2023年1月24日火曜日

無門関 覚書 18則 

 【18則】麻三斤

見たまんま 感じるまんま そのまんま

麻は一目、無心である。理屈はいらない。無心の存在を意識するようになると不思議なものだ。ありとあらゆるものが無心に見えてくるらしい。だから無心に見えるのは別に麻に限った話ではない。天地自然すべてが無心に見えてくる。この無心をとらえて仏と言っているなら、お釈迦様の言葉として伝わっている山川草木悉有仏性は見たまんまの感想とわかる。こんなことを考えて一年くらい経ったが、心境と言うのは勝手に進むらしい。修行らしい修行をしていたわけでは無いにも関わらず、最近は目の前の空間をこの上ない宝だと認識するようになってしまった。自分は一指頭の禅を好んでいるが、どうも以前の無心に気付いたという答えでは足りなかったようだ。今は目の前に宝があるから、それを感じるまんま指で示しただけと思っている。こう考えてみると、直指人心もそのまんま言ってるだけとわかる。





礼拝の行と聞いて思い浮かぶ絵は、光さす静寂の中でただ礼拝する和尚の姿だ。その姿を思い浮かべるとまさに禅と言う感じがする。こういう話を聞くと、自分に足りないのは実践だなと思わされる。麻三斤もどう実践するのかと言うと、非常に困る命題だ。そこにあるものが宝なのだから、実践もなにもそこにあるだろうという感じもするし、嫌な気分になったときに速やかに平常心に戻るのが行なのだと言えば、そんな感じもする。八風吹けども動じずを実践できたとき麻三斤が透過されるのだろう。





 掃除の際にでる塵やホコリも丁寧に扱えとの、山本老子の教えが胸に響いた。掃除は良くするが、塵やホコリにまでは気が行届かなかった。言われてみれば、確かにそのほうがよさそうだ。





この虚空を見よという話を読んで、自分の感覚もあながち悪くなさそうだと思えた。実際に自分は虚空を見て文章を書いているのだ。表紙で横たわる猫も虚空を見ると何とも言い難い趣を味わえる。この猫は人生は礼拝行と思えた時の横田和尚なのだろうか。




2023年1月20日金曜日

無門関 覚書 17則

 【17則】国師三喚

静けさや ああ静けさや 静けさや

国師におかれましては、

ご健勝のこと、誠におめでとうございます。





好事不如無 = 好事如無

趙州和尚が僧を棒でたたいたそうだが、実は自分も仏像を拝もうという気持ちにはならない。丹霞和尚が仏像を焼いた話は分かる。お釈迦様が亡くなられた当初、仏像が作られなかったという話も分かる。遺言云々という話が伝わっているようだが、そもそも仏像を作ろうという発想に至らないのが理由と思っている。




2023年1月14日土曜日

無門関 覚書 16則

 【16則】鐘声七條

金色の 袈裟を着込んだ 枯れ芝生

辿り着いたは 兜率天かな


最近、運動中に思っていることを短歌にしてみた。

雲門和尚の日日是好日に因んで自分も一句言っておく。

日日是提唱、と。






道は日常ありふれたものでありながら、これに勝る宝は無いように思わせてくれるものではなかろうか。では道とは何かとなるが、道が知りたければ動画に使われいる画像を見ると良い。画像には道がありありと現れているから。これ得難きか、得安きか?得られたならば法華経の衣裏繋珠が実感できるはず。



2023年1月1日日曜日

無門関 覚書 15則

 【15則】洞山三頓

あるとき弟子が老子に尋ねた、「達磨大師は幼年のころ、世界で最も素晴らしい宝は法の宝であると言われたそうですが、法の宝は何処にあるのでしょうか?」。老子が言われた、「空を見てごらん」。弟子が空を見ると老子が言われた、「真実一路」。


TVドラマを見ていた。そこに登場した飲食店に真実一路という言葉が飾ってあった。以前なら何も思わずに通り過ぎたであろう。だが、禅を学んでいるからなのだろう。見た瞬間心に来るものがあった。そういう意味だったのか、と。そして出来上がったのが上記の公案(太字)である。しかし達磨大師も良く言ったものだ。世界で最も素晴らしい宝は法の宝と言われてみれば、確かにこれ以上の宝は無いように思える。と言うのも、ごくありふれた風景のなかに宝があると気づいてみれば、最も欲しいものは手に入っている、こういう感覚が生まれるからだ。しかもこの宝は奪われる事もないし、何処にでもある。まったく言う事がない。あとは其れと一つになれば良いだけなのである。なお、座禅はこの宝と一つになるいい練習なのだろう。自分は座禅を初めてまだ数週間で経験が浅いが、そんな気がしている。あらゆる場面が座禅と同じ要領のように思えるのだ。

さて、15則だが、心境告白の意味で「比べねば、苦しむことも、無かりけり」と言っておこう。とは言え、一指頭の禅をやりたくなる。真似はいけないと言われても、とっさに動くなら一指頭の禅をやってしまいそうだ。無門和尚の叩かれたほうが良かったか、叩かれないほうが良かったかという問いについては、何方でも良いと言うべきか、悟るかどうかには関係ないと言うべきか。雲門和尚は脚を折ったとき悟ったと言われているし、お釈迦様は座禅して明けの明星を見て悟ったと言われている。自分はまだ修行中の身なれど、般若心経の色即是空を解説しようとしたときに、ふと頭によぎった感覚がブレイクスルーになった。その感覚を一番若いころで思い出すのはスキーをやっている姿なので、おそらく子供のころにはすでにあった感覚だが、まさかこれを言っているのかという感じだった。しかし、この事を言っているなら自分は40年間同じことをしてきた事になると思えて、その時に色即是空・空即是色が解けた気がした。般若心経を自分の感覚で解説できるようになったのだ。これとは勿論無心の事である。叩く叩かないはメリハリをつける狙いであったのだろう。人間追い込まれると、死中に活を求め、何かしらの光明を見出すものである。だいたいは外れるが、たまには当たるものだ。