2023年1月14日土曜日

無門関 覚書 16則

 【16則】鐘声七條

金色の 袈裟を着込んだ 枯れ芝生

辿り着いたは 兜率天かな


最近、運動中に思っていることを短歌にしてみた。

雲門和尚の日日是好日に因んで自分も一句言っておく。

日日是提唱、と。






道は日常ありふれたものでありながら、これに勝る宝は無いように思わせてくれるものではなかろうか。では道とは何かとなるが、道が知りたければ動画に使われいる画像を見ると良い。画像には道がありありと現れているから。これ得難きか、得安きか?得られたならば法華経の衣裏繋珠が実感できるはず。



2023年1月1日日曜日

無門関 覚書 15則

 【15則】洞山三頓

あるとき弟子が老子に尋ねた、「達磨大師は幼年のころ、世界で最も素晴らしい宝は法の宝であると言われたそうですが、法の宝は何処にあるのでしょうか?」。老子が言われた、「空を見てごらん」。弟子が空を見ると老子が言われた、「真実一路」。


TVドラマを見ていた。そこに登場した飲食店に真実一路という言葉が飾ってあった。以前なら何も思わずに通り過ぎたであろう。だが、禅を学んでいるからなのだろう。見た瞬間心に来るものがあった。そういう意味だったのか、と。そして出来上がったのが上記の公案(太字)である。しかし達磨大師も良く言ったものだ。世界で最も素晴らしい宝は法の宝と言われてみれば、確かにこれ以上の宝は無いように思える。と言うのも、ごくありふれた風景のなかに宝があると気づいてみれば、最も欲しいものは手に入っている、こういう感覚が生まれるからだ。しかもこの宝は奪われる事もないし、何処にでもある。まったく言う事がない。あとは其れと一つになれば良いだけなのである。なお、座禅はこの宝と一つになるいい練習なのだろう。自分は座禅を初めてまだ数週間で経験が浅いが、そんな気がしている。あらゆる場面が座禅と同じ要領のように思えるのだ。

さて、15則だが、心境告白の意味で「比べねば、苦しむことも、無かりけり」と言っておこう。とは言え、一指頭の禅をやりたくなる。真似はいけないと言われても、とっさに動くなら一指頭の禅をやってしまいそうだ。無門和尚の叩かれたほうが良かったか、叩かれないほうが良かったかという問いについては、何方でも良いと言うべきか、悟るかどうかには関係ないと言うべきか。雲門和尚は脚を折ったとき悟ったと言われているし、お釈迦様は座禅して明けの明星を見て悟ったと言われている。自分はまだ修行中の身なれど、般若心経の色即是空を解説しようとしたときに、ふと頭によぎった感覚がブレイクスルーになった。その感覚を一番若いころで思い出すのはスキーをやっている姿なので、おそらく子供のころにはすでにあった感覚だが、まさかこれを言っているのかという感じだった。しかし、この事を言っているなら自分は40年間同じことをしてきた事になると思えて、その時に色即是空・空即是色が解けた気がした。般若心経を自分の感覚で解説できるようになったのだ。これとは勿論無心の事である。叩く叩かないはメリハリをつける狙いであったのだろう。人間追い込まれると、死中に活を求め、何かしらの光明を見出すものである。だいたいは外れるが、たまには当たるものだ。






2022年12月22日木曜日

無門関 覚書 13則、14則

 【13則】徳山托鉢

ある時、弟子が老子に尋ねた、「末期の一句をお示しください」。すると老子が言われた、「いい天気だな」。弟子が言った、「はぐらかさないでください」。そこで老子は言われた、「わしははぐらかしたりせんよ。今日は富士山が見えるぞ」。弟子に何か気づきがあったようだ。


今回は末期の一句がテーマの一つと思われる描写があるため、自分の末期の一句を公案にちなんで示してみた(上記太字)。これはまだ40代で死を実感しづらい年齢というせいもあるかと思うが、生と死を分けて考えなくなってみれば、死は言わば通いなれた道という感覚になる。自分が生きているという感覚は結果論的であり、実際に無心になってから意識が戻るかは、戻ってみなければ分からない部分がある。この戻らないことを死と称しているのであるから、死とは無心のまま居つく事のように思える。ならば死を特別視することがあろうか?こう考えてみると、死にも不思議と親近感がわくものだ。では死を怖くないのかと言われると、怖い。拒否反応は出るだろう。では親近感と言う言葉と矛盾しているではないかと言われると返す言葉もないと言うか、同時にだと答えたい。通いなれた道という親近感もありつつ、同時に怖いのだ、と。ここら辺をとらえて般若心経で無老死亦無老死尽とあるのではなかろうか?恐怖は人間に備わった生存本能にねざした感情であろうから、なくそうと頑張らないほうが良い気はする。

さて、13則だが、雪峰の食事の合図もないのに何処に行かれるおつもりか?という質問に答えるなら無心、または其れも亦良し、と評したい。厳頭の末期の一句を得ていないという発言に対しては、末期の一句という考え方自体しなくなるという事実をもって末期の一句という気がする。つまり、得ていなくて良い。厳頭が徳山に耳打ちした内容は、「そのまんまで良いんだよ」とでも言っておこう。








【14則】南泉斬猫

和尚、道は示されていたはずですよ?

とは言え、これも一つの分別か。

みんなアベコベですな。










2022年12月16日金曜日

無門関 覚書 11則、12則

 【11則】州勘庵主

相手のことだけを考える。すると自己を忘れる。これが無我であり、慈悲の勘所か?そして、自分のために生きるという感覚が希薄になっていくと、なるほど、故に縁起と言うのかという気持ちになる。「皆様の旅が良きものであることを心よりお祈りいたしております」と言う気持ちにもなり、これが般若心経の陀羅尼の心かという気がしてくる。

さて、11則に一言だけ。三千大千世界、と。






【12則】巌喚主人

何をしても同じと気づいてみれば、特にやりたくないこともなくなったが、同時に特にやりたいこともなくなった。では無味乾燥な世界になったかと言えばそんな事はなく、空や川を見てこの感じを道と言ってるのかな?と思ったりする。それは言葉にならないし、言葉にしようという気持ちも思い浮かばず、不立文字には文字を立てようとすら思わないというニュアンスがあるのかと思うくらいだ。この感覚は無心を軸に世界をとらえ直す事で得られたものなので、私の主人公は無心である。だが、軌道修正は必要である。お金があってもやる事を変わらないと思いつつも欲しくなる時は欲しくなるし、相手を優先すると心がけてはいるが自己が優先してしまう事もある。別にこれは悪い事ではないが、欲はうまくコントールしていかないと道を踏み外しやすいから意識するに越したことはない。何をしても同じという理屈の上では気にすることない話だが、実践の上では致し方ない事と思う。浮世の義理と言うべきか。この辺に彦和尚の工夫を感じる。無無明亦無無明尽と言うことなのだろう。

結論として、12則は「喝!!」と吹き飛ばしたくなるような話である。なお、「騙されてはいけませんぞ」とあるが、誰が騙すのか?それは思考である。こんなことを考えていると、夢と現実の区別もあったものではないなと思う。







2022年12月9日金曜日

無門関 覚書 9則、10則

【9則】大通智勝

座っていれば仏になれるのか?という南岳和尚の問いかけを思い出すが、この問いかけは修行者にとって重要な意味があるのだろう。なんせ仏になるためにわざわざ出家してるのだ。座って仏に到達できなければ、なんのための座禅か、と。しかし、同時にこうも思うのだ。仮に座って仏になれたとして、その後どうするつもりなのだ?、と。仏になっても、なれなくてもやる事は変わらないではないか。ならば何故座禅するのか?と問われれば、知らんと言うほか無い。そういう風に考えるようになると、只管打坐も合点がいく。座るために座ればいいのだ、と。普段散歩しながら無心になるだろうし、掃除しながら無心になっているだろう。それと同じように座りながら無心になればそれで良い。勿論座る意味を見出そうとしても問題なく無心に誘われるはずだが、意味を見出そうとした分無心に焦点が当たりにくくなる嫌いがあるやも知れん。意味を見出そうとすると、意味ばかり考えてしまうから。

さて、9則に入ろう。大通智勝仏は道場で修行しているにも関わらず仏になれないとの事だが、なってもなれなくても同じことをするのだから、そういう事を考える必要ないと思う。修行に励むというなら、ただ修行に励めばよいと思う。修行のために修行する。仏になろうという気持ちはあっても良いが、その気持ちが我だよという事にもなる。我を滅そうと言いながら、行動では我に固執している。この矛盾を解決する良い方法は考えないこと。では、どうしたら考えずに済むかと言えば、自分は仏と凡夫に差はないと思えるというのがキッカケになった。仏になってもやる事は同じなんだから、もはや仏という言葉すら何の意味があるのかという・・・。











【10則】清税孤貧

何をやっても同じという事は、何をやっても間違いではないという事。何をやっても間違いではないという事は、すべてが正解であるという事。そんな気がしてくると、清税和尚へ言いたいことも自ずと決まってくる。それも亦良し、と。

とは言え、10則を考える上で増上慢は欠かせないのだろう。修行すれば修行するほど人間どうしても思い上がりがでてくる。自分はこんなに凄いんだ、えらいだろう、と。すると他人を見下すようにもなろうし、だれかに褒めてほしくもなる。人間臭くて良いとの趣もあるが、しかし考えてほしい。お前さんが歩んでいるのは仏道ではなかったのかな?、と。他人を見下すのが良いわけなかろうと気づけば、自分が今破戒していることに気づく。そういった自省を促すキッカケと考えるのも現実的だろう。修行に励んだ分、この初歩的なミスに自分では気づけないものだから、この公案をする妙味があるか?やはり人間初心に帰らねば。歩歩是道場である。









2022年9月30日金曜日

無門関 覚書 7則、禅の基本問答解答

 【7則】趙州洗鉢

禅を学び始めてしばらくたったが、最近は生と死の区別がなくなってきた。死を特別なことだと考えなくなったのだ。すると、ある心境の変化を自覚するようになった。末期の一句という言葉があるだろう。この言葉は禅僧が死に際に残す禅境を示す言葉といったほどの意味らしく、以前この言葉を考えたときはわざわざグーグル検索をしてどんな言葉があるのか調べようとしたし、実際に自分ならどういう言葉を残すかなどと考えてみたりした。禅の勉強をしているのだから自分も末期の一句を得なければと思っていたのだ。が、最近は末期の一句は日常の言葉そのものではないかと思うようになった。というのも、死が特別なことと思えなくなってみれば、死に際して特に言葉を残す必要もなく、末期の一句という発想がなくなってしまった。強いて末期の一句という言葉を使うなら、日常の言葉がそのまま末期の一句なのだと思えてくるのだ。

さて、7則を考えてみよう。和尚はご飯をたべたら鉢を洗いなさいと言ったらしいが、それもまた良し、そんな気がしてくる。何をしても結局することは変わらないのだから。






【禅問答の基本的質問の解答】

自分なりの解答を記しておく。


如何是仏       =  零 

如何祖師西来意    =  同 

如何仏法的々の大意  =  常

父母未生以前の一句  =  おはよう (raise and shine)




【8則】奚仲造車

一休さんが師より印可をいただいた時の詩として伝わっている、「有漏路より無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」にちなんで自分も詩を吟じてみる。




「無漏路より 有漏路へ至る 我が旅よ 雨ふるも良し 風吹くも良し」








p.s.

この詩が奚仲が造りし車だよ。



2022年9月4日日曜日

無門関 覚書 5則、6則

【5則】香厳上樹

禅とは一体何でしょうか?という質問に何て答えよう。この質問の面白いところは例え分かったとしても何も変わるところがないという点ではないか。そもそもこの質問をする意味が分からない。無心の存在に気づくとそんな気分になる。無心よりいでし我は、また時が立てば無心に帰るのみ。そして、帰った後はまた我となって現れる。その繰り返しを人生と仮に称しているのであり、それ以上でもそれ以下でもない。

ならば、公案に何て答えようか。香厳和尚が言われるように、確かに答えられないようでは聞いた人に申し訳ないかも知れない。しかし、答えても答えなくても同じである。答えるならば答えているうちに無心になるし、答えないならば答えないままに無心になるから。答える答えないという部分に注目するのではなく、無心の部分に注目するのがコツである。どうせ同じならば、趙州和尚にあやかってお茶でも飲みなさいときりだすべきか。臨済和尚のように一喝して迷いを断ち切るべきか。いや、真似はいけないというならば、自由に生きたら良いってことだよと言うべきか。ただ、今回の公案では木の上でぶら下がってる状態で答えなくてはいけないらしい。一見大変な難題に思えるし、無門和尚が言うように香厳和尚の悪毒は始末に負えぬという感じなのだが、「しかし」である。考えてみれば木にぶら下がっていても、ぶら下がっていなくても同じであろう。ぶら下がったまま無心になるか、ぶら下がらずに無心になるかの違いであるし。そう考えてみると木の存在はあってもなくても同じだなと思えてきて、気づけば木はなくなっていた。残ったのは無心だけか・・・。










【6則】世尊拈花

お釈迦様に会いに行ったら、突然花がでてきた。あまりに意外だったので、思わず笑ってしまったという自分がいる。とはいえ、迦葉尊者が笑ったその本当のところは分からないが、花は仏であろうし、お釈迦様は現物で仏を示したという理解でいいのかな?とは言え、花が仏だと感じようが、感じまいがすることは変わらないと思う自分もいる。そう考えてみると、難しいことは考えずに花を楽しみなさいという計らいかも知れない。色々考えてみるが、結局無心になるだけなのよね。考えるから悩みが生まれるのよね。



---- 追記----

サイクリング中に自然と微笑になる。心になにも掛かる事がなければ、自然と微笑になる。こういう体験をすると、これが拈華微笑の心ではないか?そういう気分になる。力が抜けてれば、勝手に笑顔になっているんだよね。