。すると、いい思い出は優しさの源泉となり、嫌だったはずの思い出も有難くなる。こんな事をしていると、世の中に嫌な奴が一人もいなくなってしまった。
4、頌について
説教するな。無心でやれば良い。
【他是阿誰】
1、経験値:1年~3年の場合
我々は無心の奴隷と言えなくもない。
2、経験値:4年~5年の場合
後輩 「先輩、他是阿誰の彼って何でしょうかね。」
先輩 「ここにおるだろうが!!」
先輩、後輩の腕を思いきりつねる。
後輩 「痛てててっ。」
先輩、けらけら笑う。
3、感想
親父 = 慈悲
4、頌について
生き方は自分で作り上げていくもの。
【芭蕉拄杖】
与言おうが 奪と言おうが ご勝手に
捨てなされ ああ捨てなされ 捨てなされ
1、経験値:1年~3年の場合
持っているという意識を捨てなされ。持っていないという意識を捨てなされ。与えると表現しようが、奪うと表現しようが、無心に誘う方便である。
2、経験値:4年~5年の場合
そのまんまで良いんだよ。この言葉は遺言にしても良いと思っている。
3、感想
無常、慈悲、無心と色々な切り口で解説を試みたが、結局そのまんまで良いの一言におさまった。どうも自分にできる事と言えば、祈ることくらいらしい。これからは祈ることを日課にしよう。
4、頌について
拄杖子 = 慈悲 × 無心 × 祈り
【首山竹箆】
1、経験値:1年~3年の場合
竹箆と呼んではいけない、呼ばなくてもいけないと言われると体にどういう反応がおきるだろうか。おそらく思考が停止するのではなかろうか。その思考が停止した感覚が示された教えの一端である。教えと言うと知識偏重になりやすいが、実は何も考えが浮かばない状態も立派な教えである。そこで強制的に思考を吹き飛ばす直接手を放つ。修行者はそのまま身を任せれば良いのである。
また、何かを真剣にやってるとき竹箆を意識することはないが、全く意識しないわけでもない。その感覚と解釈しても良いかも知れない。何事も手を抜かなければ、そこに無心のハタラキが現れる。それを感じれるかどうかが勝負所である。
2、経験値:4年~5年の場合
倦まず弛まず淡々と。
3、感想
怒りはいつ怒りになるのか。怒りと名をつけたときである。だから、名を与えるな。分からないままにしておけ。名に背くことを覚えよう。
4、頌について
背触交馳 = 私があなたのために。
【女子出定】
1、経験値:1年~3年の場合
網明菩薩を思考の例え、文殊菩薩を無心の例えと考えていた。網明菩薩が女子を起こすことができ、文殊菩薩にはそれができないのは当然である。この頃は出すことが出来ても出来なくても同じであるとは考えたが、失敗するほど面白いとまでは実感がなかったように思う。
2、経験値:4年~5年の場合
正解しなくて良かったんだ。
3、感想
先輩 「お前、和尚の処にいったらな、知らん、知らんと言えばよいぞ。」
後輩 「勘弁してくださいよ。そんな事したら叩かれます。」
先輩 「そうかも知れんな。」
後輩 「ちょっ、何でそんな事をするんですか?」
先輩 「俺にも分からん。」
4、頌について
失敗も立派なハタラキさ。
【趯倒浄瓶】
1、経験値:1年~3年の場合
潙山禅師は、無心の働きを見せたくらいに解釈していたように思う。
2、経験値:4年~5年の場合
世尊拠座。
3、感想
浄瓶は思考の象徴であるとすると、浄瓶を蹴とばすとは思考を蹴とばす事に他ならない。悩みは思考が生み出すとすると、浄瓶を蹴とばす事ができれば、悩みも蹴とばす事ができる。では、どうしたら蹴とばす事ができるかとなるが、あるときふと体得されるものとしか言いようがない気がする。だから、その時がくるまで倦まず弛まずである。公案とはそのための工夫かも知れない。個人的には、時間は無いと思うと途端に何で悩んでいたのか分からなくなる。苦しいときでも、これが人生の楽しみと思うと平然としていられる。
4、頌について
理屈 = 仮定 = 嘘
【雲門話堕】
1、経験値:1年~3年の場合
無心に気づけば、無心が言葉にできないことは自明である。言葉から類推しては野暮となる。他に求めず、己こそよるべとすべし。
2、経験値:4年~5年の場合
雲門の寄り付きがたいハタラキにゾクっとするようになった。また、答えがあると思っている処が僧が話堕した処であろうか?
3、感想
今こうしてあることの有難さに気づく。思いやりをもって生きていく。そう決まったなら、あとは語らず黙々と行うのが良い。言葉は相手を迷わせ、行動は言葉より雄弁である。
4、頌について
さもしき魚 = あらゆる種類の思考
【牛過窓櫺】
1、経験値:1年~3年の場合
無心を生きる上での目的地と設定すると、世界は平になる。これをやりたいとか、これはやりたくないとか、そういった事を考える事は少なくなり、ほぼ解放されると言って良い。何しろ何をしても体感が同じなのだ。比べてもしょうがない。この同じところを尻尾とするべきか、それとも、それでも心は無くなりはしないと言うところを尻尾と考えるべきか。ただ、これはあくまで説明の便宜上の議論であるから、実際にあっては尻尾にとらわれない事こそ肝要となる。何事も心を込めれば宜しいと言う事である。
2、経験値:4年~5年の場合
牛の尻尾は、私の自由な心境である。
3、感想
苦しみこそ人生の楽しみである。
4、頌について
牛の尻尾は、喜怒哀楽様々に姿を変える。全く奇怪千万であるが、させてあげるくらいの心掛けで良く治まる。
【庭前柏樹】
貴方は、貴方のままで素敵です。
1、経験値:1年~3年の場合
柏樹は一目無心である。無心に気づいてからは、不思議とそういう風に見える。
2、経験値:4年~5年の場合
3、感想
事なきを得たとはいえ、死を意識せざる得ない状態を経験した。その時何を思ったかと言うと、一言でいえば無常である。そのときは調子良い状態だった。調子が上がっているから、このままの流れを維持して行きたいと思ってた矢先、急に、本当に急にと言う感じである。俺は死ぬのかとなった。でも、不思議なものだ。特に何の感慨もなかった。死とは急に来るものだなと思っただけであった。振り返ってみて、何か後悔はあるかと言われると、全くない。やりたい事は無いのかと言われると、特にない。社会的な評価がついてこなかったからかも知れないが、特に心残りもないのだ。だが、幸せな人生であった。本当にそう思う。思い返すと、ここ20年は鬱々と暮らしてしまった。人間関係もうまくいかなくなってしまった。会う人に攻撃を受けることはあっても、その人間関係が親しい方向では発展しなかった。恨みの一つでも言いたくなりそうなところだが、恨みはない。無理もないと思うだけである。そういう縁はなかったのだろう。もし、今日が人生最後の日だとしたらどうするかと問われれば、寝ると答える。とは言え、家族は気がかりと言えば気がかりだから、感謝の文面くらいは残すか。死ぬにあたって何か言い残すことはあるかと言われれば、何もない。「貴方は貴方のままで良い」と書き記しても良いが、どうだろうか。野暮な気がする。死は大変な勉強になるものらしい。人生観が変わった。いつ死ぬか分からないことを目の当たりにして思うのは、もっと自由に、もっと自由にである。とは言え、今人生でやり残したことは次の人生でやればよいし、もし次の人生がなくてもそれはそれで良い。あればやるかも知れないし、無ければやら無いだけの話である。さて、そうは言ってもである。生きているわけである。思いやりでも育ててみようか。愛情でも注いでみようか。
4、頌について
人間は言葉を使っている気になっているが、言葉に使われているのかも知れない。
【路逢達道】
気をつけろ 雪はお前を見ているぞ
1、経験値:1年~3年の場合
達道が無心の状態を指すならば、出会う人みんな達道の人と考えていた。達道の人に会ったらどうするかと問われても、いつも通り接するとしか言いようがない。試しに、相手の無心の状態に触ってみようか?
2、経験値:4年~5年の場合
答えはない。
3、感想
死を意識せざる得ない事があった。それは勘違いだったため事なきを得たが、いつも何気なくしている事を何気なくできる事の有難みを実感した。普通であることこそ、普通でないのだ。4、頌について
調子にのらないよう叱ってあげねばという事かな。
5、臨済の四料揀
奪人不奪境は、 生きる上での基本となるスタンスで、その際に肝となるのは手を抜かないということである。手を抜かなければ速やかに無心に誘われるし、余計なことを考える余地がなくなるため悩まなくて済む。奪境不奪人は、思考と無心のちょうど中ごろといった感覚で、具体的には気持ちをいれて物事にあたっているときに生じる状態である。どう言う事かと言うと、自分の体が動いているにもかかわらず、その体を外から眺めているような感覚になるときがある。それは、まるで自動化された体を眺めているかの様である。人境俱奪は無心の状態のことで、集中力が高じて時間が飛んだようになる様を言う。人境俱不奪は思考優先の状態であるが、この状態が人生に彩りを提供する。
【倩女離魂】
いままで同じことをやってきた。
これからも同じことをやっていくのだろう。
願わくば、道のまにまに。
1、経験値:1年~3年の場合
家で寝込んでしまった倩女と、駆け落ちして異国で暮らしていた倩女、一見違う事をしているように見える二人だが、実際はどちらも同じことをしている。それが分かったとき、2人の倩女が重なると解釈していた。この頃は基本的に無心を軸に解釈するのが良いと考えている。寝込みながら無心になるか、駆け落ちしながら無心になるかの差はあれど、どちらも無心になることは変わらない。
2、経験値:4年~5年の場合
錯覚は心の病か?
3、感想
日常に感謝できてこそ、体に魂が入ったと言えるのかも知れない。
4、死生観
死んでみなければ分からない事は考えても仕方ない。死ねば分かることは、死んでからに任せたい。ただ、直観的には、無心の状態が続くだけではないかと思う。
5、輪廻転生
この世界には人間の思考を生み出す何かしらの化学変化があって、その化学変化が起きると我々は生きていると認識するのではないか。だが、所詮は何かしらの化学変化にすぎないから、その反応が終われば何事もなかったようになる。そういう前提にたってみると、今自分を構成している肉体がなくなっても、ある時また何か形をえて、例えばまた肉体を構成するようなときが来ると予想できる。ただ、再度構成された肉体も結局は思考と名付けられた化学変化に過ぎない。そして、この現象は繰り返されるため、輪廻転生と名付けておく。輪廻転生とは、そういう世界観ではないだろうか。よって、思考が自分自身の本体ではない事にきづけると、輪廻の輪から逃れる事ができると考えてみたい。もし、仮に魂と言う存在を認めるならば、魂が宿から宿へ旅するようなものという世界観が構築される。
なお、思考が例えば放電によって作られていると仮定すると、思考に対する簡単な対応策は、そのままにしておくのが良いとなる。放電ならば時間とともに消えるのだから。人間の抱える諸問題は思考によって生み出されている。思考が放電であるならば、そのままにしておくのが諸問題の有力な解決法となろう。禅の教えでは、そのままで良いと言う。比較してどうだろうか。
6、如落湯螃蟹七手八脚
随所作主立処皆真。
7、頌について
そのままで良いって事かな。
【智不是道】
1、経験値:1年~3年の場合
落とし穴 明日は誰が 落ちるやら
2、経験値:4年~5年の場合
「家醜外に揚がる」や「恩を知る者は少なし」という言葉に目が止まるようになった。比べると、以前は解釈に留まっていたようだ。
3、頌について
それで十分じゃないかって事かな。
4、感想
最近、今こうしていられることを有難く思うようになった。今こうしていられることに感謝の念が生じると、父母に思いが至る。父母に思いが至れば、当然のように祖父母に感謝できる。すると、順々に先祖に思いを巡らし、孝が分かる。そして、それは全て自分なのである。自分は自分に感謝しているとなったとき、歓喜から思わず叫びたくなる。天上天下唯我独尊とはよく言ったものだ。
5、変遷
最初に、無心を中心に据えれば全て同じと気づく段階があった。次に、それが全てデタラメだったと気づく段階があった。最近は、自然と感謝の念がわくようになった。孝や性善説の発想のもとが分かった気がする。