2022年4月6日水曜日

無門関 覚書 3則、4則、自作の公案

 【3則】倶胝竪指

仏法の肝要を聞かれた倶胝和尚は指を立てて見せたそうだが、その心は何だろう?これを考える上での難所は無門和尚の言葉にあると思われる。無門和尚は最後にこう言っている。倶胝和尚の言わんとする本当の所が分かったなら、天竜和尚や倶胝和尚、小僧とともにお前も一串に刺し貫かれるであろう、と。これが重要なチェックポイントな気がする。少なくとも一串に刺し貫かれるような衝撃を受けなければ、無門和尚と同じ視点で公案を見たことにはならないから。

具体的に考えてみる。例えば、般若心経におなじみの色即是空ではどうか?仏教を少しでもかじった事があるならば、誰でもこの空と言う言葉を知っている。すると、倶胝和尚が指を立てた意味は空を指すと考えたくなる。勿論その答えは間違ってはいないだろう。空は確かに仏法の肝要のはず。しかし、問題は無門が言うような一串に貫かれるというほどの衝撃があったかである。自分には無かったので、そこまでの衝撃があるものかなと最初は軽く流していた。今考えてみると、これでは無門和尚が用意した一串に刺し貫かれるという関門をクリアしたとは言えない。では、趣を変えて縁起と答えてはどうか?お釈迦様と言えば縁起の教えである。仏法の肝要を聞かれた倶胝和尚は指を立ててみせる。その真似をした小僧の指を倶胝和尚が切ってしまう。これが縁起のなせる業でなくて何だというのか。そうか、倶胝和尚は縁起を示したのだ、と。理屈で答えをだせば良いのであれば、縁起という答えは立派なものだと思う。とても間違いとは思えない。しかし、やはり問題は一串に貫かれるというほどの衝撃があったかである。残念ながら、自分には無かった。

こういう風に考えていくと、倶胝竪指の奥の深さが味わえる。思うに、自分で考えた答えでなければ、一串に刺し貫かれるといったほどの衝撃は受けないのであろう。色即是空の空にしたって、縁起にしたって、仏法の肝要には違いないはずである。だが、その答えをペーパーテストの感覚で示しても、刺し貫かれるほどの衝撃は無かった。自分が刺し貫かれるほど衝撃をうける答えを自分で見つけ出しなさい。これが倶胝竪指のメッセージなのだろう。とは言え、自分は指をあげたときに垣間見える無心の存在に気づいたとき、一串に刺し貫かれたほどの衝撃が走った。思わず指は関係ないのかよって言ってしまった。だから思う。この公案の言わんとする心は、動作に意味なんか無いってことに尽きるのだろう、と。余談だが、お釈迦様は縁起に気づいたときに衝撃を受けたはずである。しかし、自分は縁起に気づきながら衝撃を受けないのは何故か?その感覚の差はどこから生まれているのか?この感覚の差を埋めるのが難しい。



------ 2024年6月2日追記 -----




具鄭和尚の代わりに答えてみよう。

実際尼 「言い得ば即ち笠を下ろさん」

自分  「実際さん」





【4則】胡子無髭




この画像は少女が僧侶に合掌しているように見えるだろう。だが、この僧侶達は真実の姿なのだろうか?仮初の姿ではないのか?無心という感覚で世界を捉えなおすとそういう気持ちになる。無心こそ真実であり、僧侶の姿は仮初にすぎない気がしてくるのだ。と言うわけで、今回の或庵和尚の質問が出てくるのだろう。達磨は一体どういうわけで髭がないのか?、と。だからこう答えよう。もともとありませんでしたよ、と。

余談だが、自分で公案を作っているときに、お釈迦様の手のひらに包まれたような体験をしたことがある。今思い返してみると夢を見ただけだったかも知れない。だが、確かにお釈迦様の手のひらは暖かかった。こういう体験をしたせいか、無門和尚が言う、一度は達磨と対面しなくてはいけないとか、分からぬ奴に夢を説くなとの言葉が不思議な響き方をする。




【自作の公案】

題名 ・・・ 潭至草書

制限時間 ・・・ 3日

出題 ・・・ A3のコピー用紙に如何是仏と左上に書いておく。

無心曰く「さて、無門和尚への感謝の念からこんな公案ができあがったが、難しかっただろうか?それとも簡単すぎただろうか?難しいと思うなら仏のことは仏に聞くのが一番なのだが、あのお釈迦様の素晴らしき霊鷲山の集いはまだ何処かで続いていないものだろうか。ともかく、ネットや本、友人と考えうるあらゆる手段を使って答えを出して欲しい。世間では何処まで行っても釈迦の手のひらの上だったという話もあるようだが、本当にお釈迦様の手はそんなに大きかったのだろうか?まったく奇怪千万な話である。」

詩「西に遊びにおいでよと、仏の国があるからさ、気軽に旅路に出てみれば、難行苦行の大嵐。だまされたと気付いてみれば、お陰で痛快、呵々大笑。振り返ってみれば、何とも心地よい旅だったなぁ。最後の一句をつけてくれ。合掌。」


なお、自分のことを無心(仮)と名付けたので、無心禅師としてコメントした。如何是仏と言うありきたりな質問だが、シンプル・イズ・ベストである。一応、現代のペーパーテストのやり方にちなんで、A3のコピー用紙に書いて大勢に配れるようにしたところが工夫となる。もしくは差出人不明で封筒の裏に潭とだけ書いてある手紙をしたためても面白いかも知れない。また、自分は漢詩の素養がないため、詩は日本語で作ってみた。



2022年4月1日金曜日

無門関 覚書 自序、1則、2則

【0則】自序より「大道無門」

大いなる道と言われると、何処か見知らぬ場所に大いなる道があるように思えるかも知れない。大いなる道が何処にあるのか分からないから悩んでいるのが普通であろうから。しかし、そうではない、お前さんがいる場所こそが大いなる道の上だと言うのが大道無門だ。大いなる道はどこか遠くにあるのではない。実際はその逆で、人は何もせずともすでに大いなる道の上にある。そこに門があるとするなら、大いなる道の外に出て行くための門があるだけだ。門を通って大いなる道に至るのではなく。大いなる道から門を通って外に出ていってしまう。この世界観の逆転が面白い。




【1則】趙州狗子

素直に犬になりきって見れば良いのではないか?犬になりきったとき、そこにこれが仏性だと考える余地はない。ただ、無心に犬になっているはず。その無心の部分が仏性だと思う。無心という感覚のなかでは、仏性どころか犬という存在すら無いに等しい。ゆえに趙州和尚は犬に仏性無しと言っているだと思う。と言うのも、この無心の存在に気づくと、色々なものが無心に見えてくる。花も無心に咲いているように見えるし、木も無心に木をやっているように感じれる。今回の公案の題材となった犬にしたって無心に生きているように見えてくるのだ。一切衆生悉有仏性と言って犬にも仏性はあると言われたお釈迦様、逆に犬に仏性無しと言う趙州和尚、どちらが正しいのか考えたくなるところだが、表現こそ違えど同じことを言っていると気付くことが肝要ではないか。趙州和尚の無に触れてみれば、お釈迦様が言われた一切衆生悉有仏性は、なるほど、見たまんま言っているだけと分かるから。

なお、自分は無心という感覚で人生を捉えなおしたとき、今まで同じことをやってきたと気付いた。自分は生まれてこの方、ただ無心をやってきただけだったのだ。人生は無心に至るプロセスの連続にすぎないのかも知れない。




【2則】百丈野狐

生まれてから今まで同じことをしてきたんだと言う感覚になってみると、世の中のことがなだからになると言えば良いか、今まで違うものとしてしか捉えていなかった事象が本質的には同じものだったと感じるようになる。例えば、掃除とランニングで考えてみよう。普通は掃除とランニングは違う作業に見えるはず。違う作業だからこそ名前が違うのだし、当然と言えば当然違う作業なのだが、これを無心に焦点を当てて捉えなおしてみると全く同じ作業に見えてくるから不思議だ。

まず掃除から考えてみる。掃除をしていると、最初こそ掃除をしているという意識があるが、掃除している間に無心になってしまうはず。そして、無心になると、いつの間にか意識が戻ってくるだろう。で、また無心になる。こういうプロセスをたどるはずだ。では、ランニングはどうかと言うと、これが驚くほどピタリと同じで、最初こそランニングをしているという意識はあるが、走っている間にいつの間にか無心になるはず。で、走っている間に意識が戻ってきて、またいつの間にか無心になる。これを繰り返すのがランニングだ。そこで、こう考えてはどうか?掃除もランニングも無心になるための入り口に過ぎず、実際は無心をやっているのだ、と。すると、掃除とランニングに差はなくなる。掃除とランニングが同じ作業になる。そう見えてくると、掃除は面倒だから嫌だとか、ランニングは趣味だから好きと言う感覚も薄れていく。同じ作業なのだから、特に選り好みする理由が無くなるからだ。今回はたまたま掃除とランニングで説明したが、勿論これは掃除とランニングだからこそ言える話ではなく、ありとあらゆることに言える感覚となる。

さて、前置きが長くなってしまったが、要はこの感覚をもって因果を捉えてみようと言いたいのだ。百丈野狐の公案が言いたいのは、因果に対し選り好みしない。ただそれだけの事だと思う。ゆえに百丈和尚は不昧因果と言った。最後に黄檗が求めた正しい答えを百丈和尚に代わって言っておこう。お前さん、そのまんまで良いんだよ、と。