2024年6月30日日曜日

無門関 29則 覚書

 【非風非幡】





風に聞いてみては如何ですかな?




1、なぞかけ

非風非幡とかけまして、円満な結婚生活と解く。

その心は、半目くらいが調度良い。


非風非幡とかけまして、よく根付いた雑草と解く。

その心は、スパッと斬りたい。



2、不是風動、不是幡動、仁者心動。

(その1)

風が動くのではありません。

幡が動くのでもありません。

お二方の心が動きなのです。


(その2)

心動かすのは、思いやり(仁)のみ。



3、不是心動。

(その1)

心が動きだとすると、動きという観念に固定される。

動きを止めては、動きでなくなる。

心 = 動 


(その2)

本物の仁は無為自然である。



4、関連性という視点

風は幡が動かなければ、あるか分からない。風の動きを認識させるのは幡である。風が吹かねば、幡は動きを得られない。幡の動きは風によって認識される。ならば、風と幡は別々のものとして考えるより、同じものとして考えたほうが筋が良いのかも知れない。実際、風や幡という名前は便宜上つけたのであり、本来これが風であり、これを幡とするといった決まりは存在しない。区別をつけられないのだ。では、風と幡が同じものだとすると、世界に対する定義は全く変わってしまうが、それが本来の姿なのである。

実はこれと同じ事が自分と風、自分と幡にも言える。自分が認識しなければ風も幡も存在せず、風と幡が存在しなければ自分もまた存在できない。風と幡を認識しなければ、自分と他を分ける必要性がなく、自ずから分かれないのだ。自分と風と幡は互いに存在するための必要十分条件なのである。では、自分と風と幡を同じものとして捉えると何が動くのかとなると、強いて言えば内臓のようなもので、動いているはずだがその動きを意識することはないとなる。もし意識することがあるなら健康が損なわれた時と考えるなら、人間は錯覚という不治の病にかかっていると言える。



5、往復曾未契理

幡の動きは風によって生まれるとするのが通常の感覚だが、妄想を取り除くという意味では、風によって動かされるという部分は余計とも言える。何故なら、それが妄想そのものだから。だが、そう考えるなら幡が動くという感覚も余計となり、幡自体すらが妄想ともなる。では風に着目したほうが理に適うと考えると、風が動くとなる。しかし、風だけでは風の動きは分からない。分からないのでは妄想は取り除けても何もなくなってしまう。何もないでは納得いかないとなれば、やはり旗が動くとするべきかとなる。堂々めぐりである。



6、感想

冒頭に「因みに風刹幡を颺ぐ」とあるが、風が法を説くと解釈してみたい。生きるという事は、それ自体が禅問答というメッセージではなかろうか。また、実践的には、何事にも心を込めて生きればそれで良いので、その意味で六祖が心が動いてると指摘したとも考えてみたい。




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