2018年12月6日木曜日

八佾 第三 6

【その6】

季氏泰山たいざんやままつりす。子冉有ぜんゆういて曰く、なんじ(汝)救うあたわざるか、と。こたえて曰く、あたわず、と。子曰く、嗚呼ああすなわ泰山たいざん林放りんぽうかず、とわんや、と。



【口語訳】

季氏が泰山で山祭りを行う。

孔子 「お前、止める事はできないのか?」
冉有 「できませんでした。」
孔子 「ああ、泰山が林放に及ばないとでも言うのか。」



【解説】



上の画像が泰山だが、この泰山は黄河の下流にある霊峰である。泰山では封禅ほうぜんと言う天と地に天下泰平を感謝する祭りが行われた。これは天子により行われる特別な儀式であったため、天子からすれば家臣のそのまた家臣に過ぎない季氏がする事は、当時の常識からは許されない行為であった。にもかかわらず、季氏は自らの権勢を誇るため祭りを強行し、その事を孔子が嘆いたというのが今回の状況である。

想像するに、孔子は季氏が山祭りをするという話を聞きつけたので、季氏の執事であった弟子の冉有を捕まえて尋ねたのだ。お前ほどの者がついていて何故止めなかったのか、と。そうすると、冉有は止められなかったと答えるので、泰山は天子にとって特別な霊峰であり、自らに地上の統治を委任した天に天下泰平を報告するための場所である事はお前も知っておろうと嘆いたのある。孔子にすれば、新築の家に糞尿をまき散らされたような思いがしただろう。

なお、泰山は林放に如かずと言う部分の訳が難しいが、過去の偉大な天子達が天下泰平を天に報告し、感謝してきた泰山の権威すら、林放に恐れ多いと感じさせるに至らないと考えればスッキリする。故に、泰山は林放に如かずとなる。



【参考】

1、旅は山祭りの意味。旅の語源を調べると、古くは家から出る事をすべて旅と称したらしい。故に、泰山へ行く事も旅と称する。泰山は霊峰であり、その目的は祭祀に限られるから、この場合の旅は山祭りの意味となる。

2、救は誰を救うか分からないが、泰山を救うと考えるのが自然かと思う。季氏の僭越から、聖地泰山を救う。よって、この場合は山祭りを止めさせるという意味になる。そして、季氏を救うという意味にもとれる事が味噌で、誰かに聞かれても良いように配慮がされているようにも思える。



【まとめ】

人生最大の病患は傲慢の一事に尽きる。

by 王陽明



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