2018年9月25日火曜日

学而 第一 16

【その16】

老先生が言われた。人が自分を知ってくれない事に心配はいらないが、自分が人を知らないとなれば心配だ。




【解説】

真心で生きるとは、つまりそういう事となる。実際にそう思えているかを確認すると良い。思えていればそのままの方向で歩む。思えてなければ道を違えている。



世間が自分の力量を認めてくれない事に心配はいらない。自分に実力が備われば、評判は後からついてくるから。逆に、自分が他人の力量を感じ取れない事は心配だ。それは力量不足を意味するから。山が登るほど見晴らしも良くなるように、人は自分より下の者の力は良く分かる。それは素人に将棋の名人の指し手は分らないが、名人からは素人の考えなど丸わかりと言うようなもの。



士官という視点で考えて見ると、まず必要なものは評判である。それも良ければ良いほど好ましく、それほどの者ならば是非会ってみたいとなるのが理想的である。ただ、この評判という部分が曲者だ。悪事千里を走ると言えど、良い評判が広がるには時間がかかる。少なくとも数年は見なければ、世間が認めてくれる雰囲気は醸成されないのが普通であろう。焦らないで待てるという資質が意外に重要なのだ。この意味で孔子が弟子を諭した場面を想像しても自然かも知れない。世間が認めてくれないからと言って心配はいらない、と。一方で、自分が他人の力を認められない事は憂うべき問題となる。他人の力量を計れなければ、士官が適った時に部下を使いこなす事はできまい。自分の力を認めてくれないと、部下にも同じ不満を持たれる事になる。これは大問題である。



出入口と言う言葉があるが、なぜ入出口と書かないのかと言う話がある。それは出す事が先で、出すと入ってくるものだからと言う。自分が先ず人を認めるからこそ、人が自分を認めてくれる事を知らねばならない。この意味で、「人を知らざるを患う」を解釈しても良い。まず自分から人に興味をもって接する事が、自分に興味をもってもらう秘訣なのだ。人間生きていれば、人が自分を認めてくれないと嘆く事もあろう。そういう時は得てして他人には気がまわっていなかったりする。冷静に自分を見つめよう。



毀誉褒貶は人の世の常と言う。そんなコロコロ変わるものに心を砕いてどうするか。それよりももっと確実なもの、つまり、自分の身の処し方に専念せよ。不思議と周りが気にならなくなる。





【まとめ】

この世は鏡のようなもの






------  仏教の立場からの考察  ----

自分でも自分が何なのか分かっていないから、人に自分を知ってもらおうにも何を知ってもらうのやら。困っている人を見たとき、自然と助けたくなる時がある。自分が人を知らない云々は、そういう心を育てなさいと言う話と思われる。




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