2022年12月22日木曜日

無門関 覚書 13則、14則

 【13則】徳山托鉢

ある時、弟子が老子に尋ねた、「末期の一句をお示しください」。すると老子が言われた、「いい天気だな」。弟子が言った、「はぐらかさないでください」。そこで老子は言われた、「わしははぐらかしたりせんよ。今日は富士山が見えるぞ」。弟子に何か気づきがあったようだ。


今回は末期の一句がテーマの一つと思われる描写があるため、自分の末期の一句を公案にちなんで示してみた(上記太字)。これはまだ40代で死を実感しづらい年齢というせいもあるかと思うが、生と死を分けて考えなくなってみれば、死は言わば通いなれた道という感覚になる。自分が生きているという感覚は結果論的であり、実際に無心になってから意識が戻るかは、戻ってみなければ分からない部分がある。この戻らないことを死と称しているのであるから、死とは無心のまま居つく事のように思える。ならば死を特別視することがあろうか?こう考えてみると、死にも不思議と親近感がわくものだ。では死を怖くないのかと言われると、怖い。拒否反応は出るだろう。では親近感と言う言葉と矛盾しているではないかと言われると返す言葉もないと言うか、同時にだと答えたい。通いなれた道という親近感もありつつ、同時に怖いのだ、と。ここら辺をとらえて般若心経で無老死亦無老死尽とあるのではなかろうか?恐怖は人間に備わった生存本能にねざした感情であろうから、なくそうと頑張らないほうが良い気はする。

さて、13則だが、雪峰の食事の合図もないのに何処に行かれるおつもりか?という質問に答えるなら無心、または其れも亦良し、と評したい。厳頭の末期の一句を得ていないという発言に対しては、末期の一句という考え方自体しなくなるという事実をもって末期の一句という気がする。つまり、得ていなくて良い。厳頭が徳山に耳打ちした内容は、「そのまんまで良いんだよ」とでも言っておこう。








【14則】南泉斬猫

和尚、道は示されていたはずですよ?

とは言え、これも一つの分別か。

みんなアベコベですな。










2022年12月16日金曜日

無門関 覚書 11則、12則

 【11則】州勘庵主

相手のことだけを考える。すると自己を忘れる。これが無我であり、慈悲の勘所か?そして、自分のために生きるという感覚が希薄になっていくと、なるほど、故に縁起と言うのかという気持ちになる。「皆様の旅が良きものであることを心よりお祈りいたしております」と言う気持ちにもなり、これが般若心経の陀羅尼の心かという気がしてくる。

さて、11則に一言だけ。三千大千世界、と。






【12則】巌喚主人

何をしても同じと気づいてみれば、特にやりたくないこともなくなったが、同時に特にやりたいこともなくなった。では無味乾燥な世界になったかと言えばそんな事はなく、空や川を見てこの感じを道と言ってるのかな?と思ったりする。それは言葉にならないし、言葉にしようという気持ちも思い浮かばず、不立文字には文字を立てようとすら思わないというニュアンスがあるのかと思うくらいだ。この感覚は無心を軸に世界をとらえ直す事で得られたものなので、私の主人公は無心である。だが、軌道修正は必要である。お金があってもやる事を変わらないと思いつつも欲しくなる時は欲しくなるし、相手を優先すると心がけてはいるが自己が優先してしまう事もある。別にこれは悪い事ではないが、欲はうまくコントールしていかないと道を踏み外しやすいから意識するに越したことはない。何をしても同じという理屈の上では気にすることない話だが、実践の上では致し方ない事と思う。浮世の義理と言うべきか。この辺に彦和尚の工夫を感じる。無無明亦無無明尽と言うことなのだろう。

結論として、12則は「喝!!」と吹き飛ばしたくなるような話である。なお、「騙されてはいけませんぞ」とあるが、誰が騙すのか?それは思考である。こんなことを考えていると、夢と現実の区別もあったものではないなと思う。







2022年12月9日金曜日

無門関 覚書 9則、10則

【9則】大通智勝

座っていれば仏になれるのか?という南岳和尚の問いかけを思い出すが、この問いかけは修行者にとって重要な意味があるのだろう。なんせ仏になるためにわざわざ出家してるのだ。座って仏に到達できなければ、なんのための座禅か、と。しかし、同時にこうも思うのだ。仮に座って仏になれたとして、その後どうするつもりなのだ?、と。仏になっても、なれなくてもやる事は変わらないではないか。ならば何故座禅するのか?と問われれば、知らんと言うほか無い。そういう風に考えるようになると、只管打坐も合点がいく。座るために座ればいいのだ、と。普段散歩しながら無心になるだろうし、掃除しながら無心になっているだろう。それと同じように座りながら無心になればそれで良い。勿論座る意味を見出そうとしても問題なく無心に誘われるはずだが、意味を見出そうとした分無心に焦点が当たりにくくなる嫌いがあるやも知れん。意味を見出そうとすると、意味ばかり考えてしまうから。

さて、9則に入ろう。大通智勝仏は道場で修行しているにも関わらず仏になれないとの事だが、なってもなれなくても同じことをするのだから、そういう事を考える必要ないと思う。修行に励むというなら、ただ修行に励めばよいと思う。修行のために修行する。仏になろうという気持ちはあっても良いが、その気持ちが我だよという事にもなる。我を滅そうと言いながら、行動では我に固執している。この矛盾を解決する良い方法は考えないこと。では、どうしたら考えずに済むかと言えば、自分は仏と凡夫に差はないと思えるというのがキッカケになった。仏になってもやる事は同じなんだから、もはや仏という言葉すら何の意味があるのかという・・・。











【10則】清税孤貧

何をやっても同じという事は、何をやっても間違いではないという事。何をやっても間違いではないという事は、すべてが正解であるという事。そんな気がしてくると、清税和尚へ言いたいことも自ずと決まってくる。それも亦良し、と。

とは言え、10則を考える上で増上慢は欠かせないのだろう。修行すれば修行するほど人間どうしても思い上がりがでてくる。自分はこんなに凄いんだ、えらいだろう、と。すると他人を見下すようにもなろうし、だれかに褒めてほしくもなる。人間臭くて良いとの趣もあるが、しかし考えてほしい。お前さんが歩んでいるのは仏道ではなかったのかな?、と。他人を見下すのが良いわけなかろうと気づけば、自分が今破戒していることに気づく。そういった自省を促すキッカケと考えるのも現実的だろう。修行に励んだ分、この初歩的なミスに自分では気づけないものだから、この公案をする妙味があるか?やはり人間初心に帰らねば。歩歩是道場である。