2020年1月2日木曜日

観音経 普門偈 その17

【原文】

悲体戒雷震 慈意妙大雲 澍甘露法雨 滅除煩悩炎



【和訳】

悲体の戒めは雷震のよう、慈意の妙は大雲のよう、甘露の法雨を澍ぎ、煩悩の炎を滅除する。



【解説】

煩脳を炎に例えるならば、観音様の慈悲は大雲から降り注ぐ雨のようであり、その効果は様々な病気をいやす甘露の霊薬のようである。さしずめ慈意の妙は大雲と言った所だが、ただ優しいだけではなく、悲体の戒めは雷震のような厳しさもある。要は観音様を雷雲の如しと例えているわけだが、観音様が煩悩を滅してくれるという話はこれまで何度も説明してきたので、今回は戒めと言う部分に焦点をしぼって説明する。

戒は、仏教徒が守るべき内面的な規範の事だ。その数は在家信者のための五戒から始まって、多くなると二百五十にもなる。その数の多さには驚くばかりだが、では、何故そんなに多くの戒が設けられているのかと言うと、当然必要だからで、戒を実践する事で初めて楽になるから戒がある。つまり、お経は戒の二面性を謳っていて、人を束縛する面をとらえ雷震と言い、人を楽にする面をとらえて甘露の霊薬と例えている。戒の厳しさについては、あれをやっていけない、これをやっていけないと束縛するわけだから、それをしっかり守るとなると厳しい事は良いだろう。例えば、飲酒一つとっても、飲酒は戒に反するからいけないと言われても、酒好きの人にとってはこんなつらい事は無い。だが、何故酒を飲まぬ事が人を楽にするかと言うと、人は酒の飲むと失敗しやすいからだろう。対人関係しかり、健康しかり、酒がもとで失敗する事は様々ある。失敗してしまえば覆水は盆に返らないのだから、ならば最初から飲まなければ良いと戒は言うわけだが、酒が飲みたい人にとっては、そうと分かっていても飲みたくなってしまう。飲むなと言う戒は、まるで雷様のように厳しいのである。だが、反面、酒を飲んではいけないという戒を守りさえすれば、失敗する事も無いのだから、楽になるとも言える。まさに甘露の霊薬のように効くのである。この意味で戒は観音様の慈悲そのものであり、観音様の慈悲は戒を守る事で初めて達成されるとお経は言うのである。

仏教徒の戒にかぎらず、世間には行動規範が色々ある。それは例えば礼儀と言われているかも知れない。礼儀も初心の頃は面倒に感じるものだ。なぜこんな事をしなければならないか、と。だが、そんな礼儀も慣れてくると別の感覚になる。逆に、礼儀こそが安心感を与えてくれるものになるのだ。ここに礼儀のもつ本当の意義がある。礼儀が無い世界を想像して欲しい。礼儀がないと一見自由に感じるかも知れないが、どうしたら相手に不敬と思われないかが分からなくなる。まさか出会う相手毎に喧嘩するわけにもいかないのに、どう接したら良いかが分からない。何をしても良いはずが、全てが手探りで何もできなくなるのだから、これでは不自由そのものである。この事に気づくと、実は堅苦しいはずの礼儀こそが、人を自由にしている事が分かるだろう。礼儀を守りさえすれば良いのだから、こんなに有難いものも無いわけだ。だからこそ、実社会でも淘汰される事なく発達してきたのだろう。戒もそう言う事だ。厳しいようであるが、慣れてくれば、それが安心感のもととなる。戒を守っていれば全ては穏便に済むのだから。なお、これは自分に対してだけでなく、他人に対しても言える。他人からすれば、戒を守っている人というのは一つの信用となる。安心して見ていられる。不安を与えようはずもない。




【語句の説明】

1、悲体は、観音様の体を意味し、体は慈悲の悲を司る。

2、慈意は、観音様の意(こころ)は慈を意味し、意は慈悲の慈を司る。

3、甘露は、古代インドで神々が飲んだとされる霊薬。良く効くという事。

4、法雨は、仏が衆生をあまねく救う事を、雨が地を潤す事に例えた言葉。

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