2025年1月8日水曜日

無門関 35則 覚書

 【倩女離魂】


いままで同じことをやってきた。

これからも同じことをやっていくのだろう。

願わくば、道のまにまに。





1、経験値:1年~3年の場合

家で寝込んでしまった倩女と、駆け落ちして異国で暮らしていた倩女、一見違う事をしているように見える二人だが、実際はどちらも同じことをしている。それが分かったとき、2人の倩女が重なると解釈していた。この頃は基本的に無心を軸に解釈するのが良いと考えている。寝込みながら無心になるか、駆け落ちしながら無心になるかの差はあれど、どちらも無心になることは変わらない。



2、経験値:4年~5年の場合

錯覚は心の病か?



3、感想

日常に感謝できてこそ、体に魂が入ったと言えるのかも知れない。



4、死生観

死んでみなければ分からない事は考えても仕方ない。死ねば分かることは、死んでからに任せたい。ただ、直観的には、無心の状態が続くだけではないかと思う。



5、輪廻転生

この世界には人間の思考を生み出す何かしらの化学変化があって、その化学変化が起きると我々は生きていると認識するのではないか。だが、所詮は何かしらの化学変化にすぎないから、その反応が終われば何事もなかったようになる。そういう前提にたってみると、今自分を構成している肉体がなくなっても、ある時また何か形をえて、例えばまた肉体を構成するようなときが来ると予想できる。ただ、再度構成された肉体も結局は思考と名付けられた化学変化に過ぎない。そして、この現象は繰り返されるため、輪廻転生と名付けておく。輪廻転生とは、そういう世界観ではないだろうか。よって、思考が自分自身の本体ではない事にきづけると、輪廻の輪から逃れる事ができると考えてみたい。もし、仮に魂と言う存在を認めるならば、魂が宿から宿へ旅するようなものという世界観が構築される。

なお、思考が例えば放電によって作られていると仮定すると、思考に対する簡単な対応策は、そのままにしておくのが良いとなる。放電ならば時間とともに消えるのだから。人間の抱える諸問題は思考によって生み出されている。思考が放電であるならば、そのままにしておくのが諸問題の有力な解決法となろう。禅の教えでは、そのままで良いと言う。比較してどうだろうか。



6、如落湯螃蟹七手八脚

随所作主立処皆真。



7、頌について

そのままで良いって事かな。


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