【口語訳5】
(正道は仁のこと)
孔子先生がおっしゃった。富と地位を人は欲する。だが、正道を外れているならば、例え得たとしても私はそこにはいない。貧乏と卑しい身分を人は嫌がる。だが、正道を外れているならば、例えそうであっても私はそこにいる。君子が正道を外れて、どうして君子と言えようか。君子は食事の時でさえ正道を外れはしない。いや、慌ただしい時ですら正道にある。いや、倒れる瞬間のような時ですらそうなのだ。
【解説】
富と地位を手に入れても、正道に外れて手にした場合は拘泥すべきでない理由は、孔子が為政編で語っている通り、君子は公平であり、知識人は利害で取り入るという視点で考えると分かりやすい。君子が公平なのは何も他人に対してだけでは無い。勿論、自分に対しても公平のはずである。正道に外れていながら自分だけは富と地位に拘泥すると言うのでは、明らかに公平さを欠き、君子ならばそう言う状況に気持ち悪さを感じて然るべきとなる。故に、富や地位を手に入れても、正道を外れている場合は孔子はそこにはいない。
貧乏と卑しい身分にあっても、正道に外れてまで逃れるべきではない理由は、逆に考えて、例えば盗みや詐欺を働いてまで貧乏や卑しい身分を脱した者を君子と呼べるだろうかと考えてはどうか。その者が君子と言えるどうかは、自分ではなく他人が決める部分がある。周りから見て恥ずかしくない振る舞いをしなければ、とても君子にはなりえない。では、どうしたら恥ずかしくない振る舞いと言えるかとなるが、孔子は貧しい時分には人間としての生き方を探すのが良いと学而編で語っている。この人間としての生き方を探す道こそ正道であり、仁の道である。
君子が短い食事の間や、慌ただしい時、倒れる瞬間に至るまで正道にある理由は、習熟度の問題であろう。最初に君子を目指したころは、意識しなければ君子らしく仁の人としての振る舞いができない。しかし、時が経ち仁が自分の血と肉になったころ、意識せずとも仁の人として恥ずかしくない立ち居振る舞いができるようになる。その頃になれば、何時いかなる時も正道を外れはしないと言っている。また、無意識にでも仁の人になってなければ君子とは言えないとも言える。
なお、君子は仁の人である事を軸に説明するとよりスッキリするかも知れない。仁の人が仁に背いてまで富や地位に拘泥するはずが無いし、拘泥するならばその人は仁の人では無い。また、例え貧しくても、卑しい身分にあっても仁を施す事はできるから、無理に貧乏や卑しい身分から逃れる理由もない。仁を貫くなら、自然と細部にこだわるようになるから、食事中から倒れるようなとっさの時ですら仁の人となるべく努力し、習熟度があがるにつれ自然と如何なる時も仁の人となろう。
1、安全面
君子を立派な官僚として考える。官僚の世界は政争の中にある世界であるから、富と地位を得た理由がやましい場合、何とも心許ない。いつ後ろから刺されるか分からないからだ。まだこれから官僚を目指すという貧しい時分にあって、盗みや詐欺などに勤しんでいたら官僚になるなど及びもつくまい。立派な官僚としての素養を身に着くるべく過ごさずに誰が声をかけてくれようか。
官僚として出世し、また足を引っ張られないようにするには、常に悪い噂が立たないようにするのが理想である。そういう視点で考えれば、食事中にも気をつかうのが良く分かる。あいつの食べ方は汚くお粗末だとなっては、それをネタに足を引っ張られるからだ。なればこそ立派な官僚らしい食事をしなければならないし、慌ただしい時も同様でピンチに弱いと言われぬように振る舞わねばならないし、倒れる瞬間のようなとっさの時ですら機転が利くとなるように心がけねばならない。
【参考】
為政編14、学而編15
(正道は仁のこと)
孔子先生がおっしゃった。富と地位を人は欲する。だが、正道を外れているならば、例え得たとしても私はそこにはいない。貧乏と卑しい身分を人は嫌がる。だが、正道を外れているならば、例えそうであっても私はそこにいる。君子が正道を外れて、どうして君子と言えようか。君子は食事の時でさえ正道を外れはしない。いや、慌ただしい時ですら正道にある。いや、倒れる瞬間のような時ですらそうなのだ。
【解説】
富と地位を手に入れても、正道に外れて手にした場合は拘泥すべきでない理由は、孔子が為政編で語っている通り、君子は公平であり、知識人は利害で取り入るという視点で考えると分かりやすい。君子が公平なのは何も他人に対してだけでは無い。勿論、自分に対しても公平のはずである。正道に外れていながら自分だけは富と地位に拘泥すると言うのでは、明らかに公平さを欠き、君子ならばそう言う状況に気持ち悪さを感じて然るべきとなる。故に、富や地位を手に入れても、正道を外れている場合は孔子はそこにはいない。
貧乏と卑しい身分にあっても、正道に外れてまで逃れるべきではない理由は、逆に考えて、例えば盗みや詐欺を働いてまで貧乏や卑しい身分を脱した者を君子と呼べるだろうかと考えてはどうか。その者が君子と言えるどうかは、自分ではなく他人が決める部分がある。周りから見て恥ずかしくない振る舞いをしなければ、とても君子にはなりえない。では、どうしたら恥ずかしくない振る舞いと言えるかとなるが、孔子は貧しい時分には人間としての生き方を探すのが良いと学而編で語っている。この人間としての生き方を探す道こそ正道であり、仁の道である。
君子が短い食事の間や、慌ただしい時、倒れる瞬間に至るまで正道にある理由は、習熟度の問題であろう。最初に君子を目指したころは、意識しなければ君子らしく仁の人としての振る舞いができない。しかし、時が経ち仁が自分の血と肉になったころ、意識せずとも仁の人として恥ずかしくない立ち居振る舞いができるようになる。その頃になれば、何時いかなる時も正道を外れはしないと言っている。また、無意識にでも仁の人になってなければ君子とは言えないとも言える。
なお、君子は仁の人である事を軸に説明するとよりスッキリするかも知れない。仁の人が仁に背いてまで富や地位に拘泥するはずが無いし、拘泥するならばその人は仁の人では無い。また、例え貧しくても、卑しい身分にあっても仁を施す事はできるから、無理に貧乏や卑しい身分から逃れる理由もない。仁を貫くなら、自然と細部にこだわるようになるから、食事中から倒れるようなとっさの時ですら仁の人となるべく努力し、習熟度があがるにつれ自然と如何なる時も仁の人となろう。
1、安全面
君子を立派な官僚として考える。官僚の世界は政争の中にある世界であるから、富と地位を得た理由がやましい場合、何とも心許ない。いつ後ろから刺されるか分からないからだ。まだこれから官僚を目指すという貧しい時分にあって、盗みや詐欺などに勤しんでいたら官僚になるなど及びもつくまい。立派な官僚としての素養を身に着くるべく過ごさずに誰が声をかけてくれようか。
官僚として出世し、また足を引っ張られないようにするには、常に悪い噂が立たないようにするのが理想である。そういう視点で考えれば、食事中にも気をつかうのが良く分かる。あいつの食べ方は汚くお粗末だとなっては、それをネタに足を引っ張られるからだ。なればこそ立派な官僚らしい食事をしなければならないし、慌ただしい時も同様でピンチに弱いと言われぬように振る舞わねばならないし、倒れる瞬間のようなとっさの時ですら機転が利くとなるように心がけねばならない。
【参考】
為政編14、学而編15
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