2018年12月23日日曜日

八佾 第三 10

【その10】

子曰く、てい既にかんしてより而往のちは、われ之を観ることを欲せず。



【口語訳】

孔子先生がおっしゃった。先祖を祭る大祭も神酒を地にそそぐまでは良い。だが、その後が見るに堪えない。



【解説】

まず禘の説明をすると、字の構成通り、帝によって示す行為を意味する。示の語源は台の上に犠牲となる羊をのせ、それを殺した時に血がしたたり落ちるという意味だ。示の上の横棒が犠牲の羊であり、丁が台を表し、点々がしたたり落ちる血となる。したがって、示は宗教的儀式を表し、それを家の中で行うと宗教の宗となるし、それを帝が行うと禘と書く。故に、帝である天子が天を祭る大祭を禘と言う。孔子のいた魯は特別に帝である天子と同格の祭りが許されていたため、魯で行われる先祖祭りの大祭も禘と呼んだと考えれば自然かと思う。



1、孔子が見るに堪えない理由

一言で言えば、魯の先祖祭りが礼に反していたからと考えられているようだ。孔子の生きた時代の魯では、王の跡目相続がすんなりいかなかったらしく、それが原因で礼が乱れたと言う話となる。事の発端はこうだ。まず16代目の王であった荘公には、嫡出子と非嫡出子がいた。最初は嫡出子である閔公びんこうが跡目をついで17代目となったのだが、閔公はわずか2年でこの世を去ってしまう。そこで再度跡目相続となり、そこで白羽の矢がたったのが荘公の非嫡出子であった 僖公きこうだった。

ただ、僖公は閔公の兄にあたったから話がややこしくなる。兄弟の序列から言えば、兄である僖公は弟である閔公より上だが、王位継承の序列から言えば、閔公は疑似的とは言え僖公の父にあたる。つまり、弟が兄の父になってしまうのだ。この事は19代目の文公の代の先祖祭りで問題となる。文公は僖公の子であったため、弟の下となる父を不憫に思ったのだろう。本来なら閔公・僖公の順で位牌を並べなければならない所を、逆の僖公・閔公の順に位牌を並べて先祖祭りを行ってしまった。父が自分の弟の下にならないよう配慮したのだ。だが、これは逆祀と言って、本来やってはいけない事だったため、孔子は見るに堪えないと嘆いている。礼を乱しておいて、何の礼ぞと言う気持ちだったのだろう。



<王位継承順>

荘公 ー 閔公(弟) ー 僖公(兄)

先祖祭りの祭、本来は位牌をこの順で並べねばならないが、文公は王位継承順では弟の下の序列となる父の僖公を不憫に思って、位牌を以下のように並べ替えてしまった。


荘公 ー 僖公(兄) ー 閔公(弟)

こう並べてしまうと、17代目と18代目が逆になってしまい、16代目荘公から18代目僖公に飛び、17代目閔公が最後にくるというアベコベになってしまう。故に、逆祀と言って礼を乱したとされる。



【参考】

地面にそそぐ神酒は鬱鬯うっちょうと言い、香草で香りがつけられ霊力に溢れた酒と考えられていた。祖先の霊に捧げる他、高貴な賓客にもてなされた。



【まとめ】

先例は、されど先例。


八佾 第三 9

【その9】

子曰く、の礼は吾能われよく之を言えども、杞徴きちょうするに足らざるなり。いんの礼は吾能く之を言えども、宋徴するに足らざるなり。文献足らざるが故なり。足らば則ち吾能く之を徴せん。



【口語訳】

孔子先生がおっしゃった。私は夏の礼に通じているつもりだが、杞にはそれを証明する十分なものが無い。私は殷の礼に通じているつもりだが、宋にはそれを証明する十分なものが無い。文献が足りないからだ。足りていれば私の理解はより深まったはずだ。



【解説】

まず言葉の説明をすると、夏は中国最古の王朝の名で、その子孫が封じられた国が杞である。夏を滅ぼしたのが殷であり、その子孫が封じられた国が宋という関係にある。孔子は夏と殷の礼制に通じているつもりなのだが、それを証明するに十分なものが後継国である杞と宋には残っていないと嘆いている一節となる。孔子は古典の編纂もしていた事を考えると、資料として文献が無い事はさぞ嘆かわしかっただろう。



1、中国に文献が残らない理由

文化は辺境の地に残ると言う言葉通り、中国は文化が残りづらい土地柄である。理由は大きく2つ考えられる。まずは戦争が多く、平和が長く続かないからだ。特に負け戦では文献を保護する余裕もないため、文献が消失する事も多くなる。そして、中国人の歴史に対する考え方も大きい。彼らは歴史は時の支配者が自由に作り変えるものと考えている。故に、支配者にとって都合が悪い歴史は消される傾向にあり、当然その証拠となる文献も消される事も多くなる。歴史は作る物だから、客観的事実としての文献は重要でないと考えてもスッキリするだろう。



【参考】

文献の文は竹簡などの文物、献は賢人を意味する。



【まとめ】

失ってから気づく事もある。


2018年12月12日水曜日

八佾 第三 8

【その8】

子夏問うて曰く、巧笑倩こうしょうせんたり、美目盼びもくへんたり。素以ってけんを為すとは、何のいぞや、と。子曰く、絵事かいじは素を後にす、と。曰く、礼は後か、と。子曰く、予を起す者は商なり。始めてともに詩を言う可きのみ、と。



【口語訳】

子夏 「愛らしい笑顔、涼し気な眼差し、香るおしろい・・・。」
孔子 「絵で例えるなら、白の顔料は最後の仕上げにと言った所だね。」
子夏 「礼が最後の仕上げなのと同じですね。」
孔子 「商君には驚かされる。君とは共に詩を語り合えそうだ。」



【解説】

今回、2人は礼は化粧のようなものだと言っているが、その心は2度目のお声がけを考えて見れば良く分かる。人間、最初は試して見なければ分からないと付き合ってくれても、2度目のお声がけは結果次第となるもの。最初の結果が悪いのに、また貴方に頼みたいと言う物好きはいない。故に、礼が最後の仕上げの化粧となり、腕をつけなければいけないとなる。礼はお試しの一回となりはすれ、腕が無いとその後の関係が続かないからだ。逆に腕があるなら大概の事は解決してしまう。多少無礼者であっても貴方に頼むとなるものだし、無礼がその人の持つ個性だとすら解釈される。ここの大将は頑固者で口は悪いが、良い腕持ってんだよと言った具合に。

礼にこだわるのは教養人としては当然ながら、礼は化粧のようなもので崩れるのも早いと知らねば片手落ちになってしまう。人間はまず腕であり、その腕の見栄えを良くするのが礼だ。それは調度、内面からでる素の美しさを化粧が引き立てるようなものなのだ。



1、絵事は素を後にすについて

この部位の解釈がイメージが付きにくいが、絵を書くときには先ず色を染め、その後に白の顔料である胡粉を用いると言う話だ。恐らく、絵は重ね塗りをしながら完成させていくので、まずは色を塗り、その後に光が当たった事を表現するために白が用いられるという事なのだろう。調度、おしろいのようになる。






ただ、絵は白色を最後の仕上げにするとは限らないので、朱子学の朱子などは納得がいかなかったのだろう。絵事後素(原文)を絵事は素を後にすではなく、絵事は素より後にすと解釈し、下地を胡粉で作り、後で色を塗ると解釈している。その場合のイメージは下の動画だ。






この場合は白が人間としての中身で、色が礼となる。孔子の時代の絵画が失われ現物を視れないので、孔子の言わんとする事を想像するほかないのが残念だ。



【参考】

1、巧笑は愛らしい笑い方、倩は口元が美しいと言う意味。

2、美目は目元が美しい目、盼は白と黒がはっきりしたと言う意味。

3、素はおしろいの胡粉、絢は美しい綾模様の意味。

4、商は子夏の名。孔子の44歳年下で文学に優れていたとされる。



【まとめ】

化粧は長続きしない。

2018年12月8日土曜日

八佾 第三 7

【その7】

子曰く、君子は争う所無し。必ずやしゃか。揖譲ゆうじょうして升下しょうかし、しかして飲む。其の争いや君子なり。



【口語訳】

孔子先生がおっしゃった。君子は争うような真似はしない。強いて言うなら、射礼くらいだろう。礼儀を以って譲り合いながら昇り降りし、負けた方が罰杯を飲む。争い方もやはり君子らしい。



【解説】




まずは語句の説明からすると、射礼は弓の競い合いの事で、具体的には上の動画となる。弓道には礼に始まり礼に終わると言う言葉あるが、動画を見ると作法が何かは分からなくても作法がある事は伝わるだろう。弓は唯撃てば良いというものでは無く、礼が大切なのである。そして、礼によって争いは単なる喧嘩ではなく、文字通りの射礼となる。

これと同様に、中国式の射礼にも礼儀があり、それが君子らしく立派であると孔子は言っているわけだ。では、その中国式の礼儀は何かとなるが、それが揖譲ゆうじょうになる。まずは、下の画像を見て欲しい。




この画像は孔子像だが、手に注目して欲しい。胸の前で手を合わせているだろう。この手の形を拱手きょうしゅと言い、拱手きょうしゅ胸の前にだした調度孔子像の姿勢をゆうと呼ぶ。揖譲ゆうじょうとは、この姿勢で相手に敬意を示すという作法となる。揖譲ゆうじょうの譲は、謙譲という意味だ。

次に、升下しょうかの説明だが、動画をみると分かる通り、弓を射る時は控え場所から弓を射る場所まで移動する。その様子を孔子は升下しょうかと言っている。動画には段差はないが、孔子の時代は弓を射る堂と控え場所の庭に段差があったため、堂と庭の間を登り降りすると言っている。そして、当時は弓の競い合いで負けたほうが、罰ゲームとしてお酒を飲むという風習があり、而して飲むとつながる。普段争う事がない君子は、争うとしても罰ゲームでお酒を飲むくらいという雰囲気を掴んで欲しい。君子は争っても血なまぐさいものにはならず、遊び心があり風流なのである。




---- 以下、君子が争わない理由 ----


1、手足と争う頭はない

君子が立派な官僚の事だとすれば、単に争う必要が無いから争わないという結論になる。為政者である官僚からすれば、どんなに秀でた者であれ、それは手足として働く者であり、自分と競うべき者でない。官僚同士の出世競争に勝ち抜くためにも手駒は優秀なほど良いのだから、自然と優秀な者を求めはすれ嫉妬などして争うなどあり得ない。逆に争っては仕事がはかどらないと考えるのが立派な官僚である。故に君子は争う所無しとなる。



2、恨らまれないように振る舞う

出世するにも、お金持ちになるにも、最後に物を言うのは結局は運である。途中までは頑張れば誰でもいけるが、トップまで上り詰めたり大金持ちになるならば、やはり運が良かったとしか言いようがない。

例えば、官僚として出世し、宰相にまで上り詰めるとしよう。そうすると、長い時間がかかるわけだが、その間に大病を患っては出世どころの話ではなくなる。病気はいくら気を付けていても、なる時はなるものである。健康な体と言うのも、一重に運としか言いようがない。また、出世するなら、自分を引き立ててくれる良き理解者との出会いも不可欠であるが、そんな理解者とは会おうと思って会えるものでは無い。たまたま配属された先で出会うものだから、理解者との出会いも運としか言いようがない。さらに言えば、数十年の間、国自体が戦乱に巻き込まれない事も大切だ。戦争で勝てばまだ良いが、戦争で負ければ、それまでの努力は無に帰してしまう。しかし、数十年先の戦乱など、予期しようにも予期できないのだ。ならば、自分が出世する間、戦乱が無い事を祈る他ない。これは一例だが、このように人生を長い目で考えると目の前の事のみ考える時とは違って、運が良かったとしか言えない事だらけなのである。

故に、成功者ほど運の大切さを感じているもので、げんを担いだり自分の運を良くする事には余念がないものだ。では、どう運を良くするかだが、その一つの答えは敵をなるべく作らないようにする事だろう。恨まれれば、それだけ足を引っ張られる事も多くなる。恨まれなければ、助けを借りられるかも知れない。官僚として出世するなら、こういった運を増やす努力も不可欠なのである。故に君子は争う所無しとなる。争えば争うだけ、運も逃げてしまうのだ。



3、自信がつくと自然と争わなくなる

金持ち喧嘩せずでは無いが、人は自分にゆとりがあると多少の事で腹を立てたりしないものだ。逆に弱い犬ほど良く吠えるで、自分に自信がなくゆとりが無いからこそ争ってしまう部分がある。君子と言われるほどになるなら当然自分にも自信があるから、弱い犬にはならず、故に君子は争う所無しとなる。基本的に、一芸に秀でた者同士は友達になりはすれ、相手に嫉妬して喧嘩はしないもの。立場があるから、問題を起こす事を好まない。



4、喧嘩はご法度

これは想像だが、官僚同士の喧嘩はご法度だったのでは無いだろうか?日本でも例えば、忠臣蔵では江戸城内での刃傷ざたはご法度で、それが原因となって浅野長矩は切腹となるのは有名だが、恐らく中国でも同じ状況だったろう。城内で最も大切な事は、王の安全であるから。もしこの想像が当たっていれば、君子が争わないのは単に法令に触れたために追い出されるのは困るからとも考えられる。



【まとめ】

喧嘩はいけない。


2018年12月6日木曜日

八佾 第三 6

【その6】

季氏泰山たいざんやままつりす。子冉有ぜんゆういて曰く、なんじ(汝)救うあたわざるか、と。こたえて曰く、あたわず、と。子曰く、嗚呼ああすなわ泰山たいざん林放りんぽうかず、とわんや、と。



【口語訳】

季氏が泰山で山祭りを行う。

孔子 「お前、止める事はできないのか?」
冉有 「できませんでした。」
孔子 「ああ、泰山が林放に及ばないとでも言うのか。」



【解説】



上の画像が泰山だが、この泰山は黄河の下流にある霊峰である。泰山では封禅ほうぜんと言う天と地に天下泰平を感謝する祭りが行われた。これは天子により行われる特別な儀式であったため、天子からすれば家臣のそのまた家臣に過ぎない季氏がする事は、当時の常識からは許されない行為であった。にもかかわらず、季氏は自らの権勢を誇るため祭りを強行し、その事を孔子が嘆いたというのが今回の状況である。

想像するに、孔子は季氏が山祭りをするという話を聞きつけたので、季氏の執事であった弟子の冉有を捕まえて尋ねたのだ。お前ほどの者がついていて何故止めなかったのか、と。そうすると、冉有は止められなかったと答えるので、泰山は天子にとって特別な霊峰であり、自らに地上の統治を委任した天に天下泰平を報告するための場所である事はお前も知っておろうと嘆いたのある。孔子にすれば、新築の家に糞尿をまき散らされたような思いがしただろう。

なお、泰山は林放に如かずと言う部分の訳が難しいが、過去の偉大な天子達が天下泰平を天に報告し、感謝してきた泰山の権威すら、林放に恐れ多いと感じさせるに至らないと考えればスッキリする。故に、泰山は林放に如かずとなる。



【参考】

1、旅は山祭りの意味。旅の語源を調べると、古くは家から出る事をすべて旅と称したらしい。故に、泰山へ行く事も旅と称する。泰山は霊峰であり、その目的は祭祀に限られるから、この場合の旅は山祭りの意味となる。

2、救は誰を救うか分からないが、泰山を救うと考えるのが自然かと思う。季氏の僭越から、聖地泰山を救う。よって、この場合は山祭りを止めさせるという意味になる。そして、季氏を救うという意味にもとれる事が味噌で、誰かに聞かれても良いように配慮がされているようにも思える。



【まとめ】

人生最大の病患は傲慢の一事に尽きる。

by 王陽明



2018年12月4日火曜日

八佾 第三 5

【その5】


(書き下し文が2つある)

(A)子曰く、夷いてききみ有るは、緒夏しょかきにかず。

(B)子曰く、夷狄いてきすらきみ有り。緒夏しょかきがごとくならず。



【口語訳】

(A)孔子先生がおっしゃった。野蛮人も君主を頂いておるが、君主なき中国にも及ばないな。

(B)孔子先生がおっしゃった。野蛮人ですら君主を頂いておる。君主なきが如き中国のようなものでは無い。



【解説】

(A)中華思想を典型的に示している。中華思想とは、世界で中国のみが唯一の文明国であり、中国文化の及ばない地域は野蛮人が住むとする考え方だ。この考え方によれば、野蛮人どもが君主を頂こうが、君主なき中国にも及ぶはずがないのは当然となる。野蛮人にそもそも文明など存在しないのだから。

中華思想は、特に孔子のような官僚としてやっていきたい者にとって必須の考え方となり、野蛮人を褒めるような真似をすれば仲間内から揚げ足を取られる。これを現代の中国では崇洋眉外と言う。



(B)君主のもとに臣下が集う姿を尊ぶ孔子が、中国ではそうなっていない事を嘆いた一節と考えられる。具体的には、魯の君主のもとに三桓氏が集うべきなのに、三桓氏が君主をないがしろに好き勝手やっている様を嘆いたのだろう。周公の礼の復興が悲願だった孔子らしい。

ただ、中国では給料という概念がなく、各々賄賂をとって生活していたなら、主従の関係も希薄にならざる得なかったと思う。全てを金で割りきる社会になると考えたほうがスッキリする。



1、総評

(A)とも、(B)とも解釈できるところに孔子の練達ぶりがうかがえる。孔子は官僚を目指す以上、中華思想を守らねばならないが、かと言って周公の礼が失われ乱世のようになってしまった中国を嘆いてもいる。この両方を上手くまとめているわけだ。

原文:子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也。



【参考】

1、夷狄は中国文化の及ばない地域の蔑称であり、具体的には北狄、東夷、西戎、南蛮の総称。

2、諸夏は、中国という意味。



【まとめ】

能ある鷹は爪を隠す。

八佾 第三 4

【その4】

林放りんぽう礼の本を問う。子曰く、大いなるかな問いや。礼を其の奢らんよりは、むしろ倹せよ。そうは其のおさまらんよりは、むしいためよ、と。



【口語訳】

林放が礼の根本を尋ねた。孔子が答える。良い質問だ。儀礼は贅沢に飾るより、むしろ倹約したほうが良い。喪礼はおだやかに執り行われるより、むしろ深い悲しみがあったほうが良い。



【解説】

例えば、握手は代表的な儀礼だが、握手をする手が色とりどりの宝石で飾られていたら相手はどう思うだろう。親愛の証としての握手なのか、宝石を見せびらかすための握手なのか困惑させるかも知れない。ならば、宝石などで飾らず、むしろ素の手で握手したほうが誤解なく親愛の情が伝わる。故に、贅沢に飾るより、むしろ倹約が良いとなる。

例えば、葬式の祭、普段と変わらない調子だったらどう思われるだろう。人が死んだのに悲しんでもないのかと思われるに違いない。そして、中国では死人は地下の世界で生きている事になっているのだから、悲しまない事は死人のあらぬ誤解を招き祟られる恐れもある。故に、おだやかに行うより、むしろ悲しむが良いとなる。

林放は礼の根本を尋ねたわけだから、その答えは当然心となる。そもそも礼は、心を表現するために行われるのだから根本は心なのである。だから、孔子の言葉に、心が見えづらくなるからと言葉を足すと分かりやすい。儀礼を贅沢に飾ると、贅沢さに目がいき心が見えづらくなるから、倹約したほうが良い。喪礼がおだやかに行われれば、悲しみがあるはずの喪礼で悲しんでいないように見えるため、むしろ深い悲しみがあったほうが良い。



1、立派な官僚(君子)として

孔子の目指していた官僚の視点で考えて見る。官僚の世界で儀礼を贅沢に飾るとは、先輩官僚もしくは上役に目をつけられるという事だ。そう考えて見れば、何故孔子が儀礼は贅沢よりも倹約と言うかもスッキリする。官僚にとっての儀礼は、目上に一歩下がって合わせるべきもので、飾って自己を主張するようなものでは無い。例えば、歩く順番を間違っただけで、偉い騒ぎなのだから。

喪礼に際しては、例えば、父親の死に際して悲しむ様子が見て取れないならば孝行を疑われるだろう。孝行を疑われる事は反社会的を意味するのだから、王の謀反への猜疑心に火をつけかねない。それが他人の喪礼であれば、死を悲しんだ様子がなければ何と思われても仕方ない。悲しむべき時は悲しむが良いのである。



【参考】

1、林放は魯の人というだけで、孔子の弟子であったかは不明。

2、奢は過度に立派にする事、倹は無駄を省き倹約する事。

3、易の訳には議論があり、おだやかと訳す他に儀式が整うと訳す場合もある。この場合、葬儀が滞りなく進むより、多少の齟齬そごがあったほうが悲しんでいる様子が伝わって良いと訳す。

4、戚には親戚と言うように身うちと言う意味もあるが、今回は葬儀の話をしているので死事哀戚の戚として、深い悲しみという意味。



【まとめ】

見栄を張ると、大概は失敗する。