2024年6月2日日曜日

無門関 41則 覚書

 【達磨安心】

過去心不可得 現在心不可得 未来心不可得

思い返してみると、19歳のころに自分でこの言葉に辿りついた経験がある。その時は心がどうにも落ち着かなくなり、その心をどうにかしようと真剣に考えた。紙に線を引いて、その線の上に過去現在未来と書いて検証した。過去には戻れないのだから過去の心がないのは良い、未来にも行けないのだから未来の心がないのも良い。問題は現在となったとき、今は思った瞬間に過去になっていると気づいた。今は無いのかという驚きとともに、では無いはずの心で何故悩んでいるのだと思った瞬間、落ち着かなかった心が平常にもどった。初祖達磨と2祖慧可のやり取りを見ていると、まるで19歳の自分の辿った道そのものである。金剛経という言葉すら知らなかった当時の自分が、金剛経の言葉に辿り着き安心を得ていたのだから、こうして無門関に興味をもったのも機縁なのだろう。



過去心 = 0 and  現在心 = 過去心 



無我

過去がなく、現在がなく、未来がない。言い換えれば、時間がない。時間がないなら、自分がないのは当然であり、自分がないならば今自分だと思っている当体は錯覚という事になる。では本当に自分がないのかとなるが、自分がないという事がないなら今目の前にあるのが自分という事になる。それも認識以前の世界でなくてはならない。そんなことを考えていたら、ある時、風景が静止画に見えた。これも魔境の一種なのだろう。だが、それとともに、何故か今までやってきた事がすべて無駄だったと思うようになった。どうも余計な事をしていただけのようだ。そして、禅に対して言葉がだせなくなった。言葉が痞えるような感じなのである。これを唖子が夢を見るが如くと言うのではなかろうか。






「すべって良し 転んでも良し 不二の山」

ちなみに、上記経験をしたのは目黒川という川のほとりである。名前が一緒という事で、目黒絶海老子の言葉を思い出した。「すべっても ころんでも登れ 富士の山」と。これは「すべっても ころんでも登れ 不二の山」なのだろうと思ったりする。





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