2019年9月6日金曜日

里仁 第四 9

【口語訳9】

孔子先生がおっしゃった。道を志すと言いながら粗末な服装や食事を恥と気にするなら、まだ共に語りあう同志としては足らない。



【解説】

粗末な服装や食事を気にする者は同志としては足らない理由は、具体的に考えて見ると分かりやすい。例えば、金と引き換えに、同志を売れと迫られた状況を考えて欲しい。この時、仁の人ならば、金では同志は売れないと言って断るだろう。仁の人にとって最も大切なのは、自分が不仁な行為を犯さない事だから。だが、粗末な服装や食事を恥と感じている者に、同じ事が言えるかと言うと、私には自信が無い。何故なら、粗末な服装や食事を恥と気にする事は心の迷いの現れであり、心に迷いがある時点で、まだ仁の道を本当に志しているとは言えない。故に、孔子は語り合う同志としては足りないと言う評価を下すのだろう。

同志の条件を示唆した今回の孔子の言葉は、若ければ若いなりの赴きのある言葉になるが、特に孔子が政争に敗れ、魯を追われて漂浪する事になった50代の半ばからの境遇を考えると良いかも知れない。孔子の言葉に切実さを感じれる。この頃を孔子は耳順と評しているが、耳順う相手が仁の人でなければ、とても信頼が置けなかったはず。頼る相手が粗末な服装や食事を気にしているようでは、いつ裏切られるか分かったものでは無いのだから。こう考えて見れば、粗末な服装や食事を恥と気にするなら、まだ共に語りあう同志として足らないのは当然となる。



(以下、他の解釈)


1、学徒にあっては

学問修養をしている者にとっては、余計な事を考えている暇があるのかという激励の言葉になろう。学業に専念すべき時分に、服装や食事に気がいくようでは、中途半端に終わるのは目に見えている。これを現代で例えるなら、彼女のできた高校生の成績が落ちるようなもので、彼女とトップクラスの成績の両立は難しい。道を志すならば、まずは道のみに専念する。他の事には興味関心がないくらいでなければ、とても覚束ないもの。当然に語り合う同志としては足りない。




2、官僚として

官僚として考えると、粗末な服装や食事になるようでは、賄賂が集まっていない事を意味するから、純粋に能力的にどうかという問題もある。中国の場合、日本とは違い賄賂は悪い事と考えられていないため、特に求めなくても勝手に持ってくる。したがって、賄賂も集められない官僚は融通が利かない官僚と言うべきか、人間的に何か問題がある疑いもでて然るべきだ。賄賂のために道を志すのであれば君子とは言えず、小人という事になるが、君子なれば賄賂は集まって然るべき土壌が中国にはある。そもそも仁の人ならば助けたくなるのが人情だし、利にさとい人ほど、仁の人を盛り立てて後ろ盾になってもらいたいと考える。これをどう考えるかだが、語り合う同志としては足りないという見方も一興だろう。

また、孔子の50代のように、道を貫いた結果として粗末な服装や食事に甘んじる事になった場合ならば、本来は本望とも言うべき状況のはずだ。それを後になって粗末な服装や食事になってしまった事を恥るのでは、道に対する信念が足らないと言わざる得ない。これは人としての言行一致が見られないと言っても良く、当然、語り合うべき同志として足りなくなる。言行が一致しない人間と語り合っても仕方ない。




3、教訓として

君子たるは難く、小人たるは易しい。常日頃から心の置き方には注意しなさい。ふとした瞬間にそれが出てしまうから。






0 件のコメント:

コメントを投稿