【18則】麻三斤
見たまんま 感じるまんま そのまんま
麻は一目、無心である。理屈はいらない。無心の存在を意識するようになると不思議なものだ。ありとあらゆるものが無心に見えてくるらしい。だから無心に見えるのは別に麻に限った話ではない。天地自然すべてが無心に見えてくる。この無心をとらえて仏と言っているなら、お釈迦様の言葉として伝わっている山川草木悉有仏性は見たまんまの感想とわかる。こんなことを考えて一年くらい経ったが、心境と言うのは勝手に進むらしい。修行らしい修行をしていたわけでは無いにも関わらず、最近は目の前の空間をこの上ない宝だと認識するようになってしまった。自分は一指頭の禅を好んでいるが、どうも以前の無心に気付いたという答えでは足りなかったようだ。今は目の前に宝があるから、それを感じるまんま指で示しただけと思っている。こう考えてみると、直指人心もそのまんま言ってるだけとわかる。
礼拝の行と聞いて思い浮かぶ絵は、光さす静寂の中でただ礼拝する和尚の姿だ。その姿を思い浮かべるとまさに禅と言う感じがする。こういう話を聞くと、自分に足りないのは実践だなと思わされる。麻三斤もどう実践するのかと言うと、非常に困る命題だ。そこにあるものが宝なのだから、実践もなにもそこにあるだろうという感じもするし、嫌な気分になったときに速やかに平常心に戻るのが行なのだと言えば、そんな感じもする。八風吹けども動じずを実践できたとき麻三斤が透過されるのだろう。
掃除の際にでる塵やホコリも丁寧に扱えとの、山本老子の教えが胸に響いた。掃除は良くするが、塵やホコリにまでは気が行届かなかった。言われてみれば、確かにそのほうがよさそうだ。
この虚空を見よという話を読んで、自分の感覚もあながち悪くなさそうだと思えた。実際に自分は虚空を見て文章を書いているのだ。表紙で横たわる猫も虚空を見ると何とも言い難い趣を味わえる。この猫は人生は礼拝行と思えた時の横田和尚なのだろうか。