2019年8月24日土曜日

里仁 第四 7

【口語訳7】

孔子先生がおっしゃった。人の過ちは、その人柄によるものだ。過ちを観察すれば、その者の人柄(仁)も自ずと分かるよ。



【解説】

過ちを見るとその者の人柄が分かるという孔子の指摘は、過ちをどう反省するのかに特に現れるのではないだろうか?例えば、過ちを人のせいにする人にその典型が見れる気がする。過ちを人のせいにしてどうなるものでも無いが、過ちを人のせいにする人は毎回人のせいにしてその場を取り繕おうとする。本人はうまくやったと誤魔化せた気でいるのだろうが、人はその姿に見苦しさを感じこそすれ、立派と感心する者はいないもの。当人には残念だが、これが立派であるべき君子が取るべき行為でない事は明らかだろう。では、どうしたら君子らしい人柄の反省になるかだが、まずは自らの非を認め、特に自分が仁に背いてしまったかどうかを反省すると良い。この際、言い訳はしない事が大切で、言い訳をしてしまうと自らの非を認めていない事になってしまう。反省する時は真摯に仁の人となるべく反省するのである。それでこそ飛躍を遂げられるというものだ。具体的に考えて見よう。




(ケース1)

朝寝坊をした時を考えて見る。上中下の3段階で評価するとして、まず下の人を考えて見ると、下の人は朝寝坊した時に例えば親のせいにする。朝7時に起こしてって頼んだのに何で起こしてくれなかったの、と。お陰で遅刻してしまうと怒るのである。子共のいる家ではありそうな光景で普通と言えば普通だが、残念ながら落第点と言う他ない。では、中の人はどうかと言うと、朝7時に起きれなかった自分が悪いと考え、決して親のせいにはしない。中の人は親のせいにせずに自分が寝坊したのが悪いと考えられるのだから、立派と言えば立派かも知れない。だが、これも普通と言えば普通である。では、上の人はどうかと言うと、起きれなかった自分を反省するだけでなく、起こせなかった親に気苦労をかけているのではないかとまで心が配られる。親の体調を心配するのである。そして、もう親に心配をかけまいと心に誓うのだ。これが上の人であり、君子らしい人柄を備えた人間となる。



(ケース2)

上司に怒られた時を考えて見る。上中下の3段階で評価するとして、まず下の人を考えて見ると、下の人は怒られればふてくされるか、又は右から左に聞き流し何ら反省する事は無い。そして、問い詰められるなら人のせいにする。これでは何の成長も見込めず、将来の伸びしろも無い。落第点である。では、中の人はどうかと言うと、上司の言う事はきちんと聞くし、怒られた点は正そうと努力する。人のせいにせずに自分の非を改める姿勢は立派だが、普通と言えば普通である。では、上の人はどうかと言うと、上の人は自らの非を改めるのは勿論として、上司の気苦労まで配慮する。そして、次からは少なくとも自分の事では上司に気苦労をかけまいと決心するのだ。この気持ちこそが仁であり、君子らしい人柄となる。こういう者とならば、よい信頼関係を築けるというものだ。




さて、次は過ちをどう反省するかとは逆に、過ち自体から人柄が垣間見える場合を紹介する。この具体例は実は八佾編にたびたび出ている。八佾編では孔子が季氏の不遜を度々嘆いていただろう。この嘆きがそのまま過ちから人柄を垣間見た状態となる。人間の行為には必ず動機があるもの。その動機をおもんばかる事で、その者の人柄が見えてくると孔子は言うのである。まさに人物観察の基本のキとなる。では、他の具体例を考えて見る。




(ケース3)

掃除を考えて見よう。掃除などで何が分かると侮ってはいけない。掃除のやり方一つで、その者の人柄がにじみ出るのだから。面白いもので、掃除の出来不出来がその者の心の有り方を如実に示す。何故なら心がまとまっている人ほど汚い場所に居心地の悪さを感じるものだし、心がまとまってない人ほど汚い場所を汚いとは考えない傾向があるからだ。掃除は心のバロメーターなのである。ただ、何も自分で掃除する必要はない。昔で言う下男下女がいるならば、彼らに掃除をさせるのでも良い。とにかく心がまとまってくると、自然と汚い場所には居られなくなるものと抑えて欲しい。このように一見なんでもない汚い部屋に住んでいるという事からも、人柄がにじみ出るものなのである。なお、靴も同様である。脱いだ靴を揃えるかどうかも、そのまま人柄を示す。靴が揃わないのではない。心が揃っていないのである。心が揃っていないから、靴を揃えずとも気にならないと評価されるのだ。

とは言え、掃除や靴を揃えるかが過ちとは思えないという人もいるだろう。だが、少なくとも君子たらんとする者にとっては、十分な過ちである。汚い部屋に住み、靴は脱ぎっぱなしの人を、誰も立派とは思わないのだから。




1、仁は人の為ならず

君子を立派な官僚として考えると、情けは人の為ならずならぬ、仁は人の為ならずと考えると実利に適う。孔子は中国人であるから、過ちを過ちと素直に認める事が面子の問題に直結し、過ちを認めるという事が則ち面子をつぶされたとなっても可笑しくは無い。だが、実利にさといと中国にあっては、自分が役に立つ人間である事を相手に印象付けたほうが理に適っている。

過ちを犯した際、大きく二つの選択肢がある。一つは素直に過ちを認め反省する事、もう一つは面子が潰れる事を重く見て過ちを認めない事だ。このどちらを良しとするかになるわけだが、孔子は恐らく前者を重く見たのであろう。中国的には面子が潰れるというデメリットは大きそうだが、素直に過ちを認める事で相手にとって自分は敵では無いという事を印象づけるという将来につながるメリットがある。と言うのも、過ちから間抜けな奴と思われても頭が切れすぎる人間となって嫌われるよりは大分良いし、もし双方で意見が食い違っているような場合でも相手の面子を立てた事になるからだ。こう考えて見ると、仁を軸に生きる事がどれだけ処世に適うかも理解できるだろう。反省する時、仁に反したかどうかを悩む事で、自分が敵にはなりえないという印象を確固たるものにするのである。



【参考】

学而編8為政編10八佾1


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