座っていれば仏になれるのか?という南岳和尚の問いかけを思い出すが、この問いかけは修行者にとって重要な意味があるのだろう。なんせ仏になるためにわざわざ出家してるのだ。座って仏に到達できなければ、なんのための座禅か、と。しかし、同時にこうも思うのだ。仮に座って仏になれたとして、その後どうするつもりなのだ?、と。仏になっても、なれなくてもやる事は変わらないではないか。ならば何故座禅するのか?と問われれば、知らんと言うほか無い。そういう風に考えるようになると、只管打坐も合点がいく。座るために座ればいいのだ、と。普段散歩しながら無心になるだろうし、掃除しながら無心になっているだろう。それと同じように座りながら無心になればそれで良い。勿論座る意味を見出そうとしても問題なく無心に誘われるはずだが、意味を見出そうとした分無心に焦点が当たりにくくなる嫌いがあるやも知れん。意味を見出そうとすると、意味ばかり考えてしまうから。
さて、9則に入ろう。大通智勝仏は道場で修行しているにも関わらず仏になれないとの事だが、なってもなれなくても同じことをするのだから、そういう事を考える必要ないと思う。修行に励むというなら、ただ修行に励めばよいと思う。修行のために修行する。仏になろうという気持ちはあっても良いが、その気持ちが我だよという事にもなる。我を滅そうと言いながら、行動では我に固執している。この矛盾を解決する良い方法は考えないこと。では、どうしたら考えずに済むかと言えば、自分は仏と凡夫に差はないと思えるというのがキッカケになった。仏になってもやる事は同じなんだから、もはや仏という言葉すら何の意味があるのかという・・・。
【10則】清税孤貧
何をやっても同じという事は、何をやっても間違いではないという事。何をやっても間違いではないという事は、すべてが正解であるという事。そんな気がしてくると、清税和尚へ言いたいことも自ずと決まってくる。それも亦良し、と。
とは言え、10則を考える上で増上慢は欠かせないのだろう。修行すれば修行するほど人間どうしても思い上がりがでてくる。自分はこんなに凄いんだ、えらいだろう、と。すると他人を見下すようにもなろうし、だれかに褒めてほしくもなる。人間臭くて良いとの趣もあるが、しかし考えてほしい。お前さんが歩んでいるのは仏道ではなかったのかな?、と。他人を見下すのが良いわけなかろうと気づけば、自分が今破戒していることに気づく。そういった自省を促すキッカケと考えるのも現実的だろう。修行に励んだ分、この初歩的なミスに自分では気づけないものだから、この公案をする妙味があるか?やはり人間初心に帰らねば。歩歩是道場である。
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