2017年8月29日火曜日

般若心経の解説 その2

観自在菩薩

観自在菩薩は観方を自在に変えられるという菩薩様で、仏教の経典は様々あれど、この般若心経のみに登場する菩薩様だそうだ。余談になるが、般若心経とは自分を客観的に見つめなおす事で悩み苦しみに対処しようという教えであるため、観方を自在に変える事にこそ般若心経の極意があるかも知れない。理解が進めば、なぜ観自在菩薩でなければいけないのかに合点がいくようになる。



行深般若波羅密多時

漢字を順番に解釈すると分かりやすい。最初に行く深くにと書いてある。では、何処に行ったの?と気になるが、それが般若波羅密多という事だ。つまりこの部分は、「瞑想で般若波羅密多に深く深く入られた時」というイメージになる。なお、般若波羅蜜多とは最高の知恵、または知恵に辿りつくための道という意味だ。



照見五蘊皆空

照見は照らし見ると読めるが、見ている所を照らしたらはっきり見えるはず。つまり照見はそう言う意味となり、はっきり分かったというニュアンスになる。では何がはっきり分かったのかが気になるが、それが五蘊が皆空であるという事だ。

五蘊とは、色・受・想・行・識の5つの要素の事だが、説明は後でするため、ここでは「ありとあらゆる物」と単純に考えて欲しい。つまり、照見五蘊皆空は「ありとあらゆる物が皆空であると分かった」という訳になる。



度一切苦厄

度と言われても、温度や湿度というイメージしか浮かばない言葉だと思うが、道理の分からない奴を度し難い奴と言ったりするだろう。要はその逆である。つまり、度し難いのではなく、度したのである。では、何を度したのか気になるが、それが一切の苦厄だ。苦厄とは漢字の通りの意味で、苦しみと厄(わざわい)だ。

つまり、度一切苦厄は「一切の苦厄から解き放たれた」というイメージ。



舎利子

舎利子はお釈迦様の弟子の中で知恵一番と言われた、シャーリプトラの事だと言われる。しかし、シャーリプトラはすでに悟りを開かれた方であり、まだ修行中の身である菩薩の身分の観自在菩薩に教えを乞うのは可笑しい。よって、そのまま受け取ると般若心経があべこべになってしまうため注意して欲しい。

シャーリプトラがまだ子供で悟りを開かれてなかった時に、観自在菩薩様から教えを頂いたと解釈するか、単に仏弟子の事と解釈するのが適当だろう。般若心経によって学びを得ようとする私や貴方を舎利子と言っているとすれば、何ら不自然さがない。

舎利子とは、観自在菩薩様が良く聞きなさいという意味で、後進の仏弟子に向け声をかけている様。名前を呼びながら説法されているというイメージを持てば良いだろう。(舎利子=仏弟子)






【まとめの訳文】

観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子

観自在菩薩曰く。般若波羅密多を深く知るならば、ありとあらゆる物が皆空である事が分かり、一切の苦厄から解き放たれる。舎利子よ、良く聞きなさい。


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