2022年4月1日金曜日

無門関 覚書 自序、1則、2則

【0則】自序より「大道無門」

大いなる道と言われると、何処か見知らぬ場所に大いなる道があるように思えるかも知れない。大いなる道が何処にあるのか分からないから悩んでいるのが普通であろうから。しかし、そうではない、お前さんがいる場所こそが大いなる道の上だと言うのが大道無門だ。大いなる道はどこか遠くにあるのではない。実際はその逆で、人は何もせずともすでに大いなる道の上にある。そこに門があるとするなら、大いなる道の外に出て行くための門があるだけだ。門を通って大いなる道に至るのではなく。大いなる道から門を通って外に出ていってしまう。この世界観の逆転が面白い。




【1則】趙州狗子

素直に犬になりきって見れば良いのではないか?犬になりきったとき、そこにこれが仏性だと考える余地はない。ただ、無心に犬になっているはず。その無心の部分が仏性だと思う。無心という感覚のなかでは、仏性どころか犬という存在すら無いに等しい。ゆえに趙州和尚は犬に仏性無しと言っているだと思う。と言うのも、この無心の存在に気づくと、色々なものが無心に見えてくる。花も無心に咲いているように見えるし、木も無心に木をやっているように感じれる。今回の公案の題材となった犬にしたって無心に生きているように見えてくるのだ。一切衆生悉有仏性と言って犬にも仏性はあると言われたお釈迦様、逆に犬に仏性無しと言う趙州和尚、どちらが正しいのか考えたくなるところだが、表現こそ違えど同じことを言っていると気付くことが肝要ではないか。趙州和尚の無に触れてみれば、お釈迦様が言われた一切衆生悉有仏性は、なるほど、見たまんま言っているだけと分かるから。

なお、自分は無心という感覚で人生を捉えなおしたとき、今まで同じことをやってきたと気付いた。自分は生まれてこの方、ただ無心をやってきただけだったのだ。人生は無心に至るプロセスの連続にすぎないのかも知れない。




【2則】百丈野狐

生まれてから今まで同じことをしてきたんだと言う感覚になってみると、世の中のことがなだからになると言えば良いか、今まで違うものとしてしか捉えていなかった事象が本質的には同じものだったと感じるようになる。例えば、掃除とランニングで考えてみよう。普通は掃除とランニングは違う作業に見えるはず。違う作業だからこそ名前が違うのだし、当然と言えば当然違う作業なのだが、これを無心に焦点を当てて捉えなおしてみると全く同じ作業に見えてくるから不思議だ。

まず掃除から考えてみる。掃除をしていると、最初こそ掃除をしているという意識があるが、掃除している間に無心になってしまうはず。そして、無心になると、いつの間にか意識が戻ってくるだろう。で、また無心になる。こういうプロセスをたどるはずだ。では、ランニングはどうかと言うと、これが驚くほどピタリと同じで、最初こそランニングをしているという意識はあるが、走っている間にいつの間にか無心になるはず。で、走っている間に意識が戻ってきて、またいつの間にか無心になる。これを繰り返すのがランニングだ。そこで、こう考えてはどうか?掃除もランニングも無心になるための入り口に過ぎず、実際は無心をやっているのだ、と。すると、掃除とランニングに差はなくなる。掃除とランニングが同じ作業になる。そう見えてくると、掃除は面倒だから嫌だとか、ランニングは趣味だから好きと言う感覚も薄れていく。同じ作業なのだから、特に選り好みする理由が無くなるからだ。今回はたまたま掃除とランニングで説明したが、勿論これは掃除とランニングだからこそ言える話ではなく、ありとあらゆることに言える感覚となる。

さて、前置きが長くなってしまったが、要はこの感覚をもって因果を捉えてみようと言いたいのだ。百丈野狐の公案が言いたいのは、因果に対し選り好みしない。ただそれだけの事だと思う。ゆえに百丈和尚は不昧因果と言った。最後に黄檗が求めた正しい答えを百丈和尚に代わって言っておこう。お前さん、そのまんまで良いんだよ、と。


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