2019年8月13日火曜日

里仁 第四 6

【口語訳6】

孔子先生がおっしゃった。私はまだ仁を好む者、不仁をにくむ者を見た事がない。仁を好む者は申し分ない。一方、不仁をにくむ者も仁者たろうと努めるし、不仁者の影響を被るのを避ける。せめてそのように一日でも仁者たろうとして見よ。その力も無い者には会った事がない。あるいは、あるのかも知れないが、私はまだ見た事が無い。



【解説】

仁者を志す者にとって、指針とすべき言葉だろう。仁者たらんとするなら、まずは今日一日を仁者として過ごす事を心がける事から始める他ない。今日一日過ごせたら、明日も仁者として過ごす事を目指す。明日も仁者として過ごせたなら、明後日も仁者として過ごす事を心がける。千里の道も一歩から、まずは今日一日をどう過ごすかから始まるのである。この際大切なのは、見返りを求めない事である。見返りを求めると、例えば親切にしてあげたのだから、相手も自分に何かしてくれるだろうと考えてしまう。しかし、相手は一通り何で自分を良くしてくれるのか考えたあと、何も理由が見つからないと、恐らく親切な人と思われたいんだろうと下心を勝手に察して終わりだったりする。この時、相手に見返りを求めているとがっかりして嫌になってしまうだろう。だが、見返りを求めなければ、相手がどう考えようが知った事では無い。自分は自分の信条に従っただけである。そして、自分の都合で勝手に仁者たらんと生きれば良いのだ。

客家は言う。幸運は親切にした相手の背中からやってくる、と。仁者たらんとする事は、長い目でみれば決して無駄にはならないものだ。ただ、この事が分からない者が多いから、孔子は最初に仁を好む者も、不仁をにくむ者も見た事がないと言っているような気もする。中国のような永遠と陸地が続く土地柄では、悪さをして居づらくなれば逃げれば良いという考えが浸透しやすいため、どうしても騙された方が悪いとなって、騙す事が正当化される。この点が島国で逃げようと思っても海にぶつかって逃げきれない日本とは事情が異なる事をハッキリ認識すると良い。日本は逃げきれない状況にあるから、騙すほうが悪いとなる。逃げきれない以上、騙して恨みを買うと生きづらくなるからだ。さて、中国の話に戻るが、中国では騙して問題になったら逃げれば良いのだから、騙して稼いだほうが楽な商売に見えるわけだ。だが、そんな中国という土地柄であっても、幸運は親切にした相手の背中からやってくるのである。騙されるのが常だから、信用できる人を探すのも常になるという事なのだろう。



1、地獄の沙汰も金次第

君子という立派な官僚として考えた場合、恐らく孔子が望むのは不仁をにくむことだろう。仁のために好んで仁を行う者は君子というより聖人の類だ。だが、聖人レベルはともかくとして、君子たる者も見当たらないと嘆いているのが今回になる。では、その理由は何かになるが、結局のところ地獄の沙汰も金次第という事だろう。官僚として出世を考えた場合、血縁などの先天的なものを除けば、身に着けたい能力は3つある。まずは有力者を嗅ぎ分ける嗅覚、次にYESマンに徹する事が出来る事、そして賄賂を用意出来る事だ。この能力を前にしたら、仁を好むとか、不仁をにくむと言うのはあまりに2次的だ。よって、重要視されず孔子は嘆くのであろう。そう考えて見ると、仁を好む者も、不尽をにくむ者も見たことが無い、一日だけでも仁者を志して見よと言う孔子の言葉が自然につながる。



2、馬と鹿と趙高と

史記列伝より趙高のエピソードを紹介しよう。時は秦の時代、始皇帝の死後に趙高は愚鈍な2世皇帝を擁立し、秦の実権を握っていた。ある時、その2世皇帝の前に鹿を連れてきて、趙高が皇帝様これが馬でございますと言った。しかし、2世皇帝も愚鈍とは言え、流石に馬と鹿の違いは分かったらしい。2世皇帝は反論した。これは馬ではなく鹿であろう、と。すると、周りにいた者達は2世皇帝に従うべきか、趙高に従うべきか大変困った事になった。普通に考えれば鹿を馬だと言い張っている趙高が無茶苦茶なわけだが、現実はそう簡単ではない。皇帝に従って、つまり趙高に逆らって鹿だと言った者は、後になって趙高に一人残らず処断されしまったのである。何の事はない。趙高は鹿を利用して自分の敵か味方かを判別していたのだ。

このエピソードには官僚の処世術が詰まっている。まず趙高と2世皇帝の力関係を見抜く嗅覚が必要な事が分かる。次に本当かどうかは重要ではなく、とりあえず強者たる趙高が白と言えば黒いものも白と言わねばならない事が分かる。そして、趙高に気に入られるように賄賂を用意出来れば尚良い事が分かる。史記列伝は以下の本を参考にした。
















【参考】

幸運は親切にした相手の背中からやってくるとは、幸運は親切にした相手から返ってくるのでない。その相手に親切にしてあげた事を見ていた他の誰かから返ってくるのだという意味となる。例えば、その相手の親族であるとか、まわりで見ていた者とか。


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