2018年9月30日日曜日

為政 第二 3

【その3】

老先生が言われた。民を法令で縛り、違反者に刑罰を加えるだけでは、民は抜け道を探して恥が無い。民を道徳によって導き、礼節をもって接するならば、恥を知り身を正す。




【解説】

因果応報と言うように、出したものが返ってくるのが道理である。真心を出せば、真心が返ってきやすい。真心を出さなければ、真心が返ってくる事は期待できない。では、政治ならばどうなるかと言うと、孔子の言葉がでてくる。人間は機械ではなく、情の生き物だ。これを忘れては国が乱れてしまう。ここが肝と思われる。




例えば、泥棒を考えて見る。泥棒はいけないと相場は決まっているが、盗みが悪い事と思っていない人間に幾ら諭しても埒が明ない。泥棒はいけないという道徳があればこそ、反省して盗みを悔い改める心も宿る。ならば、まずは泥棒はいけないという話が通じる人間を育てなくては、住みよい国は作れないだろう。人を見たら泥棒と思えは金言だが、本当に泥棒ばかりでは暮らしにくい。では、どうやって民に道徳を教えるかとなったときに孔子の言葉が活きてくる。



役人として地方に赴任したとしよう。そこは自分の考えている常識とは、まったく別の論理で動く人々が住む土地だったとする。こういう場合、往々にして、人は法令を笠にして従わぬ者は刑罰で取り締まれとなりやすい。それは確かに正しいし、ある程度は仕方がない部分はあるだが、それでは上手くいかないという話である。郷に入っては郷に従えと言うように、まずは相手の考えを良く把握し、お互いに良く理解しあうのが良い。そうして人間関係ができてくれば、ある程度わがままも聞いてもらえる関係にもなる。その頃には自然と上手くいくようになっていると考えても良いかも知れない。



現実問題として、何から何まで法令で縛るのは無理がある。法令の数が多くなり複雑化すると、一般の民には理解困難なものとなってしまう。理解できないものを守れと言っても、それは出来ない話だ。そのため、法令は民の理解できる範囲で制定せざるを得ず、後は道徳に頼らざる得えないし、それが良さそうだともなる。道徳には政策的な要請があるのだ。では、実際に道徳に頼って見るととなるが、これが理に適っている。法令は刑罰が付きまとうため、人に不快な思いをさせてしまいがちだ。道徳の場合は内面の規範であるため、あくまで自分の問題として処理される。不満が外には向きにくいのである。住みやすい国を作りたいならば、これは大変なメリットとなる。



北風と太陽という寓話を例にとれば、北風が法令だとすれば、太陽が道徳という関係にある。北風は太陽の熱が生じさせるように、道徳がまずあって、法令がそれを補う関係にある。そして、北風が吹くからこそ、太陽の有難みを感じれる事も忘れてはいけない。法令があるからこそ、道徳の有難みを感じれるという関係にある。








中国では、上に政策あれば下に対策ありと言う言葉があるくらい、政策には従わず、抜け道を探して喜ぶのが中国人一般の姿と言う話がある。こういう状況ならば、孔子が国造りにあたって頭を悩めた事は容易に察しが付く。孔子の時代も法令と刑罰によって民を導こうとしただろうが、いくら法令を作っても、いくら刑罰を厳しくしても、民は抜け道を探しヒョウヒョウとして恥じる事が無い。そこで思いついたのが、道徳の教育では無かったかと思われる。




中国の歴史を遡れば、多種多様な民族が商売をするために川沿いに集まってきたのが発端で、それが都市となっていったと言う。そこでは言葉も通じない者どうしが商品を持ち合い、あの手この手で商売をしていた。そんな状況だから、相手を騙してでもという感覚になるし、言葉も分からない役人が作った法令など守る気にもならない。強制されるなら抜け道を探せとなる。そこで共通の道徳を持つことへの要請が生まれた。こう考えると自然かも知れない。




彼らが陸地が無限に続くと思えるような大陸に住んでいるという事実も重要だ。日本などの島国では、逃げると言ってもすぐ海に阻まれるから、逃げきれるものでない。だが、中国は地平線の彼方にも陸地が永遠と広がっているため、逃げようと思えば逃げきれてしまう。そう言う状況下では、この場所にいづらくなれば他の場所に行けば良いという感覚になりやすく、悪い事しても逃げれば大丈夫となりやすい。これが中国に道徳が根付かない理由と紹介される。

逆に、何故日本では孔子が受け入れられたかと言うと、風土が大きい。日本は島国であるから、中国のように逃げ切れるほどの国土は無いし、だいたいは生まれた土地の近くで一生を過ごす。そうなると、周りはみんな顔見知りだし、顔見知りから泥棒したら喧嘩になって生きづらい。自然な形で、恥を気にしなければ生きづらい環境が出来上がるのだ。そのため、孔子の言う事が誠に正しく見えるのだと思う。道徳は逃げ道がないからこそ培われるのかも知れない。





【まとめ】

道徳という土が無い場所に、何の花も咲かない。





------  仏教の立場からの考察  ----

法令の抜け道への興味は薄れるし、自然と自ら正すようになる気がする。




2018年9月28日金曜日

為政 第二 2

【その2】

老先生が言われた。詩経300の詩を一言でおおえば、思いに邪念が無い。



【解説】

老先生が言われた。詩経300の詩を一言でおおえば、思いに邪念が無い。真心を養うための格好の書となる。


このように言葉を付け足して読むのが筋と思われる。詩経は孔子が編纂したと言われるが、その詩は男女の恋愛から国を憂うものまで様々ある。しかし、そのどれをとっても相手を騙そうという邪な思いは無く、真っすぐ本音を詩にしている。自分は、孔子はそのまま言っているという印象をもった。



詩経国風を読む




詩経を学ぶ事には大きく3つのメリットがある。まずは、詩を楽しむ心を養うという事である。詩を自分で作ったり、誰かが作った詩を楽しめるようになると、詩が憂さ晴らしとしての役目を果たすようになる。長い人生、思うようにいかない事も多い。息抜きをしなければ体がもたない。だから、詩でもやって息抜きしなさいとなる。そして、詩経を楽しめるようになると、詩経が本音を詩にしているという部分が活きてくる。つまり、本音ゆえに民の実態を把握できるのだ。民は普段本音を言わないだろう。だが、詩経を見れば等身大の民がいる。詩経は民の心理を理解する参考書なのだ。また、詩経が身に付いてくると詩経を引用できるようになるだろう。すると、王を説得する時などに詩経の一句を引用できる。自分の意見では棘が立ちやすいが、詩経に書いてあるならば聞く耳を持ちやすい。





------  仏教の立場からの考察  ----

まぁ、自由ってことかな。

2018年9月27日木曜日

為政 第二 1

【その1】

老先生が言われた。政は徳をもってなす。例えるなら、北辰がその所にあって、星々が共に巡るように。




【解説】

孔子が言わんとすることは上の画像を見ると分かりやすい。有徳者が政治を行うならば、画像に映る星々のように上手く巡行すると言っている。具体的には、北辰を真心、星々を人の比喩と考えるのが筋だろう。真心が人を惹きつける姿は、調度北辰が定まり、星々が共に巡るようなもの。これが国の規模になると政治と言うのだ、と。真心には形は無い。只そこにあるだけである。北辰に例えた理由もここにあると考えて見たい。

なお、北辰は位置の名前であり、星の名前では無い。孔子の理想とした周王朝の都から北の方角、地平線から上へ36度の位置を北辰と言い、北辰は動かないが北極星は動くという違いがある。ただ、位置では目印がなく分かりづらいため、厳密では無いがおおよそ合ってるという事で、北辰を北極星と解説するものが多い。



政治とは、北辰を定めるように、徳をもって国の行先を定める事だ。そうすれば、後は自然とついてくる。それはまるで北辰と共に星々が巡るように。こう理解しても良いのかも知れない。




徳を人気と読み替えれば理解しやすいかも知れない。つまり、人気がなければ政治は務まらない、もしくは人気者が望ましいと言う話である。人は結局のところ、好きか嫌いかだ。好きならば失敗しても許せるし、嫌いならば正しくてもいけ好かないとなる。ならば、為政者が好かれなければうまく纏まる道理がないと考えてどうか。実際、為政者が人気者ならば皆為政者のために良かれと働くから、特に監視しなくても一所懸命に働いてくれるし、我儘を言っても仕方ないとなる。逆に、為政者が嫌われ者の場合、皆あんな奴のために働くかと考えてしまうから、仕事は手をぬくし不正に走りやすく、我儘を言おうものなら陰口が蔓延する。好かれるか、嫌われるかで大分違うのである。




では、為政者が皆に好かれるにはどうしたら良いかとなるが、この好かれる要素を孔子が大きく五つに分けたと言う話が、仁・義・礼・智・信となり、これを五徳と言う。より具体的に言えば、思いやり深く、正義感をもって、礼式や作法に通じ、道理をわきまえ、約束を守る人間なら皆に好かれるだろうと考えたのである。勿論、これは絶対的価値観ではないため、自分はそう思わないと言う人もいるだろう。例えば、正義感を持った奴は目ざわりと考える人は多いかも知れない。綺麗事ばかり言うな、と。ただ、為政者は数多くの人間を相手にするため、大切なのは美人投票的な感覚となる。だれが一番美人かをみんなで決めるのだから、自分の好みではなく、みんなが好きそうな顔を選ばなくてはいけない。五徳もそれに似てる。思いやり深く、正義感をもって、礼式や作法に通じ、道理をわきまえ、約束を守る人間なら数多くの人間に好かれると予測したのだ。こう考えて見ると、有徳の為政者ならばより多くの人から支持され、例えるなら、北辰に多くの星が巡るようになるのも道理とわかる。





【参考】

中国は易性革命の国であるため、徳の有無は天が決めると考える傾向がある。易姓革命とは、天が地上の統治を徳のある人物に委任するのだという思想で、この考え方によれば、国が亡ぶのは王に徳がなくなったために天に見切られたという話になる。これだけならば、そんなものかと言う話で終わるのだが、中国ではこれを逆から捉えて、自分が王になれたのは天の采配なのだから、自分がやる事は全て天が許しているとして、王は傍若無人になりやすい。悪辣な振る舞いを正当化するための方便に、徳と言う概念が使われるのである。そのため、孔子の言っている徳と、日本人が考える徳は違うかも知れない。

昔から中国は50弱の民族が入り乱れる多民族国家で、異民族は犬や猫に等しいと考えたため争いが絶えない土地柄だ。そして、争いが続けば暮らしにくい民衆は、自然と絶対権力者のもとで争いを治めてもらう事を願ってきた。例えその者が横暴であっても、争って血を流すよりは良いと妥協するわけだ。孔子の言う徳治主義は、例え王が我儘し放題だとしても、その王が天に選ばれた以上は、言わば北極星である。北極星のまわりを数多の星が巡るように、王の回りには自然と人が集まり世の中は治まるようできていると解釈しても自然な流れとなる。




------  仏教の立場からの考察  ----

北辰を掴もう。

2018年9月25日火曜日

学而 第一 16

【その16】

老先生が言われた。人が自分を知ってくれない事に心配はいらないが、自分が人を知らないとなれば心配だ。




【解説】

真心で生きるとは、つまりそういう事となる。実際にそう思えているかを確認すると良い。思えていればそのままの方向で歩む。思えてなければ道を違えている。



世間が自分の力量を認めてくれない事に心配はいらない。自分に実力が備われば、評判は後からついてくるから。逆に、自分が他人の力量を感じ取れない事は心配だ。それは力量不足を意味するから。山が登るほど見晴らしも良くなるように、人は自分より下の者の力は良く分かる。それは素人に将棋の名人の指し手は分らないが、名人からは素人の考えなど丸わかりと言うようなもの。



士官という視点で考えて見ると、まず必要なものは評判である。それも良ければ良いほど好ましく、それほどの者ならば是非会ってみたいとなるのが理想的である。ただ、この評判という部分が曲者だ。悪事千里を走ると言えど、良い評判が広がるには時間がかかる。少なくとも数年は見なければ、世間が認めてくれる雰囲気は醸成されないのが普通であろう。焦らないで待てるという資質が意外に重要なのだ。この意味で孔子が弟子を諭した場面を想像しても自然かも知れない。世間が認めてくれないからと言って心配はいらない、と。一方で、自分が他人の力を認められない事は憂うべき問題となる。他人の力量を計れなければ、士官が適った時に部下を使いこなす事はできまい。自分の力を認めてくれないと、部下にも同じ不満を持たれる事になる。これは大問題である。



出入口と言う言葉があるが、なぜ入出口と書かないのかと言う話がある。それは出す事が先で、出すと入ってくるものだからと言う。自分が先ず人を認めるからこそ、人が自分を認めてくれる事を知らねばならない。この意味で、「人を知らざるを患う」を解釈しても良い。まず自分から人に興味をもって接する事が、自分に興味をもってもらう秘訣なのだ。人間生きていれば、人が自分を認めてくれないと嘆く事もあろう。そういう時は得てして他人には気がまわっていなかったりする。冷静に自分を見つめよう。



毀誉褒貶は人の世の常と言う。そんなコロコロ変わるものに心を砕いてどうするか。それよりももっと確実なもの、つまり、自分の身の処し方に専念せよ。不思議と周りが気にならなくなる。





【まとめ】

この世は鏡のようなもの






------  仏教の立場からの考察  ----

自分でも自分が何なのか分かっていないから、人に自分を知ってもらおうにも何を知ってもらうのやら。困っている人を見たとき、自然と助けたくなる時がある。自分が人を知らない云々は、そういう心を育てなさいと言う話と思われる。




2018年9月18日火曜日

学而 第一 15 

【その15】

子貢が尋ねた。貧にあって諂うことがなく、富にあって驕ることがない。こういった人物はいかがでしょうか?老先生が答える。悪くはないね。ただ、欲を言えば、貧にあって楽しみ、富にあって礼を好む者であって欲しい。

子貢が言う。詩経に、切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如しとあります。そうおっしゃりたいのですね。老先生が答える。賜よ、君とは一緒に詩を談じれる。過去を尋ねて未来を知る力があるようだね。





【解説】

諂いも驕りもその心の在り方に問題がある。だから、心に真心を据える。すると自然と諂う事がなくなるし、驕る事もなくなる。ただ、心に真心を据えるところに無理があると、ストレスがたまり長続きしないかも知れない。その処方箋が楽しむ事であり、好む事になる。楽しみ、好めるなら、意識せずとも自然と真心で生きていける。よって、これを上とする。好きこそ物の上手なれである。

では、どうしたらそう生きれるかとなるが、その答えが切磋琢磨となる。切磋琢磨は文字通り解釈すれば生きる上での実感となり、言葉としては仲間同志高めあうという意味で使われるが、切磋琢磨するゆえに楽しみが生まれ好めるようになるという側面がある。この3つの面のどれもが味わい深い。この感覚が詩の妙味を談じさせ、将来の教訓とさせる。



貧しさの中にあっても、どんな手を使ってでも物を求めない人間とは、どういう人間だろうか。そうしないと生きていけないのなら、それは悪い事とも言い切れない部分がある。にもかかわらず、そうしないのだから、どうも他とは違うのは分かる。では、その理由はとなるが、彼には生き方に信念らしきものが感じ取れる。この信念らしきものは、教養人がわきまえるべき道理に適うものだから、彼はすでに教養人であると見る。これを子貢の質問の含意と考えて見たい。これを受けて孔子は可と答え、その上で道を学ぶと良いと示した(好道)。



富の中にあっても物力で偉そうにしない人間は、どういう人間だろうか。富は自信につながりやすいから、偉そうにふるまいたくなるのが普通だ。しかし、そうしないと言うのだから、どうも普通ではないと分かる。では、その理由はとなるが、やはり貧の場合と同じく、生き方に信念らしきものがあるらしい。この信念らしきものは、教養人のそなえるべき道理と親和性が高く、ゆえに彼はすでに教養人であると言えるのかも知れない。これが子貢の質問の意味と考えて見たい。これを受けて孔子は可と答え、その上で道理(礼)を好むようなら本物だと示した。



我々はとかく貧富に囚われがちだが、貧富にかかわらず、己の内面の充実を目指すのが教養人のあり方として正当である。ゆえに、骨や角を切るように、象牙を磋するように、玉を琢するように、石を磨するように、己を仕上げなさいとなる。こう捉えるのが本筋である。個人的には、心を加工するという発想も面白い。



過去から未来を知るは、いわゆる歴史に学ぶと言う事だろう。そのコツは、何故そのようなことを言うのか、又はそうなったのかを、自分なりに良く考えておくことに尽きる気がする。この点、速やかに切磋琢磨を引用した子貢は素晴らしいと言え、その練度の高さが窺える。孔子も思わず言いたかったに違いない。君は詩が使えるのか、と。



諂いも善し悪しで、お世辞が言えないようでも使えないとなる。だから、諂いは悪い事かと言われると、言葉の印象こそ悪いもののそうは言いきれない。例えば、接待の場面で相手のの機嫌をとらねばといった状況の時に、私は思ってない事は言えませんでは困るかも知れない。また、偉そうにふるまうと人の感情を逆なでする部分は確かにあるが、それが悪い事かと言われると、やはりそう言いきれない部分がある。例えば、偉そうにしてくれなければ誰が偉いのかが分からなくなり、秩序が乱れる恐れがある。その状態に慣れると威厳がなくなり、言う事を聞かなくなる者もでてくる。さて、ここをどう考えるかだ。各々その答えは変わるだろうが、自分なりに調和を模索する必要はある。その際の軽いコツとしては、上手くいかなくて当たり前と思う事だろうか。もともと無理を言っているのだから、と。



実際に諂らわないようにするにはどうしたら良いだろう。現実的には自分に自信があるかが鍵ではないか。実績もあるなら尚良いが、自分は役に立つ人間であるという自信があるならば、何も諂う必要は無いし、堂々と相手と交渉して自分を売り込めば良い。この意味で、貧乏であっても諂わないのは、その人物の実力の裏返しという見方もできるかも知れない。貧にあって楽しむ者の評価が高いのは、単純にみんな明るい人が好きだからと考えてもスッキリする。自分の気苦労を吹っ飛ばしてくれるようなゲンの良い人間が有難い。実力云々はさておき、運を奪いそうな根暗な人間は御免こうむりたいのが人情だ。こう考えてみれば、貧乏であっても楽しんでいる人間の評価が高いのも自然な流れである。



実際に驕っているという評判が立たないようにするにはどうすべきだろう。現実には、周りの人間は事実関係はさておき見下されていると感じているのだから、その誤解を解くという視点も大切ではなかろうか。それには、周りの者の相談に親身になってあげたり、ご飯をご馳走して労を労ったり、相手をしっかり褒めながら、自分は運が良いだけの人間だよとへりくだらねばならない。言葉遣いにも注意が必要で、上から言ってると言われぬようにする必要がある。こういった努力の結果得られるのが、金持ちなのに驕らないという評判なのかも知れない。こう考えて見ると、富にあって驕らないのは確かに人物らしい。さらに言えば、こういう事を仕方なしに行うのではなく、好んで行うならば本物の人格者になる。







【参考】

1、孔子の生きた時代は、食べ物が無くて餓死が度々あった時代だ。飢饉ともなれば、それこそ国民の何割という単位で死んでしまう。一般人にとっては、食べ物が死活問題になるほど貴重なものだったようだ。この事は中国人の食事や挨拶に現れていると言われる。皇帝は食べきれないほどの食事をつくらせ何故それを残すのか、彼らが「飯食ったか?」と挨拶するのは何故か、食事が貴重品であることの裏返しとなる。皇帝は食べきれないほどの食事で力を誇示したし、腹いっぱい食べれないから「飯食ったか?」と挨拶するようになったとか。


2、兵は詭道と教える孫子の兵法の裏返しか、実際に騙されることが多くなると、相手に諂わない人間はどう見えるだろうか?御しやすいと見られるか、それとも信頼できると好感を持たれるか。こう考えるのも面白いかも知れない。


3、現代ではマークシートなど○×式のテストなども良くあるが、孔子の時代のテストは難易度が高く、状況に合わせて詩を引用できるレベルでなければ合格とならなかったようだ。この点からも、孔子が何故子貢の答えに満足したかが伝わってくる。孔子は、子貢は詩経が身に付いている事を確認したのである。


4、「切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如し」の語源を辿る。この言葉は衛国の11代目君主であり、名君の誉れ高かった武公を称えた言葉だ。詩経によれば、彼は内からにじみ出る威厳を持つ人物であり、その佇まいを見ただけで只者では無い事が分かるのだが、自分の力を驕る事はなかった。それどころか臣下の諫言をよく聞き、礼によって自分を律する様を見て、民は彼の治世を大変喜んだと言う。にもかかわらず、自分に至らぬ点があったらすぐに戒めよと、向上の姿勢を崩さなかった。






【まとめ】

自分が変わると、世界が変わる。






------  仏教の立場からの考察  ----

真心は他人を思いやる心の意味で使われる言葉だが、目の前にある風景に真心があり、その感覚を他人に施せという話ではないかと思うようになった。すると、真心が思いやりという意味で使われる理由が分かる気がする。切磋琢磨に関連して言えば、一日真似すれば一日の仏、1年真似すれば1年の仏、一生真似すれば一生仏という言葉を思い出した。最近は日々嫌な感情が沸き起こったとき、いかに速やかに呼吸に戻れるかに興味がある。




2018年9月15日土曜日

学而 第一 14

【その14】

老先生が言われた。君子は飽食を求めることなく、安居を求めることもない。仕事はテキパキこなすが、言葉は慎み深く、人格者に師事しながら自らを正す。こういう人を学を好むと言う。




【解説】

真心が明らかになる。すると、興味関心が真心に移る。相対的に他への関心が薄れ、つきつめれば他は2の次になる。勿論、美食にあずかれば楽しむし、時にはリラックスも求めるだろう。だが、それが生きる目的にはなり得ない。ここが大切と思われる。仕事は誠意を持って取り組み、当たり前のことをしているという認識は言葉を慎しませる。間違いがあってはいけないからと師を欲し、結果として人格者に己を正してもらうようになる。そのより良く生きようとする姿に学を好む姿が見て取れる。




君子が理想的な官僚だとすれば、飽食を求めないのも、居心地の良い家を求めないのも、すでに持っているからとも想像できる。食べ物にがっついたり、城のような家に住みたいと言うのは、言わば貧乏人の発想であるから、王に仕える優秀な官僚の考える事ではあるまい。彼らは王の食べる美食の残りを頂くこともあろうし、すでに城内、もしくは付近の居心地の良い場所に住んでいるはず。物事(王命)を機敏にこなすのは役人として当然だが、その事を自慢したりはしない。自慢などすれば、妬まれるし、揚げ足を取られる事もでてくるから。そして、有徳者に師事するのは、上から生意気だと思われないためだと思えばしっくりくる。上のメンツをつぶさないためにも、意見がある時は、まずは上(有道)に正してもらうのであろう。こう言う人間であれば、上からみて可愛げがあり、彼は学問が好きなんだと言ってもらえるという訳だ。こう実益で考えては本筋から離れてしまうが、こういった周りに気を配る姿勢は大切と思う。




別の解釈を示せば、孔子が士官を求め旅をしていた事を想像してはどうだろうか?彼が旅をする間、満足に食事をとれただろうか?居心地の良い場所で眠れる日ばかりだったろうか?そう考えて見れば、弟子を労うために君子は飽食を求めず、居心地の良い場所を求めないと言ったのかもと思うのだ。孔子と一緒に旅をしている弟子は、孔子の世話を機敏にこなしただろうし、孔子の前では言動を慎んだはず。そして、有徳者である孔子に良く師事し自らを正してもらっていたわけだから、孔子が弟子を労ったとしても自然な流れだと思われる。




他にも、学問が本当に好きな人は、学問ばかりでそれ以外に興味が無いと考える処から解釈しても良い。本があれば、他は何もいらないといった類の学者先生というイメージである。こう言う人は飯代を削ってでも本を買うし、研究にしか興味がないから住む場所は寝れれば良いと思っていたりする。そして、いつも本を読んでいるから何でも知っていて、何を聞いてもすぐに答えてくれるが、上には上がある事を知っているため言葉には謙虚なところがある。学問好きなのだから、偉い先生に師事して学んでいる事が多い事も頷ける。



君子を壮年から老年だと考えて見ると、食欲は年がくれば自然とおさまるとも言える。政治にこれで良いという終わりはなく、民の暮らしの安寧、敵国の状況など、考えることは尽きないと思えば安居を求めないのも頷ける。仕事は慣れの問題が大きいからテキパキこなせないようでは立派とは言いづらく、言葉を慎まねば時には相手を怒らせ仕事に差しさわりがでるだろう。人格者に師事するのも、独りよがりにならないためには必要な処置だ。





【まとめ】

真心を明らかにしよう






------  仏教の立場からの考察  ----

修行はかくあるべし。真心は無心のことか? 

2018年9月12日水曜日

学而 第一 13

【その13】

有先生が言われた。約束は道理に近づくほど守られる。うやうやしさは、礼に近づくほど恥辱を遠ざかる。人に頼るにも、信頼できる相手でなければ頼み甲斐がない。


有先生が言われた。約束は道理に反するほどでなければ、言ったとおりにして良い。うやうやしくしても、礼に反するほどでなければ恥辱を受けない。人へお願いするときは、その親しむべきあり方に反するほどでなければ、お願いして良い。




【解説】

表から見るか、裏からみるか、口語訳を2つ示す。



ここでは無理なお願いをされたケースを考えると良いかも知れない。人間は機械ではないのだから、何事も杓子定規とはいかないもの。時には無理は承知だが、そこを何とかできないかとお願いされる事もある。そういうときは、相手の事情をきちんと斟酌し、道理に反するほどでないならば真心を以って対応する。つまり、言った通りにして良いとなる。そもそもルールとは、守れないからこそルールとして規定しなければならないと言う側面がある。それを杓子定規にルールはルールだと押し通してばかりでは、人間関係は上手くいかなくなる。そっと情を添えてあげるくらいが調度よい塩梅と考えよう。



約束は守るのが当然とは言え、どんな約束でも守らねばならないかと言えばそうではない。道理に反する約束はそもそもしてはいけないのだが、もし何らかの事情でする事になった場合でも、そこは真心に照らして考え直すべきと言える。社会通念上も至極当然の話と思うが、あえてそれは何故かと問うならば、真心から信が生まれるのであって、必ずしも信から真心が生まれるわけでは無いと理解するのが君子らしい。ゆえに、信を理由にして真心に反してはならない。これが君子にとっての義である。



例えば、新しく仲間入りするときや、初めて上役へ挨拶するときを考えて見ると良い。どうしたら失礼に当たらないのか迷った経験がある方も多いはず。そんな場面でのアドバイスをしている。例えバカ丁寧であっても、礼に反するほどでないならば大丈夫だよ、と。基本的に丁寧であるほど相手を歓心させ、言い換えれば恥辱から遠ざかるのが人情と思われる。



逆に礼から遠ざかる場合は気をつけねばならない。礼は敬意でもあるから、礼から遠ざかるほど相手には軽視したと受け取られる。軽視されたと感じた相手が、気分を良くするとは考えにくい。もし不快な思いをさせたのなら、恥辱を受けたとしても当然の成り行きになる。



親しむべきあり方を真心と解釈するのが本筋と思われる。そのお願いが真心よりでたものであるならば、多少度を超していたとしてもお願いして良い、と。ただ、実際の人間関係は貸し借りの清算の部分があり、何時も世話になっているからと言ってもらえるようでなければ無理は利かない。そのためには、常日頃から頼まれごとは断らないなど、周囲との信頼関係を構築することが必要になってくる。これを狙ってしては君子らしからぬと言わざる得ないが、君子の道は一日にして成らずと言う意味では抑えたい。



因不失其親、亦宗可也

余談だが、この部位は原文の解釈が複数ある。ここでは因を心の動き、親を真心、宗を中心と言うほどの意味でとらえ口語訳とした。原文を直訳するならば、心から沸き起こってくるものが、真心を失っていないならば、中心にそえるのも可となる。これを意訳して口語訳となる。他の例を示せば、因を姻族の姻とする説があり、この場合の親は親族(宗族)を意味する。この場合、姻族(妻側の親族の事)とも親しくやれるようならば、宗家の主としてやっていけると訳すケースもあるし、姻族とも親しみの度がすぎない程度に助け合いなさいとするケースもある。中国は夫婦別姓が基本であり、日本とは異なり子共ですらお母さんは別の家と言う文化だ。彼らは血筋をとても大切にするため、有子は姻族との付き合い方にも触れているのかも知れない。いつの世は奥方は強いものだから、当然と言えば当然の話ではある。



有先生が言われた。約束は道理に反するほどでなければ、言ったとおりにして良い。うやうやしくしても、礼に反するほどでなければ恥辱を受けない。その心が真心から遠く離れていないならば、そのままで良いんだよ。


こう言う訳も自然かも知れない。



実利的に考えて見る。道理に適わぬ約束は、長い目で見れば自分の首を絞めるかも知れない。トカゲの尻尾切りにあうかも知れないし、罪をそっくり擦り付けられてしまう事もある。そのため、約束が道理に適っているかどうかしっかり判別して、できるだけ弱みをつくらないことだ。失礼に問題があるとすれば、礼はされて当然という空気が出来上がっているからであろう。そんな中で礼を怠れば恥をかくのは致し方ない。ただ、礼はそこまで厳しくは審査されないという部分があり、一通りこなしていれば恥辱を受けることは考えにくい。通常はみんなと同じようにしておけば良いといった類のものとなる。人に頼る時に信頼できる人間を選ぶ理由は、信頼できなければ頼んでも安心できないからである。本当に大丈夫かなと思いながらでは、どうしても心に不安が残る。人間はやはり安心したい。





【参考】

孫子の兵法では、人を動かすのは利だと言っているように、中国人が人を信じる基準は、その人にメリットがあるかどうかという話がある。有子は道理に適っているなら約束を守れと言っているが、道理にはこういったニュアンスもあるのだろう。多種多様な価値観の人たちが一緒に暮らす中国では、言葉一つとっても同じとはならないし、何を良しとするかも一致しない。そうなると、まずは自分と相手では同じ価値観を共有していない事を受け入れなければ上手くいかない。自然と相手の利を探るようになる土壌が整うのだと思われる。





【まとめ】

腹八分目が調子良い




------  仏教の立場からの考察  ------

学生時代に真面目に取り組んだ学生ほど、卒業後に檀家と問題を起こすという話を聞く。逆に、学生時代に不真面目だった学生は、卒業すると檀家と上手くやれる場合が多いとか。人間なかなか杓子定規にはいかない。




2018年9月10日月曜日

学而 第一 12

【その12】

有先生が言われた。礼においては和やかさが大切だ。過去の偉大な王達も、それを良しとしてきた。とは言え、何から何まで和やかであれば良いわけではない。和やかさが礼の要と知ると和やかさばかり求める者がいるのだが、和やかさの中にも礼による節度がなければ、またこれも上手くはいかない。





【解説】

礼は心の所作である。どんな心を込めるかで、まったく別の印象を与えてしまう。だから、真心を込める。すると、その心が伝わり和やかになる。ここが大切なところだ。では、和やかならば良いのかと考えたくなるが、例えば、酒宴の席で泥酔した姿を考えると良い。和やかかも知れないが美しいとは言えまい。お酒を飲んでいても、節目節目ではきちんと折り目正しいのが大人の飲み方と言うものである。万事そういう部分があると言う話になる。



人は2つの人格をもっていて、個人的人格の他に社会的人格があると考えても良いかも知れない。個人的人格の付き合いでは許される事も、社会的人格の付き合いのなかでは許されない事はしばしばある。例えば、本音ではそう思っていなくても、立場上仕方なくという事は誰にでもあるだろう。礼においては社会的人格が求められる。当然、節度がなければ上手くいかない。しかし、それだけでは機械的になりすぎて殺風景になるため、そっと情を添えて和やかさを演出するのが大切という順番でも説明できる。



実利的な側面を考えて見る。人間がよくしてしまうミスの一つに無礼講がある。酒宴の席では、上役から「今日は無礼講だ」というセリフを良く聞くかも知れないが、本当に無礼講をしてしまって左遷されるというのもままある話である。では、どうしたら良かったのかとなるが、だから言う。和やかさの中にも節度がなければ上手くはいかない、と。



役人には序列がある。序列どおりの礼が要求されるのも当然と理解するのも良い。




聖徳太子の17条憲法で有名な「和を以て貴しと為す」は、論語のこの一節を参考にしたようだ。「和を以って貴しと為す」と言うと、仲良くやる事が大切と勘違いしやすいが、本来の意味はそうでは無い。会議などでみんなで話し合いをすると、なぁなぁとなってしまい誰も意見を言わない事があるが、それを戒めた言葉が「和を以って貴しと為す」のようだ。話し合いで相手が自分の意見と違うからと言って、喧嘩してはならない。和を大事にして、存分に話し合いなさいと言うわけだ。相手の気持ちを忖度して意見を言えないのもいけない、だからと言って、喧嘩するのもいけない。調和をとりながら上手くやるのが良い。そして、相手と喧嘩しないようにするには、相手の身分にあった応対が必要なのは当然だから、自然と礼式や作法で節度を加えるという流れに落ち着く。





【まとめ】

無礼講、無礼講であった試しなし。






------  仏教の立場からの考察  ------

日々の生活では和やかさが大切だ。偉大なる先人もそれを良しとしてきた。ただ、何から何まで和やかであれば良いと言うわけにはいかない。やはり修行の身であるのだから、きちんと戒律を守り、和やかさのなかにも節度をもたねば上手くはいかないよ。