【非風非幡】
風に聞いてみては如何ですかな?
1、なぞかけ
非風非幡とかけまして、円満な結婚生活と解く。
その心は、半目くらいが調度良い。
非風非幡とかけまして、よく根付いた雑草と解く。
その心は、スパッと斬りたい。
2、不是風動、不是幡動、仁者心動。
(その1)
風が動くのではありません。
幡が動くのでもありません。
お二方の心が動きなのです。
(その2)
心動かすのは、思いやり(仁)のみ。
3、不是心動。
(その1)
心が動きだとすると、動きという観念に固定される。
動きを止めては、動きでなくなる。
心 = 動
(その2)
本物の仁は無為自然である。
4、関連性という視点
風は幡が動かなければ、あるか分からない。風の動きを認識させるのは幡である。風が吹かねば、幡は動きを得られない。幡の動きは風によって認識される。ならば、風と幡は別々のものとして考えるより、同じものとして考えたほうが筋が良いのかも知れない。実際、風や幡という名前は便宜上つけたのであり、本来これが風であり、これを幡とするといった決まりは存在しない。区別をつけられないのだ。では、風と幡が同じものだとすると、世界に対する定義は全く変わってしまうが、それが本来の姿なのである。
実はこれと同じ事が自分と風、自分と幡にも言える。自分が認識しなければ風も幡も存在せず、風と幡が存在しなければ自分もまた存在できない。風と幡を認識しなければ、自分と他を分ける必要性がなく、自ずから分かれないのだ。自分と風と幡は互いに存在するための必要十分条件なのである。では、自分と風と幡を同じものとして捉えると何が動くのかとなると、強いて言えば内臓のようなもので、動いているはずだがその動きを意識することはないとなる。もし意識することがあるなら健康が損なわれた時と考えるなら、人間は錯覚という不治の病にかかっていると言える。
5、往復曾未契理
幡の動きは風によって生まれるとするのが通常の感覚だが、妄想を取り除くという意味では、風によって動かされるという部分は余計とも言える。何故なら、それが妄想そのものだから。だが、そう考えるなら幡が動くという感覚も余計となり、幡自体すらが妄想ともなる。では風に着目したほうが理に適うと考えると、風が動くとなる。しかし、風だけでは風の動きは分からない。分からないのでは妄想は取り除けても何もなくなってしまう。何もないでは納得いかないとなれば、やはり旗が動くとするべきかとなる。堂々めぐりである。
6、感想
冒頭に「因みに風刹幡を颺ぐ」とあるが、風が法を説くと解釈してみたい。生きるという事は、それ自体が禅問答というメッセージではなかろうか。また、実践的には、何事にも心を込めて生きればそれで良いので、その意味で六祖が心が動いてると指摘したとも考えてみたい。