2019年1月13日日曜日

八佾 第三 16

【その16】

子曰く、射は主皮しゅひせず。力を為すや科を同じくせず。いにしえの道なり。



【口語訳】

孔子先生がおっしゃった。礼射は的に当てるだけが主ではない。労役では力の異なる者は区別して扱う。これが古のやり方である。



【解説】

1、射について

射は弓の事だが、弓と一言に言っても、礼射と武射がある。礼射は名の通り礼儀作法であるから、的に当てる云々だけでなく、作法としての一連の流れが大切となる。故に、矢を的に当てる事は評価の一つに過ぎず、礼射の主目的ではない。逆に武射のほうは実戦的で、的を射抜く事や、力強さが評価の対象となる。

さて、そもそもの話をすると、弓は武器であるから、狙う対象が獣であれ、人間であれ相手を殺すための道具である。そのため、弓の使われ方を考えるならば、殺傷能力が最も尊ばれて然るべきだだろう。狩りをするなら獲物が獲れるかどうかが最も重要だし、戦場ならば相手を殺せるかが最も重要なのだから。こう考えて見ると、弓を競うならば礼射よりは武射が自然だし、古代に弓の技を競い始めた頃はそうだっただろうと察しがつく。しかし、ある時から、弓に作法という考え方が出てきて、それを礼射と称し始めたわけだ。これを孔子は古のやり方と言っている。

では、何故古の人は弓という殺傷する武器に礼を取り入れたのかになるが、最も大切な理由は血気盛んで乱暴になりがちな武官たちを鎮めたかったと言う事では無いだろうか?これは例えば、むき出しの刀は危ないから、礼と言う鞘に刀をしまわせるという話だ。単に乱暴だった者達も礼が身につけば、自然と抑えが効くようになる。何故礼を身につけさせねばならないかは、王の視点で考えれば良く分かる。単に乱暴なだけの者は、部下とは言え謀反が怖い。だから、礼を身につけさせ、刀を鞘に納めさせたいと王は考えるものである。そして、礼を身に付けた武官たちには、刀を鞘に納める以上の効果がもたらされる。彼らは秩序だって行動するようになるから、敵から見るとより一層強そうに見えるのだ。これは、孫子の兵法に威風堂々とした軍には近寄るなとある通りである。故に、礼射は古の王が辿った道となる。






2、労役について

労役では力の異なる者を区別して扱うと言われれば、そのほうが合理的と誰しも考えるだろうが、加地伸行氏によれば、孔子の時代は人の力の差を考慮せず、一緒くたに労役につかせていたようだ。理由を考えるに、恐らく縁故主義と賄賂が原因だろう。誰が考えても能力によって仕事を分けたほうが良いのだが、それがなされなかったという事は、縁故主義がはびこっていたたか、賄賂の多寡で仕事を分けたかのどちらかと考えるのが自然だ。これは中国では常識的な行為だが、縁故主義や賄賂が行き過ぎれば国は傾くものだ。縁故主義は不平不満の温床となるし、賄賂は自分の懐ばかりで国益を省みない人を作り上げるから。孔子はその辺を考慮して、能力によって仕事を分けた古のやり方を褒めたのかも知れない。

現代の会社組織でも、こういった悩みはつきもので、会社が大きくなるにつれ自然発生する。あの息子さんは大事な取引先の跡取りだから入社させなさいとか、そのお嬢さんはこの前退職した専務のお嬢さんで、専務は大変功績があった方なので入社させなさいとか、そっちのお嬢さんは退職した社員の娘さんだが、あまり功績が無い人だから何方でも良いとか。こういった事は珍しい話では無いが、縁故採用が徒となって会社が傾く事も珍しくは無い。より強い組織を作るなら人材は広く一般に求めたほうが良いに決まっているが、色々なしがらみがあるため、そうも言えない。能力によって人を使い分けると言う古のやり方は、簡単なようで難しい。





3、朱子の解釈

朱子学の朱子は、上記とは異なり、全体を弓の事として訳している。彼によれば、弓が的に当てる事を主目的としないのは、人は生来の能力に差があるためだと訳す。原文を見て確認して欲しい。自然な訳だと思う。

原文 : 射不主皮、為力不同科


こう訳した場合、日本人は朱子が平等主義者のように感じるかも知れない。弱き者のために能力の差を考慮する、と。だが、朱子は中国人であるから、その言っている意味は逆と考えたほうが良い。つまり、自分より力が秀でた者の能力を制限するために、生来の能力の差を危惧している。中国では基本的に平等という言葉はない。彼らに言わせれば、生まれながらにしてお金持ちがいると思えば、生まれながらにして貧乏人がいる。平等なはずが無いというわけだ。彼らは日本人の惻隠の情的な平等感は持っていないので、文化の差を把握して欲しい。文官は武官の力をそぎたいものと考えたほうが、朱子の言わんとする事がしっくりくるだろう。現代で言うならば、シビリアンコントロールだ。



【参考】

科は区別という意味。科を同じくせずとは、例えば上・中・下と分ける事を言う。



【まとめ】

古の知恵は過去の失敗の教訓。

2019年1月8日火曜日

八佾 第三 15

【その15】

太廟たいびょうに入りて、事毎ことごとに問う。あるひと曰く、たれ鄹人すうひとの子礼を知るとえるか。太廟に入りて、事毎に問う、と。子之を聞きて曰く、是れ礼なり、と。



【口語訳】

先生は太廟に入られると、事ある事に質問されたので、ある人が言った。あの鄹から来たって言う先生は、礼の先生じゃなかったのかい?太廟に入るや、事ある事に聞いてるぞ。この話を聞いた先生が言われた。これも礼なのだ、と。



【解説】

現代でも人に物を聞くと馬鹿にする者がいるものだが、孔子もそういう状況にあったらしい。孔子は馬鹿にされる事を知っていても、あえて事あるごとに聞いたわけだが、その理由は人間関係から考えると分かりやすい。人に聞くと馬鹿にされると言うなら、人に聞かなければ良いと大抵の人は考えるものだが、人に聞かなければ御の字かと言うとそう簡単ではない。人に聞かずに指示を出していると、今度はそれが生意気だと言う人がでてくるからだ。つまり、孔子は生意気と思われるよりは、馬鹿にされたほうが良いと判断したと分かる。

理由を考えるに、敵を作ってしまう事を重く見たのだろう。生意気と思われれば自動的に敵を作るから、将来的に足を引っ張られるような面倒事に巻き込まれ安くなる。孔子は嫉妬の渦巻く役人の世界で生きるのだから、出来るだけ足を引っ張られないよう気を使ったのは当然の処世術と言える。そして、人に意見を求める事には馬鹿にされる等のマイナス面だけでは無く、プラスの面もちゃんとある事にも注目したい。例えば、意見を求められた人は自分は認められているとか、一目置かれていると感じるだろう。もし意見が採用されるなら、祭祀では自分がやった仕事があると自慢できるかもしれない。大抵は人間関係が円滑になるのだ。勿論、意見を求めた事で一時的に調子に乗る者もでてくるだろうが、それもそれで良いのである。人は少し隙があったほうが得すると思えば、腹も立たない。

次に、当時の時代背景を考えて見る。孔子が事ある事に訪ねた理由には、時代背景があった気がするのだ。当時は今とは違って、そもそも資料が無い時代だ。現代はインターネットに接続すれば大概の事は分る時代だが、孔子の時代はほぼ全てを口伝で伝えていた時代である。先生が言う事を弟子が暗記して、さらに自分の弟子に口伝で伝えていく。人間の脳みそは意外に忘れないもので、特に子供の頃に覚えた事は一生忘れない。だから、例えば仏教では、子共の頃にお経をみっちり唱えさせたし、和尚が読むお経を近くで掃除させながら何度も聞かせた。子共はお経の内容は分らないが、それで良いのだ。子共の頃にお経を暗記させれば、それは一生ものとなるのだから。とにかく文面を音で覚えさせる事こそ肝要なのである。お経の意味などは、大人になれば自然と分かってくる。

ただ、この方法に問題が無いわけでは無い。それは、口伝故に人によってお経の解釈が変わったり、覚え違いが出てくるという点だ。そこで、正確をきすならば、どうしても覚えている内容を他の者と照らし合わせる必要がある。孔子は事ある事に質問して馬鹿にされたわけだが、孔子が質問せざる得なかった理由にはこういった事情もあっただろう。孔子は周公を祭る祭祀に万が一にも間違いがあってはならないと、慎重な態度で臨んでいたわけだ。故に、質問する事が礼となる。なお、人間関係の関連で言えば、間違うと孔子を生意気だと思っている他の役人に揚げ足を取られてしまう。資料が無いだけに、孔子の記憶が間違っていると役人同士で口裏を合わせる事すら可能で、そう言うリスクを質問する事で担保した面もあったのだろう。現代で言えば、稟議書にハンコがたくさん押してあるのと同じ理屈である。慎重とも言えるが、みんなで渡れば怖くないという面もある。

さて、最後に葬儀の地域差を指摘しておく。現代でも葬儀は地域によって様々だ。日本を例にとっても、仏教式でやる地域もあれば、神道式でやる地域もあるし、仏教や神道と一言にいっても宗派ごとにやり方が違う。葬儀には決まったやり方が有るようで無いのだから、葬儀の際は相手にどのようなやり方でするのか聞くのが一般的だろう。孔子の置かれた状況も同じだったのでは無いだろうか?何せ中国は日本より多種多様だ。孔子は葬儀屋だったのだから、祖霊を祭るやり方は熟知していただろうが、それでも地域の差を思えば聞かざる得なかったと考えても自然な気がする。今回は周公への祭祀という事でやり方は定まっていたとは思うが、施主が前と同じやり方を望むとは限らないのだから、聞いたほうが無難な事は間違いない。故に、聞く事が礼となる。以上、総合して考えると、孔子が馬鹿にされても質問したほうが良いと考えた事は、理に適っていて悪くない判断だったと分かる。



【参考】

1、太廟は、魯の祖である周公を祭るみたまや。

2、鄹は孔子は出身地で、鄹人とは田舎者という蔑視を含む表現。

3、事あるごとに質問したのか、事あるごとに利用したのかは紙一重。後者が中国的解釈な気がする。



【まとめ】

聞くは一時の恥。

2019年1月6日日曜日

八佾 第三 14

【その14】

子曰く、周は二代にくらぶれば、郁郁乎いくいくことして文なるかな。吾は周に従わん。



【口語訳】

孔子先生がおっしゃた。周は夏・殷と2つの王朝に比べて、文化が秩序立ち、花が香るように盛んで美しい。私は周の礼法に従おうと思う。



【解説】

孔子が周の礼法を推奨する理由を述べた一節で、孔子が周の礼法を夏と殷の礼法が発展したものと考えていた事が分かる。花が香るようにとは、大変な褒め様だ。なお、監の訳し方によって、訳が多少異なるので触れて置く。監は監察と言う意味だが、監察した後に単に比較するのか、規範として採用するのかという問題がある。自分の口語訳では前者の比べるほうを採用して訳しているが、後者の規範として採用したと訳す訳者も多い。後者の場合、監を比べてではなく、かがみ見てと読む事になるが、これは日本人的な解釈となる気がする。

日本人は古事記の国譲りを見ても分かる通り、例え相手を屈服させたとしても、相手の顔を潰す事は好まれない。相手の面子を考えない人間は悪い評判が立つもので、キチンと相手の面子をたてる人間が好まれる。だから、日本人的な発想をすると、孔子は立派な人物だから前王朝の面子をたてたのだろうと考えて、2つの王朝より文化が発展したと前王朝を卑下するのではなく、2つの王朝の文化を引き継いだお陰で文化が発展できたと訳す。

比べて中華主義では、自分たちのみが文明を誇ると考えるから、例え前王朝であれ、周が前王朝の文化を規範とするなどあり得ない発想だろう。周から見れば、前王朝は野蛮人の国である。何故野蛮人から文化を引き継がなければならないのか?こう考えると、2つの王朝を規範とするより、比べてと訳したほうが中華主義にそっている気がする。中国では、本音はともかくとしても、周辺国は夷狄と蔑まなければ仲間内での立ち回りが難しい。



1、引く日本文化と、足す中国文化

孔子は周の文化を夏と殷に比べ華やかであるから良いと言っているが、実際にはシンプル・イズ・ベストの言葉もあるように、華やかにすれば良いとは限らない。そういった問題は言わば好みの問題であるから、華やかな事を嫌う人もいるのが現実だ。例えば、料理を例にとって考えて見よう。料理は毎日の事だけに、その民族性が現れやすい。日本料理では、素材の味を活かすために足す事よりも引く事に基本がある。下の画像を見て欲しい。




画像は日本ではお馴染みの冷奴だが、料理としてみれば、余計な物を足さずに豆腐の味を堪能してもらう事に注意が払われている。こうすると誤魔化しが効かないため、豆腐の味が不味ければ美味しくないし、豆腐の味が良ければ美味しいとなる。当たり前の話だが、実はこの事に誤魔化しを嫌う日本文化が垣間見える。それは、中国の麻婆豆腐と比べると良く分かる。





麻婆豆腐は筆者も大好物であるが、日本の豆腐料理に比べるとゴテゴテしている点に注目して欲しい。麻婆豆腐は日本のように豆腐そのもので勝負するという発想で作られた料理では無い。豆腐に美味しいソースを足して美味しくすると言う発想で作られている。これは麻婆豆腐だけではく、餡かけ料理にも顕著に表れている特徴で、例えば蕎麦一つとっても、日本は蕎麦その物の味を楽しもうとするが、中国は餡をかけて、餡かけソバとして楽しむ。善悪では無いのだ。何方も美味しい。ただ、引く日本と、足す中国と言う文化の差があると言う事を確認して欲しい。

そして、足す事で誤魔化す余地も生まれてくる。引けば胡麻化せないが、足すならば一つくらい粗悪な品があっても分からない。この相手を騙す余地を用意している所に、中国人のしたたかさを感じるのである。誤魔化す事を嫌う日本は引き、誤魔化す事が当然の中国では足す。発想の根源を感じるでは無いか。なお、長崎チャンポンでお馴染みのチャンポンと言う言葉は、色々なものを混ぜるという意味で、お酒の席でも様々なお酒を混ぜて飲むことをチャンポンと言ったりするが、その語源を辿ると中国の福建省にたどり着くと言う説がある。



【参考】

1、郁郁乎は、文化が盛んで秩序だっていると言う意味。まるで花が香るような華やかさと言うニュアンスとなる。


2、文は文化の意味で、文化とは礼楽制度を言う。文なるかなとは、何とも文化的だというニュアンスで、文化が盛んで美しい様を意味する。


3、料理の話は加瀬英明氏、石平氏を参考にした。















【まとめ】

比べると分かる事がある。

2019年1月5日土曜日

八佾 第三 13

【その13】

王孫賈おうそんか問うて曰く、其の奥に媚びんよりは、むしそうに媚びよとは、何のいぞや、と。子曰く、しからず。罪を天にれば、 いのる所無し、と。



【口語訳】

王孫賈が訪ねた。奥の間に媚びるより、かまどに媚びよと言いますが、どう思われますか?孔子が答える。そうでしょうか?天から罰を受けるなら、祈りをささげる場所さえ無くなってしまいますよ。



【解説】

孔子が晩年、諸国を放浪していた際に立ち寄った衛での一節となる。当時の衛では、君主よりも臣下の王孫賈のほうが実質的に権勢を誇っていた。にもかからわず、孔子は君主のほうに礼をつくした挨拶をしたため、それを面白く思わなかった王孫賈が花より団子と茶々を入れた。王孫賈からすれば、力のない君主に礼を尽くすより、権勢を誇る自分に礼を尽くす方が得なのでは無いかという訳だ。

しかし、孔子はそうでは無いと答える。理由は、彼が周公の礼を復興する事こそ天命であると信じていたからであろう。孔子は礼の先生だ。言行一致の大切さも説いてきた。その孔子が花より団子と礼を無視しては、孔子は言っている事とやっている事が違うと思われ、弟子達もついてこなくなるし、孔子の話に誰も耳を貸さなくなるだろう。そうなっては、周公の礼の復興などおぼつかない。故に、花より団子が天に唾を吐くが如き行為となり、祈る場所も無くなる。あえて孔子の本音の部分を会話にするなら、花より団子と言いますが、私にとっては礼を守る事こそ団子ですよと言っていると考えても自然だろう。ただ、考えてもみて欲しい。そうストレートに言っては無粋だろう。だから、孔子は本音の部分は隠しつつ、恰好をつけて見せたのだ。天に唾を吐くような真似は出来ない、と。ピシャリである。



1、奥の間より、かまどに媚びよ

日本で言えば、花より団子と言う例えだが、歴史的に中国人が置かれてきた状況を裏返した言葉となる。中国に宗教があるとすれば、それは飯だと言うくらいに、中国人は飯にこだわる。何故そのような文化が育ったかと言うと、それは人民は常に飢えていたからに他ならない。中国では平和な時期はとても短く、戦乱が常であったため、毎日ご飯にありつけるという事が大変に稀な事だった。そのため、兎にも角にも、かまどの神に媚びて飯にありつこうと言う発想になるのである。故に、結構切実な言葉となる。

こういう背景を考えて見ると、王孫賈の花より団子と言う問いかけは、中国人ならば花より団子は当然のはずだよねって言っていると解釈できる。そこを孔子は天に唾を吐けぬといって恰好をつけるものだから、中国人にはとても不思議な人に映るのだろう。孔子の教えは、中国には残らなかった。



【参考】

竈は、かまどと読む。


下の画像は日本の奥座敷だが、信用置けない人物を奥まで案内するかと考えて欲しい。奥の間とは、そう言う意味だ。大概は奥の間に通されれば、かまども後からついてくる物だが、そう考える余裕もない事情が中国にはあったという事。












【まとめ】

何が団子かは人によって変わる。


2019年1月4日金曜日

八佾 第三 12

【その12】

祭ればいますが如し。神々を祭れば神々在すが如し。子曰く、われ祭りにあずからざれば、祭らざるが如し、と。



【口語訳】

先祖を祭れば、まるで先祖が其処にいるかの如く。神々を祭れば、まるで神々が其処にいるかの如く。孔子は言う。私は祭りに参加できなかったとき等は、祭ったような気がしないのだ、と。



【解説】

今回は祭祀を行う者の一般的な感想を述べている気がする。孔子は先祖を祭る時は先祖がいるかのように、神々を祭る時は神々がいるかのようにと言っているが、これは祭祀を行う者にとってはイロハのイでありる。

例えば、日本でもお馴染みの念仏を考えて見よう。現代の日本で念仏と言うと、お坊さんがお経を唱えている姿を連想しがちだが、本来の念仏は念の中に仏を作る故に念仏と言う。だから昔は仏像を置いて念仏を唱えるなんて事はむしろ邪道であり、座布団くらいはまだしも、基本的には自分の念のみで仏を作るのが正しい作法であった。ただ、それでは普段仏典にふれていないような素人にはとっつきにくい。だから、布教しづらかったのだろう。念の中に仏を描くと言われても、素人には意味が分からないから。そこで、仏像のような明確な信仰の対象があればとっつきやすいとなり、言わば布教の都合から、今のような仏像を作る文化が定着した。ちなみに、仏像を最初に作ったのはインド人ではなく、ギリシア人らしい。仏教がギリシアに伝わった際にギリシア人が勝手に作ってしまい、それがシルクロードを通って日本にやってきたと言われている。ギリシアと言えば彫刻が有名だが、彼らには何でも彫刻にしたがる癖があったのだ。

なお、日本では、先祖を祭る時は先祖がいるかのように振る舞わないと罰が当たるという言い伝えがあったりする。例えば、仏壇の前で嫁の悪口を言う姑がいたりする家は、例えば子供がイジメにあったり、旦那が病気になったり何かと不幸に見舞われたりするのだが、姑が悪口を言う事を止め真摯に先祖を祭るようになると、不幸がピタっと止まったりする。不幸の原因は真摯に祭ってもらえない先祖が起こした霊障というわけだ。孔子は葬儀屋だけに、こういった話も頭にあったとしても自然だろう。特に中国では先祖は地下で生きている事になっているのだから、祭祀を執り行う時は、まるで先祖がいるかのように振る舞わねば不味かった事情も透けてくるようだ。

孔子が祭祀に参加できなかった時は祭ったような気がしないのは、それ自体は自然な話だ。何せ祭祀に参加していないのだから。だが、孔子は葬儀屋である事を考えると、お金の面で考えても良いかも知れない。自分が祭祀を取り仕切らねば、報酬はどうだったのだろうか?彼にとって祭祀は食い扶持なのだから、お金の面からも祭ったような気がしないのは当然な気もする。仕事の達成感は、報酬の額に比例しやすい。



【参考】

1、与は、一緒に力を合わせてという意味で、参加と訳した。


2、孔子の主観にそって解説してみたが、他にも外部からどう見えるかと言う視点で考えても良い。つまり、祭祀を演出するという視点である。先祖の霊や神々を降ろすと言って、先祖の霊や神々が其処にいるように振る舞わなかったら、本当に先祖の霊や神々を降ろしたのかが分からない。ドライに考えると、こういう事情もある。


3、念仏のくだりは、沖本克己氏を参考にした。仏の姿を想像する事を偶像崇拝と言って、釈迦仏教ではご法度となる。だから、念仏と言う話になるのだが、ギリシア人は偶像を作る事にこそ文化があったため、ご法度を破って仏像をつくってしまった。なお、キリスト教であれ、イスラム教であれ偶像崇拝はご法度だ。






【まとめ】

祭祀は心。


2019年1月2日水曜日

八佾 第三 11

【その11】

る人ていの説を問う。子曰く、知らざるなり。その説を知る者の天下にけるや、其れこれここに示すが如し、と。其のたなごころを指せり。



【口語訳】

ある人が諦についての説明を求めると、孔子先生はおっしゃった。私には分かりません。それが分かるなら、天下の事もここに示すが如きでしょう。と、手のひらを指さした。



【解説】

孔子は文献さえ十分ならば、自分の知識が確かな事を証明できたと嘆くくらいの人物だから、諦の説明ができなかったかと言われると、恐らくできただろうと思われる。だが、孔子は分らないと言っているわけだが、それは何故だろう。流石の孔子も文献が足りないのでは、細かい部分は説明できなかったかも知れないので、まずは素直に分からなかったから正直に分からないと答えたと考えて見る。人間は本を読むほどに自分の無知を知り、知らない事が多い事に気づくものだ。そうすると、自然と謙虚になるもので、賢人ほど自分の未熟も認識している。孔子は当時の賢人であったわけだから、本当は説明できたが自分の未熟な部分を思って、分からない部分もあると謙遜したと考えても自然だろう。孔子の本音はさておき、周りからはそう見えたはず。

だが、孔子は現代で言えば葬儀屋だ。葬儀屋が法要の事を聞かれて、分からないと答えるようでは商売あがったりである。そう考えて見ると、孔子が分からないと答えた事は不自然なのだが、分からないと言っている以上、相手に合わせる他なかったとも考えられる。どういう事かと言うと、例えば、秦の始皇帝のエピソードが分かりやすい。日本で馬鹿と言うと、仏教で無知を意味するサンスクリッド語のモハを音写した言葉だから、無知な人を馬鹿者と言う。だが、中国で馬鹿と言うと日本と同じ意味では無いのだ。中国における馬鹿とは、秦の始皇帝が鹿狩りに出た際、鹿と間違って馬を射ってしまった故事に由来する。ある時、始皇帝は鹿狩りで間違って馬を射ってしまった事があったと言う。鹿狩りで馬を射ってしまったとなると恥ずかしいミスだ。だから、面子が潰れると思ったのだろう。始皇帝は、射った馬を鹿と言い張った。そうすると、お付きの者達も倒れているのが馬だとしても、それが馬だとは言えない。言えば殺されるからだ。そこで、始皇帝に合わせて、馬を鹿だと言って祝ったのだ。これが中国における馬鹿である。

孔子が葬儀屋だったのにもかかわらず、法要を分からないと答えた事情を察するに、秦の始皇帝のエピソードがしっくりくるのでは無いか?また、恐らく孔子の相手は宿敵の三桓氏であろうから、単に説明したくなかったという部分もあったかも知れない。



【参考】

1、諦は、要は帝によって行われる法要。魯は特別に諦が許されていた。

2、始皇帝のエピソードは宮崎正弘氏を参考。














【まとめ】

言ってる事と、やっている事と、考えてる事が違う事もある。

2018年12月23日日曜日

八佾 第三 10

【その10】

子曰く、てい既にかんしてより而往のちは、われ之を観ることを欲せず。



【口語訳】

孔子先生がおっしゃった。先祖を祭る大祭も神酒を地にそそぐまでは良い。だが、その後が見るに堪えない。



【解説】

まず禘の説明をすると、字の構成通り、帝によって示す行為を意味する。示の語源は台の上に犠牲となる羊をのせ、それを殺した時に血がしたたり落ちるという意味だ。示の上の横棒が犠牲の羊であり、丁が台を表し、点々がしたたり落ちる血となる。したがって、示は宗教的儀式を表し、それを家の中で行うと宗教の宗となるし、それを帝が行うと禘と書く。故に、帝である天子が天を祭る大祭を禘と言う。孔子のいた魯は特別に帝である天子と同格の祭りが許されていたため、魯で行われる先祖祭りの大祭も禘と呼んだと考えれば自然かと思う。



1、孔子が見るに堪えない理由

一言で言えば、魯の先祖祭りが礼に反していたからと考えられているようだ。孔子の生きた時代の魯では、王の跡目相続がすんなりいかなかったらしく、それが原因で礼が乱れたと言う話となる。事の発端はこうだ。まず16代目の王であった荘公には、嫡出子と非嫡出子がいた。最初は嫡出子である閔公びんこうが跡目をついで17代目となったのだが、閔公はわずか2年でこの世を去ってしまう。そこで再度跡目相続となり、そこで白羽の矢がたったのが荘公の非嫡出子であった 僖公きこうだった。

ただ、僖公は閔公の兄にあたったから話がややこしくなる。兄弟の序列から言えば、兄である僖公は弟である閔公より上だが、王位継承の序列から言えば、閔公は疑似的とは言え僖公の父にあたる。つまり、弟が兄の父になってしまうのだ。この事は19代目の文公の代の先祖祭りで問題となる。文公は僖公の子であったため、弟の下となる父を不憫に思ったのだろう。本来なら閔公・僖公の順で位牌を並べなければならない所を、逆の僖公・閔公の順に位牌を並べて先祖祭りを行ってしまった。父が自分の弟の下にならないよう配慮したのだ。だが、これは逆祀と言って、本来やってはいけない事だったため、孔子は見るに堪えないと嘆いている。礼を乱しておいて、何の礼ぞと言う気持ちだったのだろう。



<王位継承順>

荘公 ー 閔公(弟) ー 僖公(兄)

先祖祭りの祭、本来は位牌をこの順で並べねばならないが、文公は王位継承順では弟の下の序列となる父の僖公を不憫に思って、位牌を以下のように並べ替えてしまった。


荘公 ー 僖公(兄) ー 閔公(弟)

こう並べてしまうと、17代目と18代目が逆になってしまい、16代目荘公から18代目僖公に飛び、17代目閔公が最後にくるというアベコベになってしまう。故に、逆祀と言って礼を乱したとされる。



【参考】

地面にそそぐ神酒は鬱鬯うっちょうと言い、香草で香りがつけられ霊力に溢れた酒と考えられていた。祖先の霊に捧げる他、高貴な賓客にもてなされた。



【まとめ】

先例は、されど先例。