2017年10月23日月曜日

孫子の兵法 行軍編その2

2、軍は高きを好みて下きを悪む

孫子曰く。「およそ軍は高きを好みて下きを悪み、陽を貴びて陰を賎しむ。生を養いて実に処り、軍に百疾なし。是れを必勝と謂う。丘陵堤防には必ず其の陽に処りてこれを右背にす。これ兵の利、地の助けなり。上に雨ふりて水沫至らば、渉らんと欲する者は、其の定まるを待て。」



【解説】

孫子曰く。「およそ軍は高い場所に布陣するのが好ましく、低い場所での布陣は避けたほうが良い(悪)。日向に布陣するが良く(貴)、日陰での布陣は避けたほうが良い(賎)。これは兵の健康状態(生)への配慮(養)であり、軍が百の病(百疾)から守られるだろう。こうして必勝の態勢が作られる。

丘陵や堤防に布陣する場合、必ず太陽を意識し、東南の地(右背)にするのが望ましい。これは有利な作戦行動(兵の利)のためであり、地の助けを得られるためだ。川上で雨が降り水嵩が増し、水の勢いで水泡がでているならば、河を渡る(渉)のはそれが治まる(定)のを待った方が良い。」






軍の布陣に際しての、具体的な注意点を解説している。要点は単純な話だ。


  • 高い場所 > 低い場所
  • 日向   > 日陰
  • 洪水は洪水が治まってから進軍


高い場所が低い場所より好ましく、日向は日陰より良い。後は組み合わせで、優先順位を決めろという話となる。例えば、高い場所でも、日向と日陰があるだろう。日向と一言に言っても、高い場所もあれば低い場所もあるわけだ。この四通りの中で考えた時、高い場所で日向が最も良いという訳だ。丘陵や堤防に布陣する時も、この考え方に当てはめて考えれば、太陽の動きを意識し、日向を確保するように努めろと孫子が言っているのも納得がいくだろう。

そして、机上では想像しづらいのだが、戦争では敵だけが味方の兵を殺すわけではない。兵が病で死んだりだりと、戦う前に戦線離脱せざる得ない事がある。これは非常に深刻な問題となる。例えば、行軍で湿地を通らせたら、戦地に辿りついた兵の足が壊疽し戦えなかったとか、戦争がペスト菌によって断念されたとか、世界史ではままある事だ。このように、将たる者は兵の健康管理を抜きにして戦争はできないのである。だから、孫子は兵のケアをしっかりしなさいと、わざわざ日向にこだわって説明していると理解すれば良いかと思う。




画像を見れば、洪水は治まってから進軍する事が良いのは一目瞭然だろう。敵と戦う前に、水害によって兵を損なうべきでは無いという話だ。水泡という表現も画像で確認して欲しい。

仕事で考えて見よう。今回は歴史に学べという話を紹介したい。何故、昔から歴史に学べと言うのか?それは人は忘れやすいからであり、歴史の教訓を活かせない人が多いからであろう。その点、孫子はしっかり歴史の教訓を活かしているとも言えないだろうか?

何故、高い場所の日向に布陣するのが良いか?それは過去の失敗を知っているからだ。思いつきで書いているのではない。彼は過去の歴史の教訓を兵法書としてまとめたに過ぎない。そこには、歴史から学ぶという確固たる信念を感じ取れよう。人は間違いを犯す動物である。一度の間違いは致し方ないだろう。だが、二度同じ間違いをすれば、もうチャンスは回ってこないもの。努々、注意して欲しい。

なお、歴史から学ぶ上で大切なのは良く調べる事、そして、大いに反省する事である。特に注意を要するのは、年を取るほど素直さが薄れ、失敗を言い訳で取り繕うになっていく傾向だ。そういう人が陥りやすい落とし穴も予め把握し、素直さが身を助ける事を再確認したい。故・中村天風氏などは、鏡を用意し、鏡に映った自分に向けて反省していたという逸話も残っている。



----- 以下、余談 ----

孫子の文章を解釈する上で、良く分からなかった部分を書いておく。

1、生を養いて実に処り

自分は、生を兵の健康状態、養を良好に保つ事と解釈しておいたが、実の解釈で困った。自分の解説では、実は実効性のある防御策という意味で作られている。だが、他の説もあり、実を食べ物や水として解釈する人もいるようだ。どちらでも本質は変わらないが、参考までに紹介しておく。



2、丘陵堤防には必ず其の陽に処りてこれを右背にす

丘陵と堤防を右背に置けと言っているのか、丘陵や堤防に布陣すると言っているのかを迷った。自分は布陣するとして解説したが、右背後に置けとしても良いだろう。大切な事は日向である事と、相手より高い場所に布陣する事なのだから、どう解釈しても本質的問題とはならない。

右背という表現も意味を掴み兼ねるが、孫子は日向を気にしている事から、東南という事なのだろう。日は東から登り、西へ沈む。もしかしたら午前中に戦う場合は、日光が敵への目くらましになるのかも知れないと思ったりする。孫子は気力の充実している午前中は戦うのを避け、気力の下がる午後に攻めよと言っていたはずだが、敵から攻められるのは午前中が多いのかも知れない。

孫子の兵法 行軍編

1、地形に応じた4つの戦法

孫子曰く。「およそ軍を処き敵を相るに、山を絶ゆれば谷に依り、生を視て高きに処り、隆きに戦いて登ること無かれ。此れ山に処るの軍なり。水を絶てば必ず水に遠ざかり、客、水を絶ちて来たらば、これを水の内に迎うるなく、半ば済らしめてこれを撃つは利なり。戦わんと欲する者は、水に附きて客を迎うることなかれ。生を視て高きに処り、水流を迎うること無かれ。これ水上に処るの軍なり。

斥沢を絶ゆれば、ただ亟かに去りて留まることなかれ。もし軍を斥沢の中に交うれば、必ず水草に依りて衆樹を背にせよ。これ斥沢に処るの軍なり。平陸には易きに処りて高きを右背にし、死を前にして生を後にせよ。これ平陸に処るの軍なり。およそこの四軍の利は、黄帝の四帝に勝ちし所以なり。」



【解説】

孫子曰く。「およそ軍の配置(処)と敵状の視察(相)について、山を越(絶)える際は谷に沿(衣)いながら進み、視界が開(生)けた高い場所に布陣(処)し、高い場所から低い場所へ降りながら戦い、低い場所から登りながら戦ってはならない。これが山間部における軍の要諦である。

川(水)を渡(絶)れば必ず川(水)から遠ざかり、敵(客)が川(水)を渡り攻めて来るならば、敵が川(水)を渡りきる前(内)に迎え撃ってはならず、敵の半数が渡り切った(済)のを見て攻撃するのが有利である。戦いを望む(欲)ならば、川(水)に入(附)りながら敵(客)を向かい撃(迎)ってはならない。視界が開(生)けた高い場所に布陣し、川下で水流に逆(迎)らいながら戦ってはならない。これが川辺(水上)における軍の要諦である。

湿地(斥沢)を越(絶)えたなら、ただ速(亟)やかに去る事を心がけ、留まってはならない。もし、軍が湿地(斥沢)で交戦する他ないなら、飲料水と飼料となる草を確保(衣)し樹木(衆樹)を背にして戦わねばならない。これが湿地(斥沢)における軍の要諦である。平地(陸)ならば、平(易)らな場所に布陣し、高地を右背後にする。前方に低い土地が広がり(死)、後方に高地がある(生)のが望ましい。これが平地(陸)における軍の要諦である。およそ、この4つの軍の要諦(利)が、黄帝が四帝に勝てた所以である。」






ここでは、孫子は軍の配置を決めるにあたって敵状を良く把握しておく事をとしながら、地形ごとの軍の要諦を4つ紹介している。なお、最初に「敵を相る」という聞きなれない言葉があるが、相とは木を目で見ると書く事から、良く調べるという意味を持つ。したがって、「敵を相る」とは敵を良く調べるという意味だ。




その1、山間部における軍の要諦




中国の山はこういう山だとすれば、谷沿いを進まざるを得ないようにも見える。そして、敵は山の上からは大軍による攻撃はできないし、下からはもっとしづらいのだから、谷沿いに進めばある程度の安全が確保されるとも言える。そして、敵の姿を見て何処にいるか確認しないと戦えないのだから、視界良好な高い場所に布陣し、敵を迎え撃つのが山間部における要諦なのは自然な話だろう。

ただ、今はミサイルがあるため、視界良好な場所にまとまると数分後にミサイルの的となるかも知れない。また、「生を視て」という部分がとても分かりづらいが、視界が死ぬの逆と思えば良いのでは無いだろうか?




その2、川辺における軍の要諦




日本でも県の境が川であったりするが、国と国との境もこういう川になる事がある。そのため、川の両岸にお互いが布陣しあう事があり、その時の注意点を孫子が指摘している。ここで問題となるのは、水に足を取られるという事だろう。プールや海に言った時を想像して欲しい。水のなかではスローモーションになったように感じないだろうか?孫子はそれが戦争の邪魔になると指摘している。水嵩が胸まであれば何もできず、腰までなら上半身しか使えない。膝下まででも足を取られるだろう。

ならば、自軍は川を越えたら速やかに川から遠ざかり、敵軍が川を渡ってきたところを撃つのは自然な話だ。水で動きが遅くなるのなら、自軍は水には触らず、敵に一方的に水に触らせる。こう考えて見れば、敵が川を渡りきるまで攻めてはいけない理由も合点がいくだろう。そして、敵が水によるデメリットを最大限受けるポイントが、敵の半数が渡り切った時だと孫子は言う。

考えるに、恐らく逃げられないからでは無いだろうか?川を渡り切った敵から順次倒すというやり方もありそうだが、それでは他の敵が川を引き返して逃げてしまう。相手を一網打尽にするならば、敵の半数が渡り切って、逃げようにも逃げづらいくらい罠にかかった時にというニュアンスかと思われる。川を渡ってきた敵も引き返そうにも、川には味方が沢山いて引き返せないし、川を渡っている途中の敵は動きが遅くなっているのだから、弓兵の良い的である。

水流に逆らうように戦ってはいけないのも同じ理由で、水流に逆らうと物凄く不利となる。敵より川上に布陣し、川下にまわらない事が大切なのは当然の話となる。




その3、湿地における軍の要諦




孫子は湿地には留まってはいけないと指摘しているが、当然だろう。こういう場所で問題となるのが壊疽である。水にぬれた状態が長く続くため、兵の足が指から壊疽し始め、兵が使い物にならなくなる。留まっている場合じゃない。

それでも戦う他ないのなら、条件は敵も同じである。まずは飲料水と馬の飼料となる草を手に入れ、少しでも良い足場を確保するために樹木の根を利用する。恐らくだが、草や樹木の根を直に踏みながら戦うのでは無いだろうか?湿地はぬかるんでいるため、足を取られる。ともすると、落とし穴に落ちるように足がはまる事もあるため、それを防ぐために草や木の根を踏む。このイメージは田んぼで、もし稲くらい強く根をはっているなら、根の部分を踏めば足を取られることは少ない。そういった事を言っている気がする。また、樹木を背にするのは、逃げ道と言う意味もあるだろう。




4、平地における軍の要諦




平地では平らな場所を選んで布陣するのは良いとして、なだらかとはしても、敵に傾斜上の不利益を被らせるという発想は流石である。「前面に死、後面に生」の死と生をどう解釈するかで意味が変わってくるため、2つほど解釈を紹介しておく。

一つは低地は不利を死と言っているという解釈である。平地であるため、なだらかかも知れないが、出来る限り傾斜上も有利なポジションをとる。もう一つは、右背後に高地を逃げ道としてみて生、前面には平ではなく荒地を用意したとして死である。恐らくこの辺を総合して解釈するのが良いのでは無いだろうか?




仕事で考えて見よう。お釈迦様は人をみて法と説けと言われ、誰にでも分かるように説明できる者が知恵者であると唱えたが、孫子が地形によって軍の要諦を分けているのと被らせて把握しておきたい

今もそうかも知れないが、昔は難しく言えるほど知恵者と言われ、簡単な事を難しく言うと有難くなるという風潮があった。誰にでも分かるようでは、有難い事が無いというわけだ。この良し悪しは人によるが、商売をする者にとって此れは致命的な欠点となりえる。

最近はニーズが多用化している。例えば、昔は人気の曲と言えば、誰でも同じ曲を思い描いたが、今はみんなスマホやらで好きな曲を聞いているだけになっているため、人気曲と言っても共通のものがない。昔はヒット曲が時代を象徴したのだが、今は時代を象徴する曲はなくなってしまってるのだ。

こういったニーズが多様化し、みんな個別に好きな事をする時代にあって、難しいから有難いと言っていると極めて狭い領域でしか受けない。今こそ、人を見て法を説く事が大切なのである。商品へのニーズが多様化したとは言え、自社の製品の魅力が伝わっていないからこそ買ってもらえないのだ。ならば、この客層にはこう、この客層にはこうと、孫子の如く営業の要諦も多用化してはどうだろう?そして、勝つべくして勝つ事を狙いたい。


2017年10月21日土曜日

孫子の兵法 九変編その5

5、必死は殺され、必生は虜にさる

孫子曰く。「故に将に五危有り。必死は殺さるべきなり、必生は虜にさるべきなり、忿速は侮らるべきなり、廉潔は辱しめらるべきなり、愛民は煩さるべきなり。およそこの五者は将の過ちなり、兵を用うるの災いなり。軍を覆し将を殺すは必ず五危を以ってす。察せざるべからず。」



【解説】

(実際に抑止力を備えたとして)

孫子曰く。「そこで、将が陥る五つの危険が有る。必死になる者は殺され、必ず生きようとする者は捕虜にされ、短期(忿速)な者は侮辱され、清廉潔白な者は辱めを受け、民を愛する者は民によって煩わされる。およそこの五者が将の犯す過ちであり、兵を用いる際の妨げ(災)となる。軍が壊滅(覆)し、将が殺されるとすれば、必ずこの五つの危険からである。良く察するように。」






前回は抑止力の大切さを孫子は唱えていたが、今回は抑止力は実際に備えたとして、その運用面の問題を指摘していると思えば良い。どんなに高い防御力を誇る城であっても、実際に守りを指揮するのは将軍である。将軍が愚将であれば、勝てる戦も勝てないのだから、将軍の犯す過ちを人間性に焦点をあて紹介している。およそ軍が瓦解し、将が殺される時は以下5つの要素が絡むのだから、しっかり押さえて欲しいと孫子は言っている。



1、必死は殺される

必死になり、全体の流れを見えなくなった様を言っているのだろう。敵を目がけ諸突猛進だけでは、おおよそ戦には勝てない。戦争は勝つべくして勝つものであり、勝敗を決するのは知恵の差である。全体の動きを見て勝てるタイミングを計り、撤退すべきなら撤退する。このバランス感覚に乏しく、命がけでやれば勝てると思っている将軍では殺されるというイメージとなる。



2、必ず生きようとすれば捕虜になる

例えば、攻めろと号令をかけた将軍が、真っ先に逃げ始めた場面をイメージして欲しい。将軍が逃げているのに兵だけが戦う訳はない。兵も一緒になって逃げ出す落ちとなり、将軍は捕まって捕虜になってしまう。

死にたくないという気持ちは、人間だれしも持っている自然な感情だ。それ自体は責められる事ではない。だが、それが強すぎると攻撃自体できなくなるし、結果としてチャンスを逃す羽目にもなる。戦では心の調和が大切なのだ。



3、短気な者は侮辱される

短気な者は、相手の挑発にすぐのってしまう。馬鹿にされようものなら、言わせておけばと出ていく。短期な者は行動が読みやすいため、そこを罠で絡めとられやすい。戦争は騙し合いから始まるのだから、短気は損気なのである。具体的には、城という鉄壁の防御があるのに、挑発されたら城をでて向い撃ちにでかけるようでは、城に防壁がある意味がないというイメージだ。そんな将軍では勝てるものも勝てないだろう。



4、清廉潔白な者は辱めを受ける

清廉潔白にこだわる者というニュアンスだろう。清廉潔白にこだわりすぎると、例えばデマによって名前を貶されると怒り心頭になる。それでは敵の挑発にのって痛い目を見る事になる。清廉潔白と言う日本的には褒められた美徳も、ともすると付け入る隙となる事を知っておきたい。



5、民を愛する者は民により煩わされる

君子は民の存在あってこそ君子なのだから、君子にとって民は大切なものである。民の扱い方一つで国が栄え荒廃する。だが、民を大事にしすぎるのも問題がある。政治一つとっても全員を助けるという事は出来ない。必ず国民同士でも利害が対立するのだから、批判があるたび右往左往しては実務はできないのである。政治は妥協なのだ。

ここ数年の国内外の選挙を見ると、世界中でポッピュリズム批判が盛んに叫ばれたが、ポピュリズムも愛民に煩わされると言えるかも知れない。ポピュリズムという言葉は、大手マスコミで使われるエリート主義の意味では無く、弱者のための政治と言う意味が本来である。そのため、ポピュリズム批判には猛々しい部分もある。

実際、ポピュリズムの何がいけないのか?今、アメリカやヨーロッパでは移民問題で世論が二分されているが、これはポピュリズムの何がいけないのか?と言う人と、ポピュリズムはいけないという人が争っているのである。

そして、この話を戦争の道具として見るのが孫子の兵法である。大抵はポピュリズム批判をする側はお金持ちであり、それに反対するのは庶民である。庶民の意見を採用すれば、お金持ちはいらだちを隠せないが、お金持ちの意見を採用してばかりでは、大多数の庶民の支持を失う。ここが付け入る隙なのである。

例えば、相手の国を乱したければ、貧富の差を拡大させるよう仕向ける。貧富の差が拡大すれば、当然庶民の所得は減り鬱憤もたまるようになっていく。自国のみで物事が完結するならば、力で庶民を抑え込むことも出来るだろう。だが、外国が絡むとそう簡単では無い。つまり、外国が武器やお金を、鬱憤のたまっている庶民に渡したらどうだろう?こうして内乱が扇動される。内乱が起きた時に、外国も一緒に攻めてくれば労せず国を亡ぼす事もできるのだ。

逆も然りである。例えば、庶民の気持を満たすために、ばら撒き政策を推進させるよう仕向ける。ばら撒くと言っても財源が必要だ。では、何処を財源にするか言えば、無い袖は振れないのだから、結局はお金持ちから税金を取るという方向になる。そうすると、お金持ちと庶民の間に溝が出来る事になって行く。何故、自分たちが蓄えた財産を取られねばならないと鬱憤がたまり、庶民にその鬱憤の矛先が向き、庶民が嫌いなお金持ちが増えるのだ。

そして、財産を取られるくらいならと、外国に資産を逃がすのである。国の財産が外国に逃げてしまうのだから、これは国力の衰退を意味する。庶民の気持を満たすために、所謂ポピュリズム政策ばかりすると、国力はやはり衰退するのだ。資産のほとんどを所有するお金もちに、その資産を外国に逃がされてはたまったものでは無い。民主主義の必然とは言え、所謂ポピュリズム政策に偏ると不味いのである。

こう考えてみれば、スイス金融の情報開示から始まったタックスヘイブンへの規制の理由が分かる気がしないか?お金持ちは個人の利益のために資産を逃がすだけであっても、これに外国が絡めば、国力の衰退を計る工作にもなる。こういう駆け引きもあるのだ。

君子の話になってしまったが、将軍でも同じ事である。少数を助けるために、多数を犠牲にするようなことがあってはならない。バランスを見て、調和を重んじるようにという教えとなる。



仕事で考えて見よう。今回は五危と言う事で、こだわりが自分の首を絞める事もあるという話を紹介しよう。こだわりと言う言葉は良い意味で使われる。例えば、こだわりカレーと言われれば一度は食べてみたくもなる。しかし、リピーターが出来るかは別の問題だし、一度は食べてくれても常連になってくれるかは分からない。そして、例えリピーターが出来ても、人が欲する味も変わっていくものである。

例えば、今でこそマグロと言えばトロだが、昔は赤身だった。食事が欧米化したため、マグロと言えばトロのイメージがついたが、これを昭和初期の人間が想像できただろうか?当時の日本人は、トロは脂っこくて食べれないと捨てていた。時代によって人の求める味は変わるのである。それなのに、一度当たった料理を、俺のこだわりだと言って固持したらどうだろう?売れてるなら結構な事だが、売れなくなっても言い張るようでは、店はつぶれるてしまう。こだわりも良し悪しなのだ。

では、どうしたら良いか?勿論、こだわらない事だ。例えば、こだわりのカレーをだす店では無く、こだわった料理を出す店と考えれば、カレーが売れなくなったら他の料理を考えるだろう。靴屋で考えれば、靴屋ではなく自分は商売人と考える。商売人が今は靴を売っていると思えば良いし、自分は商売人だから儲かれば何でも売りますよと考えていれば良い。ちょっとした感覚の差だが、これが後々効いてくるので参考にして欲しい。

これからAI化が進み、企業の寿命も10年前後と短くなっていくと見られている。その中で、どうやったら生き残れるか?それはフットワーク軽く色々なものを売るしかない。あそこの会社は昔は電機屋だったけど、今は健康食品売ってるんだねと、今はコンサルタントに特化してるんだねと、そう言われるように精進するほか無いだろう。こだわりは時には身を助け、時には身を亡ぼす。すべてはバランスの中にある事を再確認したい。


2017年10月19日木曜日

孫子の兵法 九変編その4

4、吾の以って待つ有ることを恃む

孫子曰く。「故に兵を用うるの法、その来たらざるを恃むことなく、吾の以って待つ有ることを恃むなり。その攻めざるを恃むことなく、吾が攻むべからざる所有るを恃むなり。」



【解説】

孫子曰く。「故に用兵では、敵が来ない事に期待(恃む)するのではなく、敵がいつ来ても良い備え(待つ有る)をする(恃む)。敵の攻撃が無い事に期待(恃む)するのではなく、敵が攻撃できないような態勢(攻むべからざる所)を整える(恃む)。」






核による抑止力を考えて見よう。実際どうかはさておき、核保有国同士の戦争は被害が大きすぎるため、戦争にならないと言われているだろう。戦争をして、戦争する前より貧しくなるのでは命を懸けた甲斐が無い。およそ全ての人はそう考えるために、戦争したくないなら、核による抑止力を働かせるのが一番効果的と考えられてきた。そして、この理由から色々な国が核の保有を競ってきたし、これから日本で核保有の議論が再燃しそうなのである。

孫子が言っている内容も、これと同じである。敵が攻めてくるか悩むなら、敵が攻めて来れない状況を作ってしまったほうが良い。ただ、それでも攻めて来て、攻撃を仕掛けるかも知れない。それならば、敵が攻撃を仕掛けられない状況を作っておくのが良いわけだ。文字通り、備えあれば憂い無しである。

そして、これが守りだけでなく、外交上も有利に働く事も知っておきたい。外交で強くでるには、軍事力が大切である。外交上の基本言語は2つしかなく、一つはお金、もう一つは軍事力である。国ごとに文化や常識が異なるため、その中で会話するとなると、お金と軍事力しか現実の交渉の手段は無いのだ。

相手の国より軍事力が勝ると、相手は戦争になったら困ると考えるため、自然と劣位に立つ。例えば、そこをお金という利で釣っていくのである。戦っては負ける相手がお金をくれるとなれば、しょうがいと妥協したくなるのが人情であろう。このように、抑止力は交渉力を担保するのである。孫子は希望的観測を捨て、現実に対応する大切さを説いているが、実はそれが外交力にもつながる。外交力につながれば、戦わずして勝ち安くもなるのである。防御と外交力の両面から抑えて欲しい。

仕事で考えて見よう。寝る前に、明日する事をイメージしておくと良いという話がある。寝る前に明日する事を予習し、ここも大事なポイントだが、良いイメージを作ってから寝る。その日になって何したら良いか考えるくらいなら、寝る前に準備をしておく。こういう一手間が差になったりするものである。

また、午前中は結果出す時間帯で、午後は明日の準備をする時間帯という話がある。午前中は頭の動きが良いとされる時間帯だ。その時にしっかり結果を出し上司の機嫌を取る。では、午後は何をするかと言うと、明日結果を出す準備をするのである。職種によっては、午後に結果がでないと怒られるだろう。だが、すいませんと謝りながら、明日の準備をしておくのである。そういうズル賢さを身に着けると、結果がコンスタントにでるようになり、信頼される人材になるだろう。

2017年10月18日水曜日

孫子の兵法 九変編その3

3、智者の慮は必ず利害に雑う。

孫子曰く。「この故に、智者の慮は必ず利害に雑う。利に雑えて、而して務め信ぶべきなり。害に雑えて、而して患い解くべきなり。この故に、諸侯を屈するものは害を以ってし、諸侯を役するものは業を以ってし、諸侯を趨らすものは利を以ってす。」



【解説】

(臨機応変に対応するとすれば)

孫子曰く。「故に、智者の思慮には必ず利と害が混在(雑)する。利を考える時は害も合わせて考える(雑)ため、当然のように(而して)物事(務め)が上手くいく(信)。害を考える時は利も合わせて考える(雑)から、当然のように(而して)不安(患)が解かれる。この故に、諸外国(諸侯)を屈服させる時は害を強調し、諸外国(諸侯)を使役しようと思えば仕事(業)をつくり、諸外国(諸侯)を奔走(趨)させるには利を強調する。






買い物を想像して欲しい。あれを買ったら、これは買えない。これを買ったら、あれは買えない。どっちを買おうか悩む事がないだろうか?実はこれが孫子が言っている事のイメージである。一方を手に入れるという利は、一方が手に入らないという害ともなる。利害は混在するという訳だ。このイメージを、買い物以外でも当てはまるよう一般化したのが孫子である。以下、これを踏まえて読んで欲しい。

さて、一長一短という言葉の示す通り、良い所ばかりのものもなければ、悪い所ばかりのものもない。どんなものも良い所もあれば、悪い処もある。ならば、両面から物事を捉える事ができるのが智者であると、孫子は説く。

そして、物事を両面から捉えられると、例えば、将来に見込める利益だけでなく、将来に被るであろう損害も同時に考えられる。そのため、将来に損害を被ったとしても、予め想定していたのだから慌てる事は無いし、例え想定外だったとしても、損害だけを被るという事もないのだから、必ず得られた利益を探し出し不安を解消できる。一長一短という言葉を、例え悪いと感じても、必ずや良い処もあると解釈できるのが智者だと、孫子は言うのである。

また、何かをする時、利益ばかり考えたらどうなるだろうか?例えば、博打をする金を借金で賄う人を考えて見よう。彼らは博打で儲ければ良いとお金を借りるのだが、もし博打で負けたらどうなるかは考えていない。博打が必ず勝てるなら博打と言わないわけで、博打は勝てないからこその博打である。大抵は借りた金をすって終わるのが世の常であろう。そして、借金取りに追われ、家まで取られたという例がごまんとあるわけだ。

もし、彼らが金を借りる時に、借金取りに追われる姿を強く想定していたらどうだろう?恐らく自分の身の丈にあった遊び方をしたに違いない。だから、結果として大失敗する事はなく、裏返すと、物事が上手くいくとも言えるのだ。



その1、諸外国を屈服させるには害を強調

最近の例で言えば、例えば、北朝鮮へのアメリカの対話と圧力と言う姿勢も害を強調している。対話に応じなければ、分かってますよね?と迫る事で、相手に害を強く意識させているのだ。ポーカーの国らしい極めて効果的なやり方である。ポーカーでは、相手に降りろとハッタリを嚙ますだろう?ハッタリかどうかわからないからこそ、相手は降りるのだ。

諸外国への中国からの援助もそうである。いう事聞かないなら、借金を返してもらえませんか?と迫るわけだ。最近はベネズエラに、ドル決済を止めて人民元決済に移るよう求めている様子だが、これは借金という害を強調しながらベネズエラに屈服を迫ってるとも言える。



その2、諸外国を使役するには仕事を与える

ここ数年は日本で観光立国という言葉が叫ばれ、駅などの公共機関のアナウンスに英語以外の外国語も加えられているが、これも実は孫子の兵法どおりの展開とも言える。観光客として外国人が多く訪れるようになると、その観光客で商売しようと日本では商売が盛り上がる。これが孫子の言う仕事を与えるという事だ。外国からすれば、自国の民を日本に旅行させることで、日本に仕事を与えている。

しかし、外国人客を見込んで大きく設備投資などをしてしまうと、大きな問題を将来に抱える事になる。例えば、突然、外国人が来なくなったらどうだろう?設備投資をするために、銀行からお金をたくさん借りたのに、その返す当てがなくなってしまう。そうすると、企業を潰さないために、外国に強い交渉が日本から出来なくなるのである。怒らせて渡航禁止にされては観光産業が潰れてしまうからだ。こうなると、観光産業に外国の政府の意向を反映するようになり、つまり、日本の観光産業が外国に使役されたと言える。これを孫子は「諸侯を役するのは業を以ってし」と言っているのである。日本はこういう危機感も持たねばならないだろう。



その3、諸外国を奔走させるには利を強調

例えば、数年前のインドネシアの新幹線受注の話を考えて見よう。結果としては、日本が中国に敗れたわけだが、では実際にインドネシアで新幹線の工事が行われているかと言えば、行われていない。驚いた現実であるが、そもそも何故日本は敗れたのだろう?

それは、日本が数億円もかけて実地調査をしたデータが、賄賂によって中国へ横流しされていたからだ。そして、そのデータを基に中国が話を進めたため、実現性はともかく日本より良い話を提供する事ができた。しかし、これは表面的な理由で、実際は一重に賄賂の問題だろう。東南アジア諸国での取引では、例えば大統領が「で、俺に幾らくれるのか?」と聞いてくるらしい。それを中国は良く知っているため、たんまり賄賂を食わせたわけだ。

日本の常識からすれば、工事を受注しときながら、出来ませんは詐欺にあたるわけだが、何故かそれがインドネシアでは通ってしまっている。中国はインドネシアを利によって奔走させたとも言えるわけだ。勿論、インドネシア側も騙されたわけでは無く、国際情勢における中国と日本の立ち位置を鏡みて、中国に従うべきと判断したのだろう。さらに言えば、騙すことは悪いと感じている日本人が等身大で勝負し、ハッタリでも相手には大きく見せる中国文化に一本とられたと言えるかも知れない。孫子が言うように、物事は如何様にも解釈できるのである。




さて、仕事で考えて見よう。物事は両面から捉えるとはどういう事だろうか?例えば、上司に怒られたとしよう。怒られて嫌という気持ちは分からないでもない。普通はそうだろう。ただ、考えて欲しい事があるのだ。それは、怒られているという事は、まだ目をかけてもらっているという事ではないか?という事だ。目を掛けなくなったら、人は無視するもの。それが、上司はまだ怒っているでは無いか?それに気づけた時、嫌な気持ちは消える。「まだ怒ってくれるのか、有難い」と言える者は、気に入られるしストレスもない。まさに知恵者なのである。

これを孫子は言っている。害があれば、利もあるもの。どちらを見るかで、物事は見え方が変わる。愚者は害のみを意識し、知恵者は利を見て心の不安を取り除く。



2017年10月17日火曜日

孫子の兵法 九変編その2

2、九変の術を知らざる者は・・・。

孫子曰く。「故に将、九変の利に通ずれば、兵を用うるを知る。将、九変の利に通ぜざれば、地形を知るといえども、地の利を得ること能わず。兵を治めて九変の術を知らざれば、五利を知るといえども、人の用を得ること能わず。」



【解説】

孫子曰く。「故に、将が九変の利に通じているならば、兵を用いることが出来よう。逆に、将が九変の利を知らないなら、地形を良く知っていたとしても、地の利を得ることは出来ない。兵を統率(治)すれども臨機応変(九変の術)を知らないなら、五利を知るとも、兵卒の十分な働き(人の用)を得られない。」






九変の利は前回紹介した、沼地には陣は張らない、敵地深くには長く留まらない等の用兵の基本の事である。用兵のマニュアルと言っても良いだろう。つまり、孫子はマニュアルくらいは頭に入れて置けと言っている。こう考えて見れば、よくある話になっただろう。

そして、マニュアルと言う言葉につきものなのが、マニュアル人間という言葉だろう。いつもマニュアル通りにしかできなく、少しでもマニュアルから外れると途端に何もできなくなる。少しは自分で考えろと怒られるのは、新人ではよくある風景である。この事にも孫子は触れているのだ。以下、意訳を見て理解して欲しい。

孫子曰く。「マニュアルを知り、初めて兵を統率する資格がある。マニュアルすら知らぬ者では、地の利が何かすら分かるまい。地形の特性がどう有利に働くかも知らぬ者が、地形を知っていたとして何の役に立とうか。ただ、マニュアルはあくまでマニュアルだ。マニュアルを知っているだけでは、実際は対応出来ない事も多い。その時々、臨機応変に自分で考えられて初めて、兵の力を十分に発揮できると知れ。」

なお、孫子の言う五利は、前回紹介した後半の部分となる。通ってはいけない道、攻撃してはいけない敵、攻めてはならない城、奪ってはならない土地、受けてはならない君命の五つを言っている。この五利をふまえていようとも、臨機応変さが無いならば、兵は活用できないという話となる。

将棋の話を紹介しよう。最近は藤井四段の登場で、将棋をする人が増えたとも耳にする。良い事である。将棋で強くなりたかったら、どうしたら良いか?人によっては定跡を調べたりするだろう。勿論、強くなり方の王道だが、定跡には落とし穴もあるのを知っているだろうか?

定跡を調べるまでは気付かないのだが、調べた後に気づく事がある。それは実戦は全く定跡どおりに進まないという事だ。本に書いてある通りに相手は指してこない。有段者の方は経験があるだろう。誰しも通る道である。将棋で定跡を覚えても、定跡がそのまま使える事は少ない・・・。

孫子の言わんとする事は、つまりそう言う事である。九変、五利を知ろうとも、現場で自分で考えなければ全く役に立たない。九変、五利はあくまで目安なのだから、臨機応変に知恵を絞りなさいと言っているわけだ。

孫子の兵法 九変編

1、君命に受けざる所あり。

孫子曰く。「およそ兵を用いるの法は、将、命を君に受け、軍を合し衆を聚め、圮地には舎ることなく、衢地には交わり合し、絶地には留まることなく、囲地には則ち謀り、死地には則ち戦う。塗に由らざる所あり。軍に撃たざる所あり。城に攻めざる所あり。地に争わざる所あり。君命に受けざる所あり。」



【解説】

孫子曰く。「およそ戦争というものは、将が君主に命をうけ、軍を編制(合)し国民(衆)を集(聚)めるわけだが、沼地や森林などの進軍しにくい場所(圮地)には陣(舎)をはらず、様々な国が行き交う要所(衢地)では外交し、敵地深く進攻した地(絶地)に留まらず、敵に囲まれれば(囲地)謀で対応し、絶対絶命(死地)ならば勇戦する。

道(塗)には通ってはいけない道もあれば、軍には攻撃してはならない敵もいる。城には攻めてはいけない城もあれば、争って奪ってはいけない土地もある。君命とは言え、受けてはならない事もある。」






九変編という事で、まずは九編とは何かについて考えて見よう。九変は文字通り、九つに変化する状況の事を言い、孫子が戦争を大よそ9つに分けたと言う話である。だから結論を言ってしまうと、孫子は将たる者は状況に臨機応変に対応すべしと言っている。では、以下一つ一つ見ていく。



その1、森林や沼と言った進軍しづらい場所(圮地)

こういう場所では陣をはるような真似をしてはいけない。進軍しづらいのだから、攻撃しようにも速やかに攻撃できないし、攻撃されても逃げづらい。森林なれば火攻めの危険もあるし、沼地なら足を取られ弓の良い的となろう。およそ圮地に陣を張って良い事は無いのだ。



その2、様々な国が行き交う交通の要所(衢地)

二国間だけの問題なら、戦火を交えて奪うという選択肢も無いわけでは無いが、三か国以上の国が関わっている交通の要所ともなれば話はそう単純ではない。ある国に攻めた時に、他の国から攻められる事だって普通にあり得るのだ。様々な国の利害が交錯する場所では、外交にて利害を調整しなければならない。少なくとも他国が連合して攻めてくるような状況だけは、絶対に避けねばならないだろう。

およそ衢地では、戦火を交えられないのだから、選択肢は外交に限られる。ならば、外交で他国同士が離反するよう働きかけるのが上策となる。



その3、敵地に深く進攻した場合(絶地)

敵地に深く進攻した場合の、まず浮かぶ問題は補給である。軍は飯を食えている内は元気だが、飯が食えなくなると途端に士気が下がる。餓死するかも知れない不安の中、誰が強く戦えるだろうか?敵地に深く進攻すれば、その分長く伸びた補給路を狙われやすい。そのため、絶地に長くとどまるのは得策では無い。



その4、敵に囲まれた場合(囲地)

貴方が前後左右を囲まれたイメージして欲しい。貴方はどうするだろうか?孫子は、何か謀をし囲まれた状況に逃げ道を作れと言っている。敵と一言に言っても、新兵もいれば、古強者もいよう。防御の厚い場所もあれば、薄い場所もあるはず。そういった敵の状況を冷静に見て、防御網を突破できそうな場所を選び一点突破する。恐らくこういう事を謀と孫子は言ってるのでは無いだろうか?



その5、絶対絶命の場合(死地)

万策つきて絶対絶命と判断するなら、窮鼠とかし勇戦するしかない。降伏という手が無いわけでは無いが、降伏して助かるかは分からない。中国の歴史を見ると、降伏した敵兵を生き埋めにした例まであるのだ。それならば、窮鼠とかしたほうが命を拾うかも知れない。

死地にては、生より死を選んだほうが助かりやすい。こちらが絶対絶命と分かると同じく、敵も優勢または勝勢と認識している。言わば勝ち戦で命を落としたい者などいるわけもなく、そこを相手に強く反撃されると、命欲しさに逃げてしまうのが人情だ。これを武士道では、死ぬことと見つけたりと説明している。



その6、受けてはならない君命

孫子は勝利の条件に、君子が口出しをしない事をあげている。君子は将軍から見れば、軍事の素人である。その君子が口出しをすればどうなるか?およそ将軍が指揮をとったとは思えないミスをする事になる。軍事に関しては、将軍こそ第一人者なのだから、君命にも受けてはならないものはある。

将棋の話を紹介しよう。将棋で複数の棋士が合議によって将棋をさすイベントがあるが、彼らに言わせると、話し合うほど弱くなるのだそうだ。普通は話し合って指したほうが知恵が出て強くなると思うものだが、実際は手に一貫性がなくなり弱くなる。攻め好きな棋士が攻めれていたのに、守り好きの棋士が守ったほうが良いと言うので採用すれば、攻めとも守りとも、どっちともつかない中途半端な将棋になってしまう。結果として、勝率が下がる。プロの棋士同士でさえ弱くなるのに、素人の君子が口を出したらどうなるか?孫子が言わんとする事は、つまりそう言う事だろう。



このように状況に応じて、すべき事は変わってくる。そして、孫子はこう続けている。「通っていけない道もあろう。攻撃してはならない敵もあろう。攻めてはいけない城もあろう。奪ってはならない土地もあろう。受けてはならない君命もあろう。」この世に全く同じ状況など存在しないのだから、その時々の状況を自分の頭で考え、臨機応変に対応しなさいと。

仕事で考えて見よう。九変を今の言葉で言えば、要はTPOだ。髪形はいつも清潔に整っているか?服装はどうだ?靴は汚れていないか?そして、場に即しているか?一見当たり前の事だが、年を取るにつれ厚顔無恥になるもの。最初は頑張っていたけど、今ではとなるのが人間である。意識して直さなくてはならない。

と言うのも、人は見た目で判断されてしまうもの。自分は中身を見て欲しいと願っても、他人は外見でほぼ100%判断する。全身をブランド物で固めていれば、お金もってるんだなとか、社長さんかなと思うだろう?見た目が100%なのである。ただ、特に高い物を着込む必要は全くない。清潔感があれば良く、気を使ってる事が伝われば合格点である。

特に異性の評価では、これが顕著になる。例えば、イケメンだと何故か仕事ができるように見えるものなのだ。人間は結局好きか嫌いかなのだ。自分の好みだと、どうしても採点が甘くなる。中身を見て欲しいと思っても、人は中身はあまり見てくれない。それならば、見た目にこだわるのが得策と言うものだろう。

なお、ブランド物と言っても、新品もあれば中古もある。傷が少しついただけで、数十万の商品が数万になったりする。少しの傷なんて、遠目の他人は誰も気づかないわけで、傷があろうがなかろうが他人の評価は同じである。本当に新品にこだわる必要があるのだろうか?新品が良いと言うこだわりで、損している人が多い事にも触れて置く。