2024年6月15日土曜日

無門関 27則 覚書

 【不是心仏】

バベルの塔 = 言葉の塔

聖書にバベルの塔という話があるが、これは敬虔なキリスト者の辿るであろう道を物語に仕立てたのだろう。人はまず言葉によって神に近づこうとする。書物をひらき、だれかの話を聞き、神に近づこうと一生懸命に理論武装していく。この様がバベルの塔である。そうしてある時、神に出会うときが来る。すると今までの理論武装はすべて無駄だったと理解するのだ。これが塔の消滅である。そのあと神について論じている人たちを見ると、まるで言葉が通じなくなってしまったかの様にあべこべなのである。





【結論】

近づこうとすると遠ざかるが、

何もしなければ共にある。



感覚は他人に伝えられない。

例えば、痛みを他人に伝えようとして見ると良い。痛いことは伝えられても、その感覚は言葉にすれば何処か違うものになってしまう。例えば、笑いはどうだろう。何が面白いかを説明してその面白さは伝わらないはず。仏教も同じである。もう十分教えは尽くされているにも拘わらず信じきるに至らないのは、それが自分の感覚ではなく言葉の解釈だからである。どんなに有難いものでも、言葉から確信に至るのは難しい。



説かれたことがない法 = お前さん

僧 「今までに説かれたことがない法とはどのようなものですか?」

自分「汝に三頓の棒を放す。」



へとへとに疲れると言う実感が肝か?

今までに説かれたことがない法を言おうとすると、言葉が出てこない。 言葉が出てこないところを無理に言葉にしようとすれば、息がつまるような感じでへとへとに疲れる。



不是心、不是仏、不是物。

是にはこれと言う意味と、正しいという意味があるが、ここに妙味がある。これが心と思うと正しくない。これが仏と思えば正しくない。これが物(衆生)と思えば正しくない。ただ是であれば正しい。





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