2019年11月18日月曜日

里仁 第四 17

【口語訳17】

孔子先生がおっしゃった。賢者を見ては、見習う。愚者を見ては、内省する。



【解説】

一言で言えば、人の振り見て我が振り直せという話だが、何故そう言われるのかを少し掘り下げて説明しよう。優れた人になるには、優れた人の真似をするのが早い。出来れば優れた人と行動を共にし、その方の思考のパターン、所作を出来るだけ真似をする。そうしている内に優れた人とどんどん似通っていくから、当然ながら自分も優れた人にどんどん近づいていく。これを波長が合うと言う。優れた人と波長があうと、恐らく人間関係も変わり始める。人は波長の合わない人と一緒にいても居心地が悪いため、以前付き合っていた友人達とは疎遠になっていくのだ。以前付き合っていた友人達は、自分が変わる前の波長と合う友人達なので、自分が変わってしまえば考え方のあわない人達になるからだ。逆に言えば、友人が一新するような状況にならねば、自分が本当に変わったとは言えないと思っても良い。少々極端に感じるかも知れないが、普通の人が優れた人と波長を合わせればそういう結果を招くはずなのだ。そして、優れた人と同じ波長になった貴方には、同じく波長のすぐれた人達が新しい友人になってくれるようになる。優れた友人達に囲まれた貴方は、チャンスにも恵まれるようになり、自然と人生が好転していくだろう。

次に愚者を見て内省する理由だが、愚者と波長を合わせないためと考えても良いかも知れない。愚者の愚者たる所以は、波長が愚かであるにつきる。そのような者と行動を共にし同じ波長になってしまうなら、自分も愚者になってしまう。そうすると上記とは逆に、優れた友人達は去り、代わりに愚者の友人達が集まってくる。水は低きに流れ人は易きに流れるというように、賢者になるよりも愚者になるほうが簡単であるため、孔子が君子になるはずの貴方に警告を発したとも言えよう。愚者にならないための秘訣は、愚者を見た時、自分にも同じ部分がないかと内省する事に尽きる。そうする事で愚者は他山の石となり、ある意味では師とさえなるのである。優れた者だけでなく、愚者さえも師とできたなら、まさに盤石となろう。

なお、君子を立派な官僚として解釈するなら、賢者とは出世の糸口をつかんだ者、もしくは出世している者だ。実利で考えるなら見習うのは当然となる。愚者は逆に出世コースから外れた者、もしくは出世の糸口をつかめなかった者になるから、我が身の事として内省するのも当然となる。

2019年11月14日木曜日

里仁 第四 16

【口語訳16】

孔子先生がおっしゃった。君子は道理をさとり、小人は損得をさとる。



【解説】

人生の勝ち負けにこだわるわけでは無いが、あえて人生全体を一つの勝負と考えてみると、君子が万事道理を大切にするのは、それが負けづらい手であるからと考えても良い。損得のみを考えた言動はその場限りでは良い思いをする事もあるだろう。だが、後々咎められる可能性も高く、後顧に憂いを残すとも言える。人生を近視眼的に考えるのではなく、雄大に長い目で捉えるなら、後顧に憂いを残す事は極力するべきでは無い。長い時間の中では、必ず咎められるときが来るのだから。これは例えば、政治家の汚職など良い例となる。彼らは賄賂を受け取ってその場では良い思いをしたはずだし、その時はバレないと思っているはずだが、しばしばTVや新聞を騒がすようなニュースに発展している。こうなって見れば、賄賂を受け取った事は馬鹿だったとさえ言える。ルールを破ったらいけないは子供でも知っている道理だが、道理をきちんと実践しているかは、長い時間のなかでは効いてくるのである。勿論、道理に従っていれば必ず成功できると言ったものでは無く、損得のみを考えては必ず失敗すると言うものでも無い。なかには損得のみで成功している者もいる。ただ、どちらが勝ちやすいかと考えた時に、君子は道理を重んじ、小人は損得に走る傾向があると考えて見たい。要は勝ち安さの問題である。

なお、君子を立派な官僚という意味で解釈するなら、君子でなければ国を潰す。小人には安心して政治は任せられないと言える。また、単純に考えて、道理をさとらねば応用がきかず、目先の損得に走るは実質的に損と考えても良い。経験を経験として活かすには、道理を把握しなければならないのも、また道理なのだから。





【参考】

将棋の世界にはプロとアマチュアがいるわけだが、プロとアマチュアで何が決定的に異なるかと言えば、将棋の腕の他に持ち時間がある。アマチュアの対局では精々数十分の持ち時間の処、プロになると数時間に増え、タイトル戦などは2日にわたり対局がされたりする。この持ち時間の差が、将棋の指し手の発想に決定的な差を生む事になるという話がある。アマチュアは相手の持ち時間が短いため、その短い持ち時間をついた手も有力な選択肢となる。実力者が見ると無理筋の手であっても、考えられる時間が短い中では実戦的なのである。詰み将棋もかける時間によって正答率は変わるように、考える時間が無ければ受けを間違うからだ。そのため、ただ局面を複雑にすれば、読みが追い付かないため勝負になる。

プロにこういった発想が無いかと言われれば、勿論ある。将棋は間違ったほうが負けるゲームという性質上、劣勢の祭は局面を複雑にして難しくしておくという事は一つの勝負術となる。故・米長永世棋聖などはそういった事が得意だったような気がする。だが、こういった発想は劣勢だからこそする事なので、プロのレベルではアマチュアほどの効果は期待できない。プロは腕もさることながら持ち時間も長いため、無理筋な手はきちんと受けられてしまう事が多いからだ。そのため、プロは持ち時間があっても関係が無い手、言い換えれば、棋理に沿った手を指そうと心がける。棋理にそった手なれば相手に咎められる心配なく、勝率に直結するからだ。君子の発想もここらへんに由来するのではないか。





2019年11月12日火曜日

里仁 第四 15

【口語訳15】

孔子先生がおっしゃった。参くんや。我が道は一つの道理を貫いてきたのだ。曾子が答える。さようでございます、と。孔子が去ると、他の門人達が曾子に尋ねた。どういう意味ですか、と。曾子が答える。師の道は忠恕に尽きると言えましょう。



【解説】

今回は後に孔子直系の後継者となる曾参の若かりし頃と、晩年の孔子のやり取りの一コマと考えると自然だ。年齢差46歳らしいので、この会話がなされた時、孔子は70前後だったと考えられる。孔子からすれば孫ほどの年齢である曾参に対し、自分の人生を語りたくなった。そう考えると、どこにでもありそうな日常の風景になる。

さて、まずは話の流れを整理しよう。孔子が自分の人生は一つの道理を貫いてきたと言うと、曾参はすぐに同意した。さようでございます、と。さすがに後に儒家の中心的人物となる曾参だけあって、心得たものと言えよう。その事に安心したのか、孔子は満足して部屋を後にした。だが、このやり取りを傍目で見ていた他の門人たちには、孔子が何故満足して部屋を後にしたのか分からないかったらしい。そこで曾参に孔子の貫いてきた道理は何かと聞いた。すると曾参は、師の道は忠恕の一語に尽きると答えたというのが話の流れとなる。

というわけで、孔子が貫いてきたという忠恕とは何かになるが、忠は偽りのない心と言う意味で、真心と訳される。忠の字を見ると中にある心と書くくらいだから、最も中にある心の部分と考えれば、忠=真心というニュアンスが感じ取れ理解の助けになるだろう。次は恕だが、恕は相手の心を察すると言う意味で、思いやりと訳される。恕は女の口に心と書くだろう。女と言うのは相手の心を察するのが得意な生き物である。表情、しぐさ、声色の微妙な変化に敏感で、ちょっとした変化から相手の心情を推し量る。そして優しい言葉を話す。こういったニュアンスが恕という字に現われていると考えれば、恕が思いやりという意味になるのも分かるような気がする。まさに心の如くである。なお、こういった女の能力は、生まれたばかりで言葉を全く話せない我が子を育てる時、我が子のちょっとした変化から、我が子の状態を察する事ができるように備わったのではないかという説がある。話が脇道にそれたが、忠恕の道は真心と思いやりの道であり、つまり孔子が歩んできたのは仁の道というのが結論になる。孔子は孫くらいの年齢の子に、先生は真心と思いやりの人生を歩まれてきましたと褒められて気持を良くしたわけだ。まさに我が意を得たりであっただろう。

なお、この話を教訓として活かすなら、以下3つの質問を考えて欲しい。全てYESなら君子の素養が備わっている。


  •  自らの人生を貫く道理はあるか?
  •  忠恕の道を歩んでいるか?
  •  曾参くらいに上司を理解しているか?




【参考】

女性の特徴の段は、以下の本を参考にした。


2019年11月10日日曜日

里仁 第四 14

【口語訳14】

孔子先生がおっしゃった。地位が無いからと言って嘆かない。地位にふさわしい実力があるかを心配する。知られないからと言って嘆かない。知られるような実力をつける事を求める。



【解説】

地位は結局のところ、運否天賦の世界である。地位にふさわしい実力があれば地位を得られるかと言うと、その実力を妬む者が上にいれば、邪魔をされて不遇に追いやられる。逆に、実力が無くても、その実力が無い事を上が気に入れば、厚遇されて出世してしまう。それが世の中だ。上がどのような人物であるかは巡り合わせとしか言いようがなく、まさに天のみぞ知る世界であるから、地位が無い事を嘆いても仕方がない。人間に出来る事は、少なくても地位が与えられた時に、その地位にふさわしい実力が備わっているようにして置くに尽きる。そうしている内に、上が変わってしまうというのも世の中なのだから。故に、地位を嘆くより、地位にふさわしい実力を心配したほうが良いと言う。

知られないからと言って嘆かないのは、世の中は知られれば良いと決まったものでもないから。実力が無いうちに世に知られれば、あるいは名折れとなる事も考えられる。名折れとなっては、失った信用を取り戻さなければならないと言う意味で、零どころかマイナスからのスタートとなってしまう。知られないから良かったという事もあるのである。大切な事は、自分に都合の良い事だけを考えず、公平に都合の悪い事も想定する事である。そうすれば、知られない事を嘆いても仕方ないと分かる。世に知られるかどうかは、やはり天の範疇であるから、人事を尽くして天命を待つが最良の選択肢なのである。故に、知られないからと言って嘆かず、実力をつける事に専念すると言う。

また、他の解釈として、君子は愚痴を言わないと考えても良いだろう。



【参考】

学而16と同じ内容の模様。学而16の解説も合わせてどうぞ。

2019年11月9日土曜日

里仁 第四 13

【口語訳13】

孔子先生がおっしゃった。礼制と謙譲の精神のもとで国を治めるなら、何の難しい事があろうか。礼制と謙譲の精神のもとで国を治められないなら、礼制は何の役に立とうか。



【解説】

礼制が必要な理由は、要は便利だからだ。どういう事かと言うと、例えば、いくら心で敬意を示しても、心で思うだけでは相手に敬意は伝わらないという問題がある。そのため、相手に敬意を伝えるためには、相手にも分かる形で具体的に敬意を示さなければならないとなる。そうすると敬意を示すための共通の所作があったほうが良いとなり、それが社会規範として発達する事になる。そして、そういった社会規範が洗練されると礼制と呼ぶようになるわけだ。礼制に則ることにより、相手にあらぬ誤解を与えてしまうリスクも避けられるため、誤解から喧嘩になる事もなくなり、言わば高いレベルでの非言語コミュニケーションも可能になる。

このように礼はコミュニケーション手段が増えると言う意味で便利であるのだが、一方で、良くも悪くも形式に過ぎず、言わば化粧のように見た目を整えたに過ぎないと言う問題もある。いくら見た目を整えても、お互いが自分の利益を主張するばかりで実質的な折り合いがつかなければ、それはそれで喧嘩になってしまうものだ。そこで必要になってくるのが謙譲の精神と考えるとスッキリするだろう。つまり、利害が対立しても、お互いが相手を尊重して譲り合うならば喧嘩にならないと言うわけだ。故に、礼制と謙譲の精神のもとで国を治めるなら、国を治めるのに何の困難も無くなる。相手を侮辱せず、その誤解をうけず、相手を尊重し利益を譲るなら、どうして喧嘩になろうか。喧嘩にならないなら、何の困難があろうか。いや、無いというわけだ。

また、礼制と謙譲の精神のもとで国を治められないなら、礼制が役に立たない理由も上記の通りである。謙譲の精神ぬきでは、利害対立した場合に喧嘩になってしまう。これは、お互いが礼儀に則りながら皮肉を言い合う姿を想像すれば分かりやすいだろう。笑顔で皮肉を言い合う姿などグッタリするのでは無いだろうか。



1、礼に通ずる事こそエリートの証

君子を立派な官僚として考えると、円滑に仕事を行うために喧嘩を避けたいという実務上の理由のほかに、礼に通ずる事で生じるエリート意識も抑えておきたいポイントとなろう。と言うのも、一般人は礼に通じてはいないし、知っていてもおぼろげに知っているだけだ。そのため、礼に通じる事で自ずとエリート意識が芽生えるし、礼に通じた者同志の仲間意識を強める事にもなる。エリートは嫉妬され仲間外れになりやすい事を考えると、この仲間意識は処世術として大変重要となる。ここら辺の事情が孔子が仁を説く一端でもある気がする。

2019年10月31日木曜日

里仁 第四 12

【口語訳12】

孔子先生がおっしゃった。自分の利益本位の行動は、恨まれやすい。



【解説】

打算は当然なれど、過ぎれば鼻につくもの。処世術として踏まえるべきは、自らの利益と周りの利益の調和を取る事だ。調和を逸すれば敵を作り、結局は碌な事にならない。目の前の利益だけを考えるのではなく、敵を作ってしまう事で将来に生じるコストもきちんと評価したほうが無難だ。実際、恨まれても釣りがくると言う話などまずお目にかかれ無い。恨まれれば将来仕返しされる可能性が生じ、それは恨んだ相手が納得するまで消えないのだから、不吉な事この上ない。とは言え、恨む人間が少なければ生活に支障はでないかも知れないが、自分の事ばかり考えるような人間が作るであろう敵が、果たして少なくて済むかという問題がある。なんせ日に日に敵を作ってしまう性格なのだから、多くの敵に囲まれるようになると考えたほうが自然と言うものだ。そして、多くの敵を囲まれるようになるとどうなるかと言えば、何をするにも邪魔が入るようになり、とても生きにくい状況に追い込まれる。自分の利益本位の生き方は、時間が経つごとに生きにくくなるのが道理なのだ。君子ならば、時間が経つごとに生きやすくなるような生き方をすべきだし、また、そうでなければ君子とは言えまいと考えたい処だ。

なお、一方で、生きにくくなったら逃げれば良いと言うのも現実的な考え方ではある。ただ、性格のほうを是正せずに逃げるだけでは、本質的な解決にはならない事が難点となる。



1、物をくれる人が最上の友人

君子を立派な官僚として考えると、物をくれる人が有難い友人と考えると現実の政治に即してる。賄賂は受け取るだけではダメ、配ってこそ活きるのだ。

2019年10月29日火曜日

里仁 第四 11

【口語訳11】

孔子先生がおっしゃった。君子は有徳を願い、小人は安楽を願う。君子は責任を取る覚悟をするが、小人は責任を逃れる事を願う。



【解説】

君子と単なる知識人の興味関心事の違いが出ている言葉だと思う。君子と知識人は似て非なるもので、人間としての根本にハッキリとした差がある。君子にとって大切な事は、一にも二にも有徳者らしい振る舞いである。そのため、例えば、自らの言行が仁者にふさわしいものであったかに重きがおかれる。一方、知識人の場合、徳の高い人間になるよりも良い暮らしがしたいという欲求から知識を身に着けているため、自然と安楽こそが大切になる。安楽を願う事が悪いわけではないが、君子と単なる知識人では格が違う。

こういった人間としての根本の違いは、責任をとらねばならない場合にも良く現れ、有徳者たらんとする君子にとっては言行一致が大切であるため、責任逃れは恥ずべき行為になる。言行不一致になるからだ。故に責任をとる覚悟をする。一方、安楽のために書物を読んだ知識人は、安楽こそが大切なのだから、安楽を得るために責任を回避しようとお目こぼしを願うのは自然な成り行きとなろう。



1、三十六計逃げるに如かず

君子を立派な官僚として考えて見よう。官僚と言えば、出世こそが生きがいと相場が決まっているが、出世は所詮は確率論の世界である事を知っておきたい。世間は実力があれば評価されるかと言えば、そう簡単でも無い。例えば、実力が裏目にでてしまうと、嫉妬されて不遇に追いやられるなどは良くある話だし、王関連で言えば、戦争での活躍が王の猜疑心を煽ってしまい命を失ったと言う話もある。実力は大切なれど、それは出世の確率があがるだろうと言う意味で、と冷静に抑えておきたい処だ。

今回、君子は有徳者たらんと欲し、その結果責任を取る覚悟をするという流れで説明したが、有徳者になるのは少しでも出世の確率をあげるため、責任を取る覚悟をするのは、今が逃げ時の可能性もあるからという捉え方をして見ると面白いかも知れない。処世術として役に立つ事もあろう。実際、責任をとったとしても、その者が人材として惜しいならば必ず再度声がかかるものだから、責任を取ったからと言ってチャンスが無くなるわけでは無い。逆に、生き残りをかけて責任逃れを画策した結果、潔くないとなり、より厳しい処罰になってしまったなんて事もある。こう考えて見ると、三十六計逃げるに如かずと言うのも道理かも知れない。