【その7】
子曰く、君子は争う所無し。必ずや【口語訳】
孔子先生がおっしゃった。君子は争うような真似はしない。強いて言うなら、射礼くらいだろう。礼儀を以って譲り合いながら昇り降りし、負けた方が罰杯を飲む。争い方もやはり君子らしい。
【解説】
まずは語句の説明からすると、射礼は弓の競い合いの事で、具体的には上の動画となる。弓道には礼に始まり礼に終わると言う言葉あるが、動画を見ると作法が何かは分からなくても作法がある事は伝わるだろう。弓は唯撃てば良いというものでは無く、礼が大切なのである。そして、礼によって争いは単なる喧嘩ではなく、文字通りの射礼となる。
これと同様に、中国式の射礼にも礼儀があり、それが君子らしく立派であると孔子は言っているわけだ。では、その中国式の礼儀は何かとなるが、それが
この画像は孔子像だが、手に注目して欲しい。胸の前で手を合わせているだろう。この手の形を
次に、
---- 以下、君子が争わない理由 ----
1、手足と争う頭はない
君子が立派な官僚の事だとすれば、単に争う必要が無いから争わないという結論になる。為政者である官僚からすれば、どんなに秀でた者であれ、それは手足として働く者であり、自分と競うべき者でない。官僚同士の出世競争に勝ち抜くためにも手駒は優秀なほど良いのだから、自然と優秀な者を求めはすれ嫉妬などして争うなどあり得ない。逆に争っては仕事がはかどらないと考えるのが立派な官僚である。故に君子は争う所無しとなる。
2、恨らまれないように振る舞う
出世するにも、お金持ちになるにも、最後に物を言うのは結局は運である。途中までは頑張れば誰でもいけるが、トップまで上り詰めたり大金持ちになるならば、やはり運が良かったとしか言いようがない。
例えば、官僚として出世し、宰相にまで上り詰めるとしよう。そうすると、長い時間がかかるわけだが、その間に大病を患っては出世どころの話ではなくなる。病気はいくら気を付けていても、なる時はなるものである。健康な体と言うのも、一重に運としか言いようがない。また、出世するなら、自分を引き立ててくれる良き理解者との出会いも不可欠であるが、そんな理解者とは会おうと思って会えるものでは無い。たまたま配属された先で出会うものだから、理解者との出会いも運としか言いようがない。さらに言えば、数十年の間、国自体が戦乱に巻き込まれない事も大切だ。戦争で勝てばまだ良いが、戦争で負ければ、それまでの努力は無に帰してしまう。しかし、数十年先の戦乱など、予期しようにも予期できないのだ。ならば、自分が出世する間、戦乱が無い事を祈る他ない。これは一例だが、このように人生を長い目で考えると目の前の事のみ考える時とは違って、運が良かったとしか言えない事だらけなのである。
故に、成功者ほど運の大切さを感じているもので、げんを担いだり自分の運を良くする事には余念がないものだ。では、どう運を良くするかだが、その一つの答えは敵をなるべく作らないようにする事だろう。恨まれれば、それだけ足を引っ張られる事も多くなる。恨まれなければ、助けを借りられるかも知れない。官僚として出世するなら、こういった運を増やす努力も不可欠なのである。故に君子は争う所無しとなる。争えば争うだけ、運も逃げてしまうのだ。
3、自信がつくと自然と争わなくなる
金持ち喧嘩せずでは無いが、人は自分にゆとりがあると多少の事で腹を立てたりしないものだ。逆に弱い犬ほど良く吠えるで、自分に自信がなくゆとりが無いからこそ争ってしまう部分がある。君子と言われるほどになるなら当然自分にも自信があるから、弱い犬にはならず、故に君子は争う所無しとなる。基本的に、一芸に秀でた者同士は友達になりはすれ、相手に嫉妬して喧嘩はしないもの。立場があるから、問題を起こす事を好まない。
4、喧嘩はご法度
これは想像だが、官僚同士の喧嘩はご法度だったのでは無いだろうか?日本でも例えば、忠臣蔵では江戸城内での刃傷ざたはご法度で、それが原因となって浅野長矩は切腹となるのは有名だが、恐らく中国でも同じ状況だったろう。城内で最も大切な事は、王の安全であるから。もしこの想像が当たっていれば、君子が争わないのは単に法令に触れたために追い出されるのは困るからとも考えられる。
【まとめ】
喧嘩はいけない。
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