【即心即仏】
1、経験値:1年~3年の場合
何をするかは重要ではない。何をしても同じであるから。そういう感覚を得ると、選り好みが強く抑制され、自然と感謝できるようにもなる。目の前にある景色がこの上ない宝のように思え、雑草すらが美しく見える。これが無心に気づいてから徐々に形成された実感である。この感覚は体感的に悪いものでは無いため、以前はこの感覚で即心即仏を解釈していた。無心ゆえに言葉にすれば口をすすぎ、即身即仏と聞いた途端に逃げ出すのかな、と。
2、経験値:4年~5年の場合
以前の感覚がなくなったわけではないが、新たに加わった感覚がある。それは、すべて無駄だったという感覚だ。世界が静止画に見えて以来、何故かそういう視点を得て、言葉がでなくなった。そして、仏と口にしただけで三日も口を洗い清めるのが分かった。気持ち悪くて仕方ないのだろう。即身即仏と説くのを聞いただけで耳を塞いで逃げるのは、ここにいたら騙されると言えば良いか、体験的には恥をかいたと言えば良いか、とりあえず状況が悪そうだから撤退という感じだろうか。気持ち悪いの延長かも知れない。
3、如何是仏
僧 「仏とは如何なるものでしょうか?」
自分 「一を得る。」
僧 「仏とは如何なるものでしょうか?」
自分 「息がつまって困る。」
4、即心即仏の解釈
以前は心を迷い、仏を無心と捉え、その切り替わりが即であると解釈していた。即にはぴったりという意味と、直ちにという意味があるが、ニュアンスとしては直ちにというイメージが強かったように思う。このイメージは欲を抑制するという意味では大変な効果があったが、人間を迷いと仏に分けて捉える試み自体が分別そのものであるため、仏とは違うのだろう。ただ、違かろうがその効果には相当のものがあるため、状態が良いものはそのままにしておけば良いと考えていた。
今はすべてが仏であって、仏が認識されると心と呼ばれるというイメージのほうが理に適うと思っている。心と仏を隔てるものは認識のみであるから、心が仏の別名となるのは当然である。その意味で、即の意味もぴったりというイメージのほうが強くなった。あえてプロセスで説明すれば、まず仏があって遅れて認識による錯覚が起きているのが人間という事である。しかも、この錯覚を真実だと思いこんでしまうため、自分が仏そのものであることだけは認識できない。ここが難所である。
5、抱臟叫屈
故至与三頓棒。
6、感想
若能直下領略得去、掩耳便走。 ⇔ 驀直去。
文章の間を省いて最初と最後だけにすると、次則のテーマになる気がする。
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