2024年6月23日日曜日

無門関 28則 覚書

 【久響竜潭】

無心の存在に目がいかなかったとき、空がどうと理屈で説明していただろう。それではいけないと聞いていても、それ以外に方法もなかったように思う。無心の存在にきづいてからは、無心になることを結果的にではなく、目的と考えるのがコツと説明していた。無心になる事自体が目的ならば、何をやっても無心になる事は避けられないため、何をやっても同じになる、と。そして、それすら無駄だったと思うこの頃は、経文は紙っぺらとなり、天地自然だけとなった。






薫風に 潭の在処を 見て取れば

久しく響く 竜の吹




1、空の説明の変遷(経験値4年~5年)

最初は有るようで無く、無いようで有るという性質を表す言葉で、調度目の前にある空気のようなものと説明していた。空気は空の気だから空気と名付けたのではないか、と。無心を意識するようになってからは、無心の状態が空だと説明した。そして、それすら余計な仕業だったと思うこの頃は、言おうとすると言葉が出ずただただ止まってしまう。不識である。



2、目的地が無心とは?

例えば、馬と徒歩を比べてどちらが速いかと問われれば、馬と答えるのが通常の感覚である。だが、それは目的地がどこか遠方の場合である。では、目的地が無心だとどうなるかと言えば、馬も徒歩も50歩100歩で同じと言って差し支えない。馬に乗りながら無心になるか、歩きながら無心になるかの違いはあれど、速やかに無心になっている事には変わりないのだから。例えば、遊びと仕事どちらが好きかと言えば、遊びと答えるのが通常の感覚である。だが、それは遊びと仕事を分けて考えているからである。無心、言い換えれば時間が飛ぶ感覚を目的地とするならば、遊びながら時間が飛ぶか、仕事に集中して時間が飛ぶかの違いはあれど、どちらでも時間が飛ぶことには変わりない。遊びでなくてはならない、仕事でなくてはならないと言う差はないのである。馬、徒歩、遊び、仕事と一見違う現象が、目的地が無心となればどれも同じになる。ここを抑えるのがコツである。

もし、ここが腑に落ちたならば、次はこう考えると良い。今まで馬に乗っている最中に無心になったと捉えていたが、その実は逆で無心が馬と言う形で現れたのではないか、と。無心に仕事をしたと思っていたが、実際は無心が仕事という形で現れただけなのではないか、と。



3、垂示

人生では誰しも一役演じなければならないとしても、

和尚よ、少々芝居がかり過ぎではありませんか?

いや、どうせなら大げさに演じて見せますか?

こう派手に決められては、

主人公は誰などと聞くのは野暮ですかな。

其処退、其処退、お馬が通るぞ。



4、修行川柳

その荷物 降ろせ降ろせと 言うなかれ

降ろしたいのよ 降ろせないのよ  



5、感想

「夜も更けた。そろそろ山を下りたらどうかね」という冒頭の言葉は、若かりし徳山に「仏法は無我の一字だろ」と言っているようで味がある。そこで徳山がその言葉を珍しく重くみてと続くが、ここを珍重して見られるようになったのは4年目に入ってからである。簾は錯覚の象徴、暗闇は徳山の心境と老子の言うところの玄を示すと観念で説明したくなるが、ここは前後裁断の感覚を綺麗に表現していると見たほうが実践的かと思う。ここでも気づかなかった徳山は明かりとなる火を求めるが、紙燭を受け取ろうとしたその動きこそ無心の用であり、茶屋の婆子の点心そのものである。また、そこに思考を挟む余地を与えずに火を消したも見どころで、そのために再度前後裁断を味わったと見たい。徳山に省があったのはたまたまだろう。火を消せば省を引き出せるなら苦労はない。



6、点心とは何か?

人間は認識するまでにコンマ3秒かかっている。これは人間が生きていると感じている世界はコンマ3秒遅れの世界であること意味し、この錯覚を意識できないまま生きているのが通例である。茶屋の婆子の質問にあった点心は、この錯覚を修正できますかという問いかけであり、コンマ3秒という認識による誤差を修正して見せてほしいと言っている事になる。



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