2018年12月12日水曜日

八佾 第三 8

【その8】

子夏問うて曰く、巧笑倩こうしょうせんたり、美目盼びもくへんたり。素以ってけんを為すとは、何のいぞや、と。子曰く、絵事かいじは素を後にす、と。曰く、礼は後か、と。子曰く、予を起す者は商なり。始めてともに詩を言う可きのみ、と。



【口語訳】

子夏 「愛らしい笑顔、涼し気な眼差し、香るおしろい・・・。」
孔子 「絵で例えるなら、白の顔料は最後の仕上げにと言った所だね。」
子夏 「礼が最後の仕上げなのと同じですね。」
孔子 「商君には驚かされる。君とは共に詩を語り合えそうだ。」



【解説】

今回、2人は礼は化粧のようなものだと言っているが、その心は2度目のお声がけを考えて見れば良く分かる。人間、最初は試して見なければ分からないと付き合ってくれても、2度目のお声がけは結果次第となるもの。最初の結果が悪いのに、また貴方に頼みたいと言う物好きはいない。故に、礼が最後の仕上げの化粧となり、腕をつけなければいけないとなる。礼はお試しの一回となりはすれ、腕が無いとその後の関係が続かないからだ。逆に腕があるなら大概の事は解決してしまう。多少無礼者であっても貴方に頼むとなるものだし、無礼がその人の持つ個性だとすら解釈される。ここの大将は頑固者で口は悪いが、良い腕持ってんだよと言った具合に。

礼にこだわるのは教養人としては当然ながら、礼は化粧のようなもので崩れるのも早いと知らねば片手落ちになってしまう。人間はまず腕であり、その腕の見栄えを良くするのが礼だ。それは調度、内面からでる素の美しさを化粧が引き立てるようなものなのだ。



1、絵事は素を後にすについて

この部位の解釈がイメージが付きにくいが、絵を書くときには先ず色を染め、その後に白の顔料である胡粉を用いると言う話だ。恐らく、絵は重ね塗りをしながら完成させていくので、まずは色を塗り、その後に光が当たった事を表現するために白が用いられるという事なのだろう。調度、おしろいのようになる。






ただ、絵は白色を最後の仕上げにするとは限らないので、朱子学の朱子などは納得がいかなかったのだろう。絵事後素(原文)を絵事は素を後にすではなく、絵事は素より後にすと解釈し、下地を胡粉で作り、後で色を塗ると解釈している。その場合のイメージは下の動画だ。






この場合は白が人間としての中身で、色が礼となる。孔子の時代の絵画が失われ現物を視れないので、孔子の言わんとする事を想像するほかないのが残念だ。



【参考】

1、巧笑は愛らしい笑い方、倩は口元が美しいと言う意味。

2、美目は目元が美しい目、盼は白と黒がはっきりしたと言う意味。

3、素はおしろいの胡粉、絢は美しい綾模様の意味。

4、商は子夏の名。孔子の44歳年下で文学に優れていたとされる。



【まとめ】

化粧は長続きしない。

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