2018年9月10日月曜日

学而 第一 12

【その12】

有先生が言われた。礼においては和やかさが大切だ。過去の偉大な王達も、それを良しとしてきた。とは言え、何から何まで和やかであれば良いわけではない。和やかさが礼の要と知ると和やかさばかり求める者がいるのだが、和やかさの中にも礼による節度がなければ、またこれも上手くはいかない。





【解説】

礼は心の所作である。どんな心を込めるかで、まったく別の印象を与えてしまう。だから、真心を込める。すると、その心が伝わり和やかになる。ここが大切なところだ。では、和やかならば良いのかと考えたくなるが、例えば、酒宴の席で泥酔した姿を考えると良い。和やかかも知れないが美しいとは言えまい。お酒を飲んでいても、節目節目ではきちんと折り目正しいのが大人の飲み方と言うものである。万事そういう部分があると言う話になる。



人は2つの人格をもっていて、個人的人格の他に社会的人格があると考えても良いかも知れない。個人的人格の付き合いでは許される事も、社会的人格の付き合いのなかでは許されない事はしばしばある。例えば、本音ではそう思っていなくても、立場上仕方なくという事は誰にでもあるだろう。礼においては社会的人格が求められる。当然、節度がなければ上手くいかない。しかし、それだけでは機械的になりすぎて殺風景になるため、そっと情を添えて和やかさを演出するのが大切という順番でも説明できる。



実利的な側面を考えて見る。人間がよくしてしまうミスの一つに無礼講がある。酒宴の席では、上役から「今日は無礼講だ」というセリフを良く聞くかも知れないが、本当に無礼講をしてしまって左遷されるというのもままある話である。では、どうしたら良かったのかとなるが、だから言う。和やかさの中にも節度がなければ上手くはいかない、と。



役人には序列がある。序列どおりの礼が要求されるのも当然と理解するのも良い。




聖徳太子の17条憲法で有名な「和を以て貴しと為す」は、論語のこの一節を参考にしたようだ。「和を以って貴しと為す」と言うと、仲良くやる事が大切と勘違いしやすいが、本来の意味はそうでは無い。会議などでみんなで話し合いをすると、なぁなぁとなってしまい誰も意見を言わない事があるが、それを戒めた言葉が「和を以って貴しと為す」のようだ。話し合いで相手が自分の意見と違うからと言って、喧嘩してはならない。和を大事にして、存分に話し合いなさいと言うわけだ。相手の気持ちを忖度して意見を言えないのもいけない、だからと言って、喧嘩するのもいけない。調和をとりながら上手くやるのが良い。そして、相手と喧嘩しないようにするには、相手の身分にあった応対が必要なのは当然だから、自然と礼式や作法で節度を加えるという流れに落ち着く。





【まとめ】

無礼講、無礼講であった試しなし。






------  仏教の立場からの考察  ------

日々の生活では和やかさが大切だ。偉大なる先人もそれを良しとしてきた。ただ、何から何まで和やかであれば良いと言うわけにはいかない。やはり修行の身であるのだから、きちんと戒律を守り、和やかさのなかにも節度をもたねば上手くはいかないよ。

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