【15則】洞山三頓
あるとき弟子が老子に尋ねた、「達磨大師は幼年のころ、世界で最も素晴らしい宝は法の宝であると言われたそうですが、法の宝は何処にあるのでしょうか?」。老子が言われた、「空を見てごらん」。弟子が空を見ると老子が言われた、「真実一路」。
TVドラマを見ていた。そこに登場した飲食店に真実一路という言葉が飾ってあった。以前なら何も思わずに通り過ぎたであろう。だが、禅を学んでいるからなのだろう。見た瞬間心に来るものがあった。そういう意味だったのか、と。そして出来上がったのが上記の公案(太字)である。しかし達磨大師も良く言ったものだ。世界で最も素晴らしい宝は法の宝と言われてみれば、確かにこれ以上の宝は無いように思える。と言うのも、ごくありふれた風景のなかに宝があると気づいてみれば、最も欲しいものは手に入っている、こういう感覚が生まれるからだ。しかもこの宝は奪われる事もないし、何処にでもある。まったく言う事がない。あとは其れと一つになれば良いだけなのである。なお、座禅はこの宝と一つになるいい練習なのだろう。自分は座禅を初めてまだ数週間で経験が浅いが、そんな気がしている。あらゆる場面が座禅と同じ要領のように思えるのだ。
さて、15則だが、心境告白の意味で「比べねば、苦しむことも、無かりけり」と言っておこう。とは言え、一指頭の禅をやりたくなる。真似はいけないと言われても、とっさに動くなら一指頭の禅をやってしまいそうだ。無門和尚の叩かれたほうが良かったか、叩かれないほうが良かったかという問いについては、何方でも良いと言うべきか、悟るかどうかには関係ないと言うべきか。雲門和尚は脚を折ったとき悟ったと言われているし、お釈迦様は座禅して明けの明星を見て悟ったと言われている。自分はまだ修行中の身なれど、般若心経の色即是空を解説しようとしたときに、ふと頭によぎった感覚がブレイクスルーになった。その感覚を一番若いころで思い出すのはスキーをやっている姿なので、おそらく子供のころにはすでにあった感覚だが、まさかこれを言っているのかという感じだった。しかし、この事を言っているなら自分は40年間同じことをしてきた事になると思えて、その時に色即是空・空即是色が解けた気がした。般若心経を自分の感覚で解説できるようになったのだ。これとは勿論無心の事である。叩く叩かないはメリハリをつける狙いであったのだろう。人間追い込まれると、死中に活を求め、何かしらの光明を見出すものである。だいたいは外れるが、たまには当たるものだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿