【13則】徳山托鉢
ある時、弟子が老子に尋ねた、「末期の一句をお示しください」。すると老子が言われた、「いい天気だな」。弟子が言った、「はぐらかさないでください」。そこで老子は言われた、「わしははぐらかしたりせんよ。今日は富士山が見えるぞ」。弟子に何か気づきがあったようだ。
今回は末期の一句がテーマの一つと思われる描写があるため、自分の末期の一句を公案にちなんで示してみた(上記太字)。これはまだ40代で死を実感しづらい年齢というせいもあるかと思うが、生と死を分けて考えなくなってみれば、死は言わば通いなれた道という感覚になる。自分が生きているという感覚は結果論的であり、実際に無心になってから意識が戻るかは、戻ってみなければ分からない部分がある。この戻らないことを死と称しているのであるから、死とは無心のまま居つく事のように思える。ならば死を特別視することがあろうか?こう考えてみると、死にも不思議と親近感がわくものだ。では死を怖くないのかと言われると、怖い。拒否反応は出るだろう。では親近感と言う言葉と矛盾しているではないかと言われると返す言葉もないと言うか、同時にだと答えたい。通いなれた道という親近感もありつつ、同時に怖いのだ、と。ここら辺をとらえて般若心経で無老死亦無老死尽とあるのではなかろうか?恐怖は人間に備わった生存本能にねざした感情であろうから、なくそうと頑張らないほうが良い気はする。
さて、13則だが、雪峰の食事の合図もないのに何処に行かれるおつもりか?という質問に答えるなら無心、または其れも亦良し、と評したい。厳頭の末期の一句を得ていないという発言に対しては、末期の一句という考え方自体しなくなるという事実をもって末期の一句という気がする。つまり、得ていなくて良い。厳頭が徳山に耳打ちした内容は、「そのまんまで良いんだよ」とでも言っておこう。
【14則】南泉斬猫
和尚、道は示されていたはずですよ?
とは言え、これも一つの分別か。
みんなアベコベですな。