2020年1月15日水曜日

観音経 普門偈 その22

【原文】

爾時。持地菩薩。即従座起。前白仏言。世尊。若有衆生。聞是観世音菩薩品。自在之業。普門示現。神通力者。当知是人。功徳不少。仏説是普門品時。衆中八万四千衆生。皆発無等等。阿耨多羅三藐三菩提心。



【和訳】

爾時、持地菩薩が、即従って座より起ち、前にすすみ仏に白して言った。世尊、若し衆生が有りて、是の観世音菩薩品を聞くならば、その自在の業を普く門から示し現わせる神通力者、是の人を当に知るでしょう。功徳少なからず、と。仏が是の普門品を説いた時、衆中八万四千の衆生は皆、無等等の阿耨多羅三藐三菩提を求める心を発した。



【解説】

いよいよ観音経普門偈のフィナーレだ。前回までで釈迦の話が終わったため、最後に持地菩薩が釈迦に謝辞を告げるという場面になる。持地菩薩はお地蔵さんの事で、お地蔵さんは釈迦が入滅後、次の仏である弥勒仏が現われるまでの無仏の期間、人々を救済する役目を担う菩薩だ。だからか、観音菩薩の世の人々の役に立ちたいという誓願に感動したのだろう。釈迦が話終えると、即座に前にすすみでて、釈迦に謝辞を告げた。世尊よ、もしこの観音経普門偈を聞く者がいて、観音菩薩の自在の働きが普く門から示されている事を知るならば、きっとこう思う事でしょう。功徳少なからず、と。そして、仏がこの普門品を説いた時、持地菩薩だけが感動したのではなかった。これを聞いていた無数の衆生は、皆一様に比類なき悟りを求める心を発したのであった。

こうして話は終わるわけだが、最後に何故観音菩薩の世の役に立ちたいという話を聞いた衆生達が、悟りへの思いを発するのかに触れて置く。思うに、観音菩薩が釈迦の生涯を現わす菩薩だからと考えると自然では無いか。と言うのも、釈迦の生涯は35歳で悟りを開いてから80歳で入滅するまでの間、沢山の弟子たちを教化する旅であった。いきなり悟りとはこう言う事だと言っても、弟子達には分からないから、釈迦は弟子に歩み寄った説明をした事だろう。時には弟子達の悩みの相談にのって苦しみを抜いてあげ、時には苦しむ弟子達を楽にしてあげながら徐々に悟りへ導いていったはず。その姿を象徴するのが観音菩薩である。そう考えて見れば、何故無数の衆生が悟りを求める心を発するのも自ずと見えてくる。観音経自体が衆生を悟りへ導くための方便だからだ。悟りを自分だけで完結するのも悪く無いが、観音経を学ぶのだから、観音菩薩にあやかって人々の役に立てたいとまで昇華したいもの。その意味で、自分も八万四千の衆生の一員に加えて欲しいと思えたら最高だ。




【語句の説明】

1、爾時は、その時。

2、白すは、はっきりと言うという意味。

3、等等は、等と言う字を並べて強調した表現。

4、衆中は、大勢と言う意味。

5、阿耨多羅三藐三菩提心は、梵語アヌッタラ・サミャク・サンボディの音写で漢字は当て字となる。意味はこの上ない理想的な悟りと言う意味。



2020年1月14日火曜日

観音経 普門偈 その21

【原文】

具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼



【和訳】

一切の功徳を具え、慈しみの眼差しで衆生を視られる。その福聚は海のごとく無量である。是の故に頂礼にて応えなさい。



【解説】

観音様は何時でも慈眼をもって見守ってくださる。その功徳たるや海の如く無量に与えられるから、拝礼して受け取りなさい。この有難い言葉を素直に噛みしめると、観音経の醍醐味を味わえる。なお、前回まで説明してきた通り、観音様とは自分の事であり、他人の事であり、天地自然の事である。問題はそう気づけるかどうかであり、そう気づくならば、観音様は常に自分のために心を砕いている事が分かる。その親にも似た有難みを、福聚は海のごとく無量と言うのであろう。感恩の歌ではないが、あはれ同胞心せよ。こう考えて見ると、頂礼にて応じよというお釈迦様の言葉が良く分かる。




【語句の説明】

1、福聚は、幸福を招く多くの功徳と言う意味。

2、頂礼は、仏教における礼法の一つで、最高の敬意を示すとされるもの。具体的には、自分の頭を相手の足につけて拝するやり方。


2020年1月11日土曜日

観音経 普門偈 その20

【原文】

念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作



【和訳】

念じて、念じて、疑いを生じさせる勿れ。観世音は浄聖であり、苦悩死厄に於いて、能く依怙を作り為す。



【解説】

観音様を疑ってはいけない。さすれば、浄らかで知徳を具える観音様は、苦悩死厄の際、必ず拠り所となってくれると言う。どんな説法も疑ってかかっては効果はない。聞く耳を持たねば、どんな素晴らしい説法であれ薬とならない。まずは信じる事だ。信じるほどに、心に安らぎが訪れる。不思議な話だが、こればかりは、そうだからそうとしか言いようがない。体感の世界である。

結局、観音様を疑わないとは、自分を疑わないという事だ。観音様を拝むとは、自分を拝む事に他ならない。地獄が自分の心の中にあるものであるように、餓鬼や畜生が自分の心に住まうものであるように、観音様も他でもない自分の心の一面である。観音様とは実は自分の事だったと気づくなら、念念勿生疑は自分が観音様という事を疑ってはならないと言う意味と分かる。例え苦悩、死の恐怖、厄災が身に降りかかっても、観音様のように我を張らず、欲に囚われず、慈悲を以って世間を観る。そういう自分と向き合う時間を日々作っていく。初心に立ち返るでは無いが、それが諸々の不安から解放される秘訣では無いかと思う。




【語句の説明】

1、勿は、なかれ。

2、聖は、知徳に優れるという事。

3、依怙は、頼みにするという意味。依怙贔屓(えいこひいき)。


2020年1月8日水曜日

観音経 普門偈 その19

【原文】

妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念



【和訳】

妙音、観世音、梵音、海潮音は、彼の世間音に勝る。是の故に須らく常に念じよ。



【解説】

観世音と言うのは、何と妙なる音だろう。林に吹く風の音であり、海の潮の音であり、彼の世間の音に勝った趣がある。だから、常に念じなさいという話となる。イメージとしては、ストレスが溜まった時に、町から離れて森林浴や海に散歩へ行くと言った状況を想像すると良い。林に吹く風や、海の潮の音を聞いていると、世間の事を忘れてリフレッシュできるもの。この事を言い表して、林に吹く風や海の潮の音が世間の音に勝ると言っている。また、風の中に吹く風や、海の潮の音の中に観音様の存在を感じられるかどうかは、一重に自分の意識一つである。だから、当然のように常に念じなさいと言う。そうすれば、観音様は常に共にあり、しかも慈悲をもって助けてくださると言うのだから、その働きは妙としか言いようがない。故に、観世音を妙音と称する。これが全体像である。

では、理釈して見るに、林に吹く風や、海の潮の音は何の例えであろうか。個人的には、風は囚われのない自由な心を表し、海は清濁を飲み込む大いなる心を象徴しているように思う。風も海も観音様の説法である。風を観て欲しい。風は何か囚われるという事がない。偏って吹くという事もなければ、こだわりを持つ風など聞いた事が無い。風はただ吹くだけである。林があれば林にあわせて、海の上にあれば海にあわせて、自由に吹くだけである。それに比べて人間はどうだ。何かに囚われて、偏って、こだわってばかりいる。あげくはそれで悩み苦しむと言うのだから、何と愚かな事だろう。海を観て欲しい。海は人の嫌がる糞尿を全て受け入れて、それでいて何ら気にする事が無い。動物達の死骸を全てその身に含み、それでいて平然としている。これを大いなると言うのである。風も海もまさに観音様そのものである。比べて世間で聞こえてくる音は、欲にまみれ執着ばかりが先立つ。清らかさからは程遠い事が多い。

なお、松原泰道氏によると、今回の妙音、観世音、梵音、海潮音、世間音は、その15ですでに説明した真観、清浄観、広大智慧観、悲観、慈観とそれぞれ対応しているそうだ。そこで、一緒に覚えると良いと言う。対応は以下の通りである。



妙音=真観

観世音=広大智慧観

梵音=清浄観

海潮音=悲音

世間音=慈観




【語句の説明】

1、梵は、林に吹く風と言う意味で、宇宙の根本と言う意味もある。

2、参考図書。


2020年1月4日土曜日

観音経 普門偈 その18

【原文】

諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散



【和訳】

諍い訟えて官処を経、怖畏なる軍陣の中であっても、彼の観音の力を念ずるならば、衆の怨は悉く退散する。



【解説】

今回は、とかく怨みを生みやすい裁判であれ、何を言っても理不尽な結果を招くであろう敵陣の中であれ、観音様の力によれば、心は怨みから解き放たれると言う話になる。人生は心一つの置きどころだ。心頭滅却と言う言葉があるように、どんな状況であれ覚悟次第で心は自由になれる。相手を怨んだとて、辛くなるのは我が身ばかり。怨んだところで何も良いことは無いと分かりつつも、怨む事を止めれないのが人間の性かも知れないが、だからこそ観音様は慈悲をくださる。ここまで本ブログで書いてきた通りである。

では、具体的に紹介しよう。まずは訴訟という事なので、例えば、争いごとを考えて見る。争いごととなると、相手を負かしてやろうとばかり思うものだが、逆に相手に負けても良いと思えれば争いごとの質が変わる。心が楽になる。相手に教わる気持ちで戦うと良い。すると心が謙虚になる。負かしてやろうと思えば、敵対心から相手を怨むこともあろう。だが、教わろうと思うなら怨みは尊敬に変わる。そういった気持を勝利の女神は好むものである。これが怨みが退散するという意味だ。この話は何も勝負事に限った話では無い。人間関係全般に言える。相手に教わろうと思って接するのと、自分の面子ばかりを気にして接するのでは自ずと接し方が変わってくるはず。どちらの接し方が良い人間関係を築けるかは自明だろう。次は恐ろしい軍中にあってという事なので、例えば、獄中で罪を償なわねばならないような状況を考えて見る。獄中にあっても、その気持ち次第で心は自由になる。罪を受け入れずに過ごすなら、獄中は厳しさばかりが身に染みる事だろう。なんでこんな目に会っているだ、と怨みを抱くのが普通かも知れない。だが、そんな獄中にあっても、罪を償うために入っていると思うなら、厳しさの中にも張り合いがでてくるものだ。心は怨みから解放されて前を向くのである。この話も、獄中を会社、学校などに置き換えても同じ事が言える。嫌だと思えば嫌になる。つまらないと思うからつまらない。結局、世界を決めているのは自分の心である。




【語句の説明】

1、諍訟は、訴訟を起こして争う事。

2、官処は、ここは裁判所の意味。

3、怖畏は、理解の及ばぬ事への恐れ。

4、衆は、諸々の意味。


2020年1月2日木曜日

観音経 普門偈 その17

【原文】

悲体戒雷震 慈意妙大雲 澍甘露法雨 滅除煩悩炎



【和訳】

悲体の戒めは雷震のよう、慈意の妙は大雲のよう、甘露の法雨を澍ぎ、煩悩の炎を滅除する。



【解説】

煩脳を炎に例えるならば、観音様の慈悲は大雲から降り注ぐ雨のようであり、その効果は様々な病気をいやす甘露の霊薬のようである。さしずめ慈意の妙は大雲と言った所だが、ただ優しいだけではなく、悲体の戒めは雷震のような厳しさもある。要は観音様を雷雲の如しと例えているわけだが、観音様が煩悩を滅してくれるという話はこれまで何度も説明してきたので、今回は戒めと言う部分に焦点をしぼって説明する。

戒は、仏教徒が守るべき内面的な規範の事だ。その数は在家信者のための五戒から始まって、多くなると二百五十にもなる。その数の多さには驚くばかりだが、では、何故そんなに多くの戒が設けられているのかと言うと、当然必要だからで、戒を実践する事で初めて楽になるから戒がある。つまり、お経は戒の二面性を謳っていて、人を束縛する面をとらえ雷震と言い、人を楽にする面をとらえて甘露の霊薬と例えている。戒の厳しさについては、あれをやっていけない、これをやっていけないと束縛するわけだから、それをしっかり守るとなると厳しい事は良いだろう。例えば、飲酒一つとっても、飲酒は戒に反するからいけないと言われても、酒好きの人にとってはこんなつらい事は無い。だが、何故酒を飲まぬ事が人を楽にするかと言うと、人は酒の飲むと失敗しやすいからだろう。対人関係しかり、健康しかり、酒がもとで失敗する事は様々ある。失敗してしまえば覆水は盆に返らないのだから、ならば最初から飲まなければ良いと戒は言うわけだが、酒が飲みたい人にとっては、そうと分かっていても飲みたくなってしまう。飲むなと言う戒は、まるで雷様のように厳しいのである。だが、反面、酒を飲んではいけないという戒を守りさえすれば、失敗する事も無いのだから、楽になるとも言える。まさに甘露の霊薬のように効くのである。この意味で戒は観音様の慈悲そのものであり、観音様の慈悲は戒を守る事で初めて達成されるとお経は言うのである。

仏教徒の戒にかぎらず、世間には行動規範が色々ある。それは例えば礼儀と言われているかも知れない。礼儀も初心の頃は面倒に感じるものだ。なぜこんな事をしなければならないか、と。だが、そんな礼儀も慣れてくると別の感覚になる。逆に、礼儀こそが安心感を与えてくれるものになるのだ。ここに礼儀のもつ本当の意義がある。礼儀が無い世界を想像して欲しい。礼儀がないと一見自由に感じるかも知れないが、どうしたら相手に不敬と思われないかが分からなくなる。まさか出会う相手毎に喧嘩するわけにもいかないのに、どう接したら良いかが分からない。何をしても良いはずが、全てが手探りで何もできなくなるのだから、これでは不自由そのものである。この事に気づくと、実は堅苦しいはずの礼儀こそが、人を自由にしている事が分かるだろう。礼儀を守りさえすれば良いのだから、こんなに有難いものも無いわけだ。だからこそ、実社会でも淘汰される事なく発達してきたのだろう。戒もそう言う事だ。厳しいようであるが、慣れてくれば、それが安心感のもととなる。戒を守っていれば全ては穏便に済むのだから。なお、これは自分に対してだけでなく、他人に対しても言える。他人からすれば、戒を守っている人というのは一つの信用となる。安心して見ていられる。不安を与えようはずもない。




【語句の説明】

1、悲体は、観音様の体を意味し、体は慈悲の悲を司る。

2、慈意は、観音様の意(こころ)は慈を意味し、意は慈悲の慈を司る。

3、甘露は、古代インドで神々が飲んだとされる霊薬。良く効くという事。

4、法雨は、仏が衆生をあまねく救う事を、雨が地を潤す事に例えた言葉。