2017年8月31日木曜日

般若心経の解説 その5

受想行識

受想常識は、五蘊の4要素となる。受想行識に色を加えて五蘊と言う。では、観自在菩薩が言う五蘊皆空の五蘊の中身を見て行こう。

受はリアクションの意味となる。悲しくて泣く、楽しくて笑うなどが受だ。受と言う漢字が使われる言葉に受け身があるが、受はそのままそういうイメージとなり、何かを受けるから受と言う。想は想像の想で、意味もそのまま想像する事。行は行動の行で、意味も行動する事となる。受がリアクションなら、行はアクションだ。識は知識の識で、意味も知る事を指す。受想行識の各字がどういう使われ方をするかが、そのままその意味となっているため覚えやすいと思う。


受 ・・・ リアクション
想 ・・・ 想像する事
行 ・・・ アクション
識 ・・・ 知る事



亦復如是

亦は「やく」と読むが、「また」と言う意味。復は復習とかに使う通り、繰り返すというイメージで、如是はこの如しという事。亦復如是は、また繰り返す事この如しという事。



【まとめの訳文】

受想行識 亦復如是 舎利子

受想行識も、またまた是の如し。舎利子よ。分かるか?


解説すると、ここでは受想行識も空であると言ってて、是の如しは色即是空を指している。では、なぜ受想行識が空なのか?それは受想行識は人間の活動だからである。人間存在が空なのだから、人間の活動である受想行識も勿論空となる。




般若心経の解説 その4

(その3に引き続き、色即是空を説明する)

前回は水を例にして説明したが、例えば人間を考える。人間は死ねば火葬場に送られ焼かれるが、果たして人間は死んだのだろうか?勿論、人の形は成す事はできなくなったが、その人を構成した水分は空気中にばら撒かれただけである。肉はどうだ?灰になり、匂いとなりやはり形こそ変われど無くなったわけでは無い。その人を構成していた物質は何一つ損なわれていないのに、本当にその人は死んだのだろうか?

人は死んだあと空となるのである。人間は空気を人の死骸として認識はしていないが、実際は人の死骸だったものを吸っているのである。そして、これは人に限ったわけでは無い。動物も死ねば空となるし、植物も朽ちて最後は空となる。山ですら長い時間の間には風化し、海を埋め立て平野を作る。大理石の建物として有名なピラミッドですら、2500万年後には風化してなくなると言われている。ありとあらゆる物が風化し、やがて空になるのである。

我々は何を見ても、それは元々あると考えている。石をみても、川をみても、木をみて元々なかったとは考えない。しかし、本当にそうだろうか?もともと有るものは無くなりはしない。もともと有るのだから無くなることもないのである。しかし、世の中を見れば、ありとあらゆる物が風化し姿を変え、最終的には無くなって行くでは無いか?有るものは無くらないのだから、全てのものは元々無かったのである。

形無きがゆえに一時形を得る事がある。しかし、もともと無いのだから、やがて形は失われ空に帰っていくのだ。空は色となり、色は空となるというイメージがつかめただろうか?この後、まだまだ般若心経は続くが、全てこの色即是空が根本となり話が展開されていく。空と言う概念が分かってるか確認作業を丁寧に行うように話が進むので、しっかり色即是空を掴んでもらえたらと思う。






2017年8月30日水曜日

般若心経の解説 その3

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色

「色は空に異ならず。空は色に異ならず。色は即ち是(これ)空なり。空は即ち是(これ)色なり。」という訳になる。訳から漢字を見れば納得いくだろう。この部分は、色と空は同じであるという事を4つに分け説明している。(色=空)

では、色とは何か?空とは何か?という事になるが、両方とも字のままの意味だ。色は、色のついている物の事であり、空は空気の事と捉えて良い。と言うのも、お釈迦様は人を見て法を解けと言った先生であり、誰にでも分かるように説明する事を尊ばれた方だ。その先生を祖とする仏教の経典が、理解しづらく作ってあるはずがない。つまり、字のままのイメージで良い。

般若心経が難解と言われる事があるのも、色や空が何か特別な事を言っていると思えてしまうのも、昔は難しい事を有難がる風潮があったからだと思われる。理解できないものを有難く奏上するのが坊主の腕前という冗談も言われた時代があり、誰にでも理解できたら誰も有難がってくれないと考えられたため、般若心経は難しいというイメージが定着したのだろう。実際の般若心経は理解しづらくは作られてないため、お経の字のまま素直に受け取っていけば理解できるように出来ている。


色 = 色のついているもの 
空 = 空気






さて、色と空の解釈が分かったとして、色と空が同じとは変な事を言うと思わないか?色のついているものと、色のついていない空気が同じとはどういう事だ?その答えは質量保存の法則にある。

例えば、鍋にいれた水を沸騰させれば、いずれ鍋の中の水はなくなる。しかし、本当に水はなくなったのだろうか?水は確かに鍋の中からは無くなった。だが、水は湯気となり、空気中に湿気として分散しただけで、水そのものが無くなったわけでは無い。人は湿気となった水を空気としてしか認識できないがために、鍋に入っていた水がなくなると、水がなくなったように感じるだけなのである。空気中も含めた全体としての水は一切減っていないのだから、これにて質量保存というわけだ。

色と空が同じと考える時のポイントは、湿気となった水は人間は空として認識しているという事だ。水は色として認識するが、湿気となった水は空として認識する。同じ水なのに関わらず。空気中の水分と、コップの水に差はあるだろうか?人間が水として認識できているかの差こそあれ、同じ水である。

逆に考えて見よう。我々が普段飲んでいる水は、元をただせば空気中の湿気が暖められ上空で雲となり、雨となって降り注いだものだ。これを空という概念で説明すれば、空だったものが水となったと言え、我々が普段飲んでいる水はもともとは空だったと分かる。このイメージがとても大切だ。飲み水は般若心経では色と説明されるのだから、色は空が形を得たものと言え、空が形を得ると色と言われるとも言える。色と空が同じとは、つまりそう言うイメージだ。

空のなかに色がすでに存在していて、空が形を得ると色と呼ばれる事に気づけば、空と色に違いが無い事のイメージもつかめるだろう。(単純に空気中の水分とコップの中の水に差なんてないという理解で十分だが)

今回は水を例にとっているが、ありとあらゆる物は風化するわけで、ありとあらゆる物のなれの果てが空気中に舞っているが、それを人間は空気としか認識していない。ありとあらゆる物が水と同じ理屈で説明出来るために、色即是空となる。なお、この部分は般若心経で最も核となる部分であり、この空の概念をつかめたかどうかでその後の理解が変わってくるため、次回も引き続き説明する。




2017年8月29日火曜日

般若心経の解説 その2

観自在菩薩

観自在菩薩は観方を自在に変えられるという菩薩様で、仏教の経典は様々あれど、この般若心経のみに登場する菩薩様だそうだ。余談になるが、般若心経とは自分を客観的に見つめなおす事で悩み苦しみに対処しようという教えであるため、観方を自在に変える事にこそ般若心経の極意があるかも知れない。理解が進めば、なぜ観自在菩薩でなければいけないのかに合点がいくようになる。



行深般若波羅密多時

漢字を順番に解釈すると分かりやすい。最初に行く深くにと書いてある。では、何処に行ったの?と気になるが、それが般若波羅密多という事だ。つまりこの部分は、「瞑想で般若波羅密多に深く深く入られた時」というイメージになる。なお、般若波羅蜜多とは最高の知恵、または知恵に辿りつくための道という意味だ。



照見五蘊皆空

照見は照らし見ると読めるが、見ている所を照らしたらはっきり見えるはず。つまり照見はそう言う意味となり、はっきり分かったというニュアンスになる。では何がはっきり分かったのかが気になるが、それが五蘊が皆空であるという事だ。

五蘊とは、色・受・想・行・識の5つの要素の事だが、説明は後でするため、ここでは「ありとあらゆる物」と単純に考えて欲しい。つまり、照見五蘊皆空は「ありとあらゆる物が皆空であると分かった」という訳になる。



度一切苦厄

度と言われても、温度や湿度というイメージしか浮かばない言葉だと思うが、道理の分からない奴を度し難い奴と言ったりするだろう。要はその逆である。つまり、度し難いのではなく、度したのである。では、何を度したのか気になるが、それが一切の苦厄だ。苦厄とは漢字の通りの意味で、苦しみと厄(わざわい)だ。

つまり、度一切苦厄は「一切の苦厄から解き放たれた」というイメージ。



舎利子

舎利子はお釈迦様の弟子の中で知恵一番と言われた、シャーリプトラの事だと言われる。しかし、シャーリプトラはすでに悟りを開かれた方であり、まだ修行中の身である菩薩の身分の観自在菩薩に教えを乞うのは可笑しい。よって、そのまま受け取ると般若心経があべこべになってしまうため注意して欲しい。

シャーリプトラがまだ子供で悟りを開かれてなかった時に、観自在菩薩様から教えを頂いたと解釈するか、単に仏弟子の事と解釈するのが適当だろう。般若心経によって学びを得ようとする私や貴方を舎利子と言っているとすれば、何ら不自然さがない。

舎利子とは、観自在菩薩様が良く聞きなさいという意味で、後進の仏弟子に向け声をかけている様。名前を呼びながら説法されているというイメージを持てば良いだろう。(舎利子=仏弟子)






【まとめの訳文】

観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子

観自在菩薩曰く。般若波羅密多を深く知るならば、ありとあらゆる物が皆空である事が分かり、一切の苦厄から解き放たれる。舎利子よ、良く聞きなさい。


2017年8月28日月曜日

般若心経の解説

例えば、他人から見た悩みを考えて見よう。自分では凄い悩んでいても、他人からすると何故悩んでいるのか分からなかったりしないだろうか?本当を言えば、他人から見た悩みの姿が本来の悩みの大きさであるはずだ。だが、自分ではそうは考えられず、勝手に悩みを大きくし苦しんでいるケースが多々ある。無い処に勝手に悩みを作り上げ、それに悩み苦しむのだから、人間とは何と愚かなのだろう?

般若心経がどういった教えかと言えば、こういった性質のある人間の悩み苦しみへの処方箋となる。貴方が悩み苦しむのは般若心経を知らぬが故で、般若心経を知れば貴方の悩みは軽くなっていくはず。






般若心経は漢字のみで読みづらいが、漢字のまま受け取っていく事が大切だ。漢字から受け取るイメージの通りの意味になっている事が多いため、書いてある字を素直に受け取っていくと理解が進むだろう。以下、般若心経の原文は水色で区別し、下に説明と訳を書いていく。



仏説 摩訶般若波羅蜜多心経

直訳すれば、「仏様が説く、偉大な知恵にたどり着くための心の教え」と言う意味だ。この部分は単語の意味を知らないと訳せない。摩訶はサンスクリッド語でマハと言い、偉大とか、凄いという意味がある。それを中国語で当て字をして摩訶となっている。般若は日本ではお面のイメージがあるが、これは知恵という意味だ。摩訶般若とは、つまり偉大な知恵となる。

波羅蜜多も当て字なため漢字から伝わる意味は無く、ここでは修行的な意味で辿り着くと捉えておくと良い気がする。波羅蜜多は最高とか、悟りという意味がある言葉だが、それが転じて菩薩が行う修行を指すこともあるようだ。今回は摩訶との兼ね合いで、後者を意味として採用した。心経はそのまま心の教えとするのが自然だろう。


摩訶 ・・・ 偉大とか、凄いという意味。
般若 ・・・ 知恵
波羅密多 ・・・ 辿り着く(修行)
心経 ・・・ 心の教え


(その2へ続く)





 ---- 以下、余談 ----

長尾弘を参考。