2018年9月27日木曜日

為政 第二 1

【その1】

老先生が言われた。政は徳をもってなす。例えるなら、北辰がその所にあって、星々が共に巡るように。




【解説】

孔子が言わんとすることは上の画像を見ると分かりやすい。有徳者が政治を行うならば、画像に映る星々のように上手く巡行すると言っている。具体的には、北辰を真心、星々を人の比喩と考えるのが筋だろう。真心が人を惹きつける姿は、調度北辰が定まり、星々が共に巡るようなもの。これが国の規模になると政治と言うのだ、と。真心には形は無い。只そこにあるだけである。北辰に例えた理由もここにあると考えて見たい。

なお、北辰は位置の名前であり、星の名前では無い。孔子の理想とした周王朝の都から北の方角、地平線から上へ36度の位置を北辰と言い、北辰は動かないが北極星は動くという違いがある。ただ、位置では目印がなく分かりづらいため、厳密では無いがおおよそ合ってるという事で、北辰を北極星と解説するものが多い。



政治とは、北辰を定めるように、徳をもって国の行先を定める事だ。そうすれば、後は自然とついてくる。それはまるで北辰と共に星々が巡るように。こう理解しても良いのかも知れない。




徳を人気と読み替えれば理解しやすいかも知れない。つまり、人気がなければ政治は務まらない、もしくは人気者が望ましいと言う話である。人は結局のところ、好きか嫌いかだ。好きならば失敗しても許せるし、嫌いならば正しくてもいけ好かないとなる。ならば、為政者が好かれなければうまく纏まる道理がないと考えてどうか。実際、為政者が人気者ならば皆為政者のために良かれと働くから、特に監視しなくても一所懸命に働いてくれるし、我儘を言っても仕方ないとなる。逆に、為政者が嫌われ者の場合、皆あんな奴のために働くかと考えてしまうから、仕事は手をぬくし不正に走りやすく、我儘を言おうものなら陰口が蔓延する。好かれるか、嫌われるかで大分違うのである。




では、為政者が皆に好かれるにはどうしたら良いかとなるが、この好かれる要素を孔子が大きく五つに分けたと言う話が、仁・義・礼・智・信となり、これを五徳と言う。より具体的に言えば、思いやり深く、正義感をもって、礼式や作法に通じ、道理をわきまえ、約束を守る人間なら皆に好かれるだろうと考えたのである。勿論、これは絶対的価値観ではないため、自分はそう思わないと言う人もいるだろう。例えば、正義感を持った奴は目ざわりと考える人は多いかも知れない。綺麗事ばかり言うな、と。ただ、為政者は数多くの人間を相手にするため、大切なのは美人投票的な感覚となる。だれが一番美人かをみんなで決めるのだから、自分の好みではなく、みんなが好きそうな顔を選ばなくてはいけない。五徳もそれに似てる。思いやり深く、正義感をもって、礼式や作法に通じ、道理をわきまえ、約束を守る人間なら数多くの人間に好かれると予測したのだ。こう考えて見ると、有徳の為政者ならばより多くの人から支持され、例えるなら、北辰に多くの星が巡るようになるのも道理とわかる。





【参考】

中国は易性革命の国であるため、徳の有無は天が決めると考える傾向がある。易姓革命とは、天が地上の統治を徳のある人物に委任するのだという思想で、この考え方によれば、国が亡ぶのは王に徳がなくなったために天に見切られたという話になる。これだけならば、そんなものかと言う話で終わるのだが、中国ではこれを逆から捉えて、自分が王になれたのは天の采配なのだから、自分がやる事は全て天が許しているとして、王は傍若無人になりやすい。悪辣な振る舞いを正当化するための方便に、徳と言う概念が使われるのである。そのため、孔子の言っている徳と、日本人が考える徳は違うかも知れない。

昔から中国は50弱の民族が入り乱れる多民族国家で、異民族は犬や猫に等しいと考えたため争いが絶えない土地柄だ。そして、争いが続けば暮らしにくい民衆は、自然と絶対権力者のもとで争いを治めてもらう事を願ってきた。例えその者が横暴であっても、争って血を流すよりは良いと妥協するわけだ。孔子の言う徳治主義は、例え王が我儘し放題だとしても、その王が天に選ばれた以上は、言わば北極星である。北極星のまわりを数多の星が巡るように、王の回りには自然と人が集まり世の中は治まるようできていると解釈しても自然な流れとなる。




------  仏教の立場からの考察  ----

北辰を掴もう。

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